学級崩壊
学校の存在意義・揺るがす危機に
教師に反抗、授業成立せず
子供が教師の言うことを聞かず、授業が成立しなくなってしまう「学級崩壌」が全国の学校で進行しつつあるという。東京学芸大学の松村茂治教授は、この問題についでは、子供の変質のみでなく、家庭や学校、社会のあり方についても視野に入れて考えなくてはならないと指摘、集団生活の場としての学校の存在意義・が根底から揺さぶられていると憂慮する。
東京学芸大学教授 松村 茂治
今、日本のあちこちの学校から、「学級崩壌」と呼はれる現象が報告されて来ている。教室の中が騒然として、落ち着いて授業を進めることができなくなるばかりでなく、教師と子供たちの信頼関係、子供同士の友好的な関係が成立しなくなってしまうのである。しかも、最近の特徴は、こうした現象が小学校でも多く起こるなど、「低年齢化」が著しいことである。
体調崩したり退職も
私は、教職について間もない人からベテランと言われる人まで、この問題を体験した何人かの教師に会って話を聞いてきた。
彼らの話をまとめると、以下のようになる。
始業のベルが鳴ってもなかなか教室に入ろうとしない。授業中のおしゃべりや立ち歩きがなくならない。宿題や道具を忘れて平気でいる。指示に従わず、課題に取り組まず、注意すれば食ってかかる。教室の中は騒がしく、教師の声がクラス全員に届かない。静めようとする教師の大声に、子供たちの気持ちは一層離れる。そして、騒ぎと叱責(しっせき)の繰り返しに、雰囲気はますます険悪なものになる……。
こうした状況に身を置き続けた結果、体調を崩して病院通いを余儀なくされたり、休職や退職に追い込まれた教師もいる。
子供たちが、教師の言うことを聞かなくなるということは、今に始まったことではない。学校教育の中では、子供たちをある一つの枠の中に入れようとする教師と、そこからはみ出しがちな子供たちとの間で、絶えず「つばぜり合い」が繰り返されてきた。
しかしながら、確たる証拠があるわけではないが、昨今の「混乱」は、かつての「つばぜり合い」とは質を異にしているように思えてならない。
混乱への潜在力蓄積
これまで、教師への反発・反抗は、比較的年齢の高い子供たちに特有の現象と考えられてきた。ところが、今、教室の混乱が、中学や高校だけではなく、小学校でも起きている。小学生の子供たちが、「課題はやりたくない」「おまえなんかに言われたくない!」と、教師に背き、悪態をつくのである。子供同士のいがみ合いも多発している。
しかも、混乱を引き起こすのは、特定の子供というわけではない。「ツッパリ(の予備軍?)」と言われる子供もいないわけではないが、それほど際だった子供というわけではない。数人の子供が混乱をリードし、その何倍かの子供たちが同調することで、混乱が学校全体に広がるのである。多くの同調者が出ると言うことは、クラスの中に、混乱に向けての潜在的な力がそれだけ蓄積されているということでもある。
「質の違い」を最も感じるのは、子供たちの中に、悪いことをしているという意識が欠けているか、あっても極めて希薄だと思われる点である。彼らの行動は、思うところがあって、教師や学校、権威に反抗していると言うよりは、善悪の区別がつかないための無方向的な行動、学校が求めるものとは異なった価値観に基づく奔放な言動のように思えるのである。
そういえば、最近、大学(私の勤務する大学は、教員養成大学である!)での講義の最中に、ジュースやコーヒーを飲んでいる学生の姿が目につく。彼らは私に反抗しているわけでも、講義を軽んじているわけでもない。のどが渇けば水分を取るのは当然と考えて、そうしているようなのである。
教師の力量が問われるべきではないかという意見もあるだろう。少なくとも、私の出会った教師たちの多くは、「事件」に遭遇するまでの十年、二十年の間、この世界で一定の成果を上げ、それなりに自信を持ってきた人たちであった。そういう「力のある」教師が、異口同音に子供たちが変わってきたと感じ、それまで有効だったやり方が通用しなくなったことに戸惑いを感じているのである。
伝統的手法通用せず
学校の中で伝続的に採用されてきたことに固執すればするほど、子供たちが離れていくことに、彼らは自信を喪失している。教師(あるいは学校)が子供たちの変化について行けなくなってきたのだと言われれば、そういう側面もあると思う。子供たちが主体的に取り組み、興味を感じることのできる授業や、子供たちの心をつかんだ学級の運営ができているのかという点も見逃すことはできない。今の教育制度や教育環境の中で、そういうことが本当に可能なのかという心配もある。この問題については考えなくてはならないことがたくさんあるが、子供たちは先生の言うことなら素直に聞くものだという時代ではなくなってきたということだけは確かなようである。
学級崩壊の問題は、反抗的な一人二人の子供と、それを押さえることのできない非力な教師との間の個人的なレベルの問題ではなく、集団生活の場としての学級(ひいては学校)が、その存在意義を根底から揺さぷられている現象なのではあるまいか。
「以前だったら中学校で起きていたようなことが、一部の小学校高学年で起きているのは確か」----、東京都内のベテラン教師は、「学級崩壌」にっいて、こう説明する。
かつては、小学校高学年の担任は、子供に余り手がかからないので楽だと言われた時期もあった。しかし今では、一部の学校では高学年の担任を嫌がるムードがあり、転任直後の事情を知らない教師に高学年担任を〃押しつける〃こともあるといわれる。
この教師は、学級崩壊について、「教師の指導力の問題も多少あるかも知れないが、それよりも子供が変わったため」と指摘、さらに、子供が変わったのは、ここ十年、二十年で、親の意識が急速に変わったことと無縁ではないと語る。。
親の個人主義は急速妃進み、地域での横のつながりも無くなって、みんなの役に立とうといった気持ちは薄れた。文房具をなくしても「また、買えばいい」と言うだけで、ものの大切さを教える親が減った。我が子が担任に注意されると、「なんでそんなことで注意するの」と苦情を言う。塾と学校の教え方が違うと、塾を信用する。子供の万引きが発覚しても、子供を叱らず「お金払えぱいいんでしょ」と開き直る……。
もちろん、すべての親がこうした親ではないし、親に全責任があるわけでもない。すべての学校で学級崩壊が進んでいるわけでもない。だが、「学級崩壌」は着実に広がっていると指摘する関係者は多い。”荒れる学校”の再来を防ぐために何をすべきか、親も、行政も、学校も、もう一度、考えてみる必要がありそうだ。(横)
1997/11/30/日 掲載記事
学級崩壊の背景
1999/4/4/日
和歌山大学の松浦義満教授は「学級崩壊」の背景には子供たちの「学ぴからの逃走」があり、真の学習の意味は何なのかが、問われていると指摘。子供のための学校改革が行われないと学級崩壊はさらに深刻化すると警鐘を鳴らしている。
日本の分教育は揺らいでいる。それは、この間の文部省から発表されたおびただしい数の改革案にもうかがえるが、何よりも現実の学校に端的に見られる。小学枚の教室では今、授業中にボールを投げ合ったりゲームに興じる子供、あるいは教師の注意も聞き入れず教室から出ていく子供の姿が珍しくなくなった。中学校ならまだしも、小学校でも子供は教師に向き合っているものだという自明の風景が崩れ出している。
広がる問題のすそ野
数年前から、教育現場ではこのように授業や学級の機能がまひする状態を「学級崩壊」と呼ぷようになった。もちろんこの言葉の使用を跨躇(ちゅうちょ)する人もいる。私も当初は、この言葉が混迷する日本経済を表す「バブルの崩壊」といっな言葉を連想させるので、使用しなかった。しかし学校に出かけ、問題を抱えた学校で教師がバーンアウト(燃え尽き)し、退職に追い込まれたり、校長や教頭が崩壊した学級をリリーフする光景を目前にして、今ではこの言葉に現実味を感じるようになった。
昨年、私たちが実施した全国調査では、授業不成立を経験した教師は全体の八%だった。これは教師十二人に一人の割合で、標準規模の小学校ではどこかのクラスで「学級崩壊」が起きていたことになる。
しかし、問題はそのすそ野の広がりである。授業中の立ち歩き、テストや配布物を破ったり捨てたりする行為は三割以上の学級で見られ、授業が始まってもすぐに子供たちが教科書やノートを出さない状態は、七割の学級に及んだ。このように「学級崩壊」は現象的には学習規律や学習の構えが崩れることであるが、それは子供が単に教師の指示や注意に反抗しているというよりも、授業そのものに意欲がわかない、乗れないといった「学ぴからの逃走」が基盤にある。
というのは、子供の多くは、学習は親や教師にさせられているもので、試験や競争をくぐり抜けるため仕方のないものだと受け止めているからである。それゆえに、学習内容は自己の生き方を豊かにする知的な糧というよりも、試験が終われば忘れ去られる記号でしかなくなっている。そうした意味で「学級崩壊」とは、子供たちが真の学習とは何なのかを学校や教師に間いかけていることなのである。
増える「キレる子」
ところで「学級崩壊」の契機をつくるのは、急にパニックを起こしたり、キレたりする子供である。調査では三割の学級でこのような子供の存在が確認された。鉛筆をバキッと折る、机やいすを投げつける、あるいは隣の友達の髪の毛を抜く……。程度の違いはあるものの、突発的にこのような行為をする子供が複数いるクラスでは一人の教師の対応だけでは限界があり、やがて学級経営が困難になり「学級崩壊」に至る。
キレたりパニックを起こす子供が増えている背後には、少子化社会の家庭の問題がある。親は子供を大事にに育てていると思っている。
しかし、子供からすれば早くから親の過剰な「期待.」を背負い込んでいるのである。
例えば、スイミングやピアノなどの習い事は、子供の自発的な意思というより親の都合で行われている場合がほとんどだ。泳げたりピアノを弾ける喜びは、子供よりむしろ親の方が感受度が高く、子供は親の喜ぶ姿から「期待にこたえる」大事さを学んでいることが多い。したがって子供は日ごろから親の期待と自己の能力との間に生じるギャップにさらされているので、失敗やできないことに対する不安感やストレスを、相当ため込んでいる。今や幼児でさえ「ムカつく」「キレる」という言葉を発しているのは、このような状況の反映でもある。
学級担任制も揺れる
小学校現場では、様々な対応が始まっている。それは明治中期から現在まで続く伝統的な学級担任制も揺さぶっている。学級の持ち上がり制を廃止し年度ごとに担任が入れ替わる学校や、中学校のように教科担任制を導入する学校、崩壊学級にチームティーチングを取り入れる学校も増えている。親や地域の人たちが授業や学級の行事に参加する学校も増えつつある。
こうした試みは、複数の教師や親の目で子供を多面的に理解する点で効果的であるぼかりか、学級や学校の閉鎖性を克服し、学校を地域社会に開くうえで優れている。
しかし、問題を抱えた子供への対応だけでなく、一人一人の子供を個性的に伸ばすうえでは、現行の四十人学級には限界がある。調査では大多数の教師が十五人から二十五人の学級規模を望んでいた。もちろん、小さな学級では問題が生じないというわけではない。私が訪問した農村部の小学校では、四年生は一学級十五人だったが、パニックを起こす子供に担任は苦労していた。ただ、教師が「これが四十人のクラスだったら、とっく学級崩壊して.いた」と語ったように、小人数学級で問題が生じても深刻化させず、.初期段階で対処できるのである。
「学級崩壊」が広がった背景には、都市部を中心にした教員の高静化(若年教員が少なく、平均年齢が五十歳という職錫も珍しくない)が進行し、子供と教師のジェネレーションギャップを引き超こしている点があることは否めない。少々の財政支出を無理しても、若い教員の採用数を増やす必要がある。
今後、学校や学級のシステムそのものを子供の育ちに整合させる改革を進めない限り、問題の解決は望めないばかりか「学級崩壊」はさらに深刻化するだろう。子供のための学校改革が今、求められているのである。
※
松浦教授らは昨年、大阪府と和歌山県の小中学校教師四百十二人を対象に、新しい「荒れ」と「学級崩壊」の現状についてアンケート調査を行った。調査には小学校教師の生の声が多数寄せられた。
「何でも効率よく早くやることが良しとされているので、子供たちは常に安心できない状況にある。悩みを相談できる人が身近にいないので常に目分で処理しなくてはならない」
「家庭での愛情不足があるように思う。親が自分の子供のことを分かっていない。キレたり、パニックを起こす以前の小さな信号を見過ごしてきている結果、ことが大きくなってから気づいているのだと思う」
「友達関係でけんかをしたり思うようにならなかったりしたとき、腹を立てると自分の気が済むまでモノや人に当たってしまう。感情のコントロールのできない子供が多い」
「授業中、ノートを書いたりきちんと学習ができていないため残してでもやろうとすると、嫌がり、無理にでもやらせようとすると切れたり机を倒したりしてパニックを起こす」
「自分の気持ちを抑えられない子が増えた。やりたいことはやるが嫌なことはやらない。判断力とか忍耐力とか自制心といったものに大変乏しい」
「自分の本音も言えず、やりたいことがやれず、我慢している子、塾に縛られ親の大きな期待まで背負って頑張っている子がパニックを起こしやすい」
「期待の大きい子ほどパニックになることが多いように揮う」
(横〉
学級崩壊の背景にいじめ
1999年(平成11年)5月9日(日曜日)
小学校で深刻な問題になっている学級崩壊は、多くの専門家による様々な分析が始まったばかりだ。大阪府枚方市立桜丘北小学校の木村瀬武美教諭は、背景にあるのはいじめだと指摘、子供たちに「静かな荒れ」が広まっていると考えている。
今年一月に開催された教研集会の内容を報じる新聞は、学級崩壊に関するもの一色だった。小学校における学級崩壊がここ数年の間に急激に広まっていることを物語っている。学級崩壊とは、小学校の学級で秩序が維持できない諸現象、「授業中の立ち歩き・教師への暴言などの反抗的な行動」により授業が成り立たないことを言う。中学校では教科担任制だから学級崩壊は起こらない。むしろ中学校の問題は一昨年が「ナイフで始まりナイフで終わった」年と言われるように、少年非行である。小学校では学級崩壊、中学校では少年非行という図式が今日の教育問題と言えるだろう。
学級の土台むしばむ
学級崩壊の原因を考えると、実に様々な問題が複合的に絡まっていることがわかる。私は昨年秋、学級崩壊を考えていくきっかけになればと思い「学級崩壊」と題した本を出版した。その本の中で、具体的に子供の変化なり家庭の変化についてまとめた。どの学級にも学級崩壊が生じてもおかしくないこと、そして学級崩壊の背景には「いじめ」が存在していると指摘した。学級をコインに例えると、学級崩壊といじめは、コインの両面の関係であり、片面が見えると反対の面は見えない。どちらの面もコインを表すものであると分析したのだ。
本を書いた段階では、学級の問題を見る指標として、顕在化=学級崩壊、潜在化=いじめ、という見方をしていた。しかし、その後、いじめは単なる表裏の関係ではなく、学級の土台に巣くっていることに気づいた。というのも、学級崩懐を分析していくと、低学年の時に必ずと言っていいほど、いじめが発生しているからだ。
この場合のいじめとは、一過性のいじめではない。低学年、二年生くらいから、「物かくし」「何々菌」といったいじめが行われ、学年が進むと、ある特定の子に集中し、ひどい場合は二年、三年と長期化・固定化するいじめのことである。
いじめをしていない子供までも、自分がいじめられないために、いじめる方に回るか、傍観しているだけに終始してしまい、いじめを解決する役割を果たさない存在になるのである。これが進行すると、学級集団も質的に変化してくる。
低学年などの早い段階で、教師や保護者によっていじめが解決できる場合は、傍観音的な立場の子供に対して、いじめはいけないものという指導ができる。子供はそれを学びとる。いじめが深く潜行しないためにも、早期の解決が望まれる理由である。
「静かな荒れ」進行
いじめによる自殺事件以来、教育現場ではいじめ問題は対策が講じられ、改善されていると思われがちである。しかし実際はそれほどいじめに対応できていないのが現状である。いじめかどうか判断する校内組織もなく、担任の判断だけにゆだねられている学校も多い。こうした状況では、担任まかせとなり、いたずらなどの「意地悪」だと判断することになり、いじめを一過性のものと見誤ることになりがちだ。
問題は、低学年から中学年に起きるいじめを解決できないでいると、それを見ている子供たちは、教師や大人がこれを放置していると感じ、子供たちの中に無力感・シラケ状態が広がってくる。そしてだれか一人、学級や学年で「いじめられる」存在の子がいることで、学級・学年は安定するという皮肉な現象となる。この状態を「静かな荒れ」と呼ぶことができる。
「いじめられたくない」「いじめられっ子がいる限り自分は安全」。この二つの心が同居する。何かイビツだ。私はこの状態を仮に「ぎくしゃく感」と表現している。この状況を教師はつかみきれない。何も表面的に子供たちがぎくしゃくしているわげではない。しかし一皮むけば、いじめが.存在しているのである。例えば、給食時間、.ある子供への配膳の様子がどうもおかしく、妙によそよそしいことがある。当然、'学級の子供たちはそれを知っている。むしろ、その子への配食の仕方こそが、全員の確認行為となっているのだ。日常の一こまの、それこそ細かな部分であり、見過ごしがちになる瞬間で、いじめは起きている。教師には見つけにくいが、子供にとっては周知の事実となる。子供たちのこうした日常性の中の変化、子供たちの新しい関係、これが私が言う「ぎくしゃく感」だ。教室でのこうした実態を教師が把握できず、いじめを放置すると、教師への不信がまん延し、日常生活の上では何ごともないかのように装いながら、実は静かな荒れが進行するというように問題はむしろ拡大していく。
勉強にも集中できず
あることが引き金となり、「キレる」子供が出てくると、学級崩壊の状況になる。教師は学級を立て直すために学級会を開くなどの努力をするが、多くの子供たちが教師の投げかけに呼応することなく、静かな荒れ現象そのままにシラケている。時には、傍観音的な存在から、反抗する子供の側に回り行動することもある。教師への反抗的な行動に出るのは多くの場合男子であるが、それを女子が注意せず、ただ見ているだけ、ということがしばしばある。これも、静かな荒れが進行した結果と考えられる。
最近、マスコミでも指摘され始めている学力低下の問題も、日常生活の中で進行する「ぎくしゃく感」の影響が大きい。いじめがあると、友達との関係に気を使いすぎ、勉強に集中できなくなるのだ。
新学期になって、クラス替えがあり、子供たちは学級の新しい友だちを探すことに全力をあげている時期である。早く友達を見つけるということは、学級の中でどこかの集団に属することであり、それは子供にとっていじめに遭わない防衛策なのである。学級崩壊が生まれると何より授業成立に向けて、暴力的な行為を鎮めることが優先されるが、もう一歩踏み込んだ事前の予防対策として、低学年からのいじめ、私の言う子供たちの中にある「ぎくしゃく感」について、取り組みを進めることがあるのではないだろうか。そのためには、今一度、学校現場でいじめについて論議を積み重ねる必要性を痛感している。
※
文部省がまとめた「生活指導上の諸問題の現状」によると、九七年度一年間に教育委員会に報告されたいじめの発生件数は、小学校一万六千二百九十四件、中学二万三千二百三十四件、高校三千百三件で、。それぞれ前年度の二万千七百三十三井、二万五千八百六十二件、三千七百七十一件より減少した。同省では「いじめは絶対に許されないという意識が浸透してきた」と分析するなど、いじめ問題は一時より沈静化しつつあるようにみえる。
だが一方で、いじめの「潜在化」「日常化」を指摘する現場教師は多い。小学校のいじめの態様をみると、一、二位を「冷やかし・からかい」(二七・六%)、「仲間外れ」(二一・四%)が占め、陰湿ないじめの恒常化をうかがわせる。
いじめ発見のきっかけは「いじめられた児童からの訴え」(二九・O%)、「担任教師が発見」(二八・五%)が一、二位だったが、「他の児童からの訴え」は四位で九・七%しかなかったのも気がかりなところだ。
学級崩壊への提言
菅野純
子どもたちが立ち歩いたり、騒いたりして授業ができなくなる「学級崩壊」が小学校などで問題となっているが、その背景には、家庭や子どもたち自身の変化が隠されているようだ。カウンセリングなどを通して小学校の実情に詳しい早稲田大学教授の菅野純氏に、この問題とどう向き合うべきか、親たちへの提言をまとめてもらった。
昨年初夏、「学級崩壊」がテレビで取り上げられたころから、私に「学級崩壊状態なのでクラスの様子を見て助言してほしい」という依頼が各地の小学校から来るようになった。学級崩壊の原因については様々な意見があるが、問題の根は深く多岐にわたり、解決もたやすいものではない。多くの場合、担任教師が疲弊し、傷つき、自信喪失して、時には休職や退職にまで追い込まれていく。しかし同時に、崩壊状態になったクラスの子どもたちにとっても不幸な時期なのである。どの子も本当は楽しいクラスでニコニコしながら学校生活を送ることを望んでいるからだ。
小学校のいろいろな崩壊クラスを見ているうちに、学級をかき乱す子どもたちにもいくつかのタイプがあることに気がついた。
・無自覚タイプ=小学生になったという自覚がなく、保育園・幼稚園的感覚でふるまう ・ハングリータイプ=家庭で満たされぬ甘えを、教師との一対一の関係を強く求めるという形で満たそうとする ・社会性未学習タイプー=ルールを守る、我慢する、といった集団生活に必要な行動が十分身についていない ・発散タイプーー学校をストレス発散の場としている ・反抗タイプ=ぷつかるべき相手を求めて反抗する----である。
「学級崩壊」とひとくくりに言ってしまうと、こうした個々の子どもたちの行動の背後にある本当の問題が見えにくくなってしまう。クラスを混乱させる子どものタイプが複数あることを理解したうえで、親として、そんな子どもたちに対して何ができるのか。三つの提言をしたい。
▼新入学の感激を祝う
低学年の学級崩壊クラスでは、気持ちはまだ保育園や幼稚園のままではないか、と思われる子どもが少なからず見られる。彼らにとっては教室と先生が変わっただけで「自分は小学生になったのだ」という心の切り替えができていないのだ。かつて「小学生になること」は、これまでとは一段違った何かになることだった。地域や家庭でもそうした成長の節目を祝い、そうすることで子どもは幼さから脱皮をとげた。しかしいま、子どもは幼少期から幼稚園や保育園、習いことなどで学校と似た生活を体験してきている。新入学を迎える時、それぞれの子ども、そして家庭にどれだけの感激があっただろうか。ささやかでもよいから、その感激を祝いたい。そして子どもには「小学生になる」ことのψ覚悟。を伝えたい。
▼十分な愛情を与える
一対一の関係(二者関係)を教師に強く求めてくる子が少なくない。自分だけを相手にしてほしい、自分だけの先生であってほしい、とする子どもだ。集団に向けて教師が指示しても、その時は全く聞いていない。いま指示したばかりのことを「これどうやるの?」と聞きに来る。一対一で説明してはじめて聞く耳をもつのである。授業妨害する子どもでも、一対一で相手をすれば「いい子」であることが少なくない。学級崩壊クラスにはこうした二者関係を教師に強く求める子どもが数多くみられる。一見すさんだ行動が、実は教師の愛情の奪い合いだったりするのである。家庭で親との十分な愛情関係を体験してこそ、家庭外での自立した行動が可能となるのである。
▼親子の葛藤避けずに
現代の多くの子どもたちはたしなめられることに慣れていない。学校で教師がたしなめると、ひどく傷ついて教師不信に陥ったり、不当に感じて反発したりするのである。親が時にはしっかりたしなめることも大事だ。子どもは、成長と共に、自分の周囲にある枠を破りたがるが、破ることで、自分と社会との関係を確かめるのである。もし大人が子どもとの葛藤(かっとう)を避けるならば、子どもは大人社会に対して、たかをくくるようになるだろう。しかし、社会は決して「ちょろい」ものではない。かつて校内暴力のあらしが吹き荒れた後、多くの子どもが「あの時、もっと、しかってもらいたかった」という言葉を口にした。親子の葛藤は、やがて出合う社会との葛藤に耐え得るよう、子どもの心を鍛えるのである。
1999/3/18/木