表情の乏しい現代の若者

表情レスが時代の顔?

 

どうも最近の若い者の顔は、見分けがつかなくて困る−−。これは、なまじ年のせいだけでもないようだ。若者の顔は均一化している。それも、しょうゆ顔などといった骨格面のみならず、表情までもがみな似通っていて、変化に乏しいのだという。「衷情レス」若者が増殖しているらしい。

 

「へのへのもへじ」

若者たちの表情はどのくらい乏しいのか、まずは証言に耳を傾けてみよう。

「新入生のオリエンテーリングなどで感じるのだが、緊張しているのを差し引いても、うれしいのか悲しいのか、表情から何の感情も読み取れない人が多。〃へのへのもへじ〃のような無表情とでもいうか…」(東京アナウンス学院の教育部長、菊地好重氏)「若い子は歌も踊りもそつなくこなし器用。だが、怒りや喜びというストレートな感情を表情に出すようにといっても、うまくできない人が目立つ。顔立ちはきれいだけれど、表情を変えたり、つくれない子は確かに増えている」(演劇事情に詳しい夏書館代表取締役の佐藤正隆氏)

若者にしてみれば「表情なんて意識したこともない」というのが本音だろう。でも、諸先輩は心配で仕方がないのだ。無衷情化を促した要因は何だろうか。いくつか整理してみよう。

第一は、惜報機器元凶説である。先に登場した佐藤正隆氏は推論する。「物心ついたころから遊び柑手はテレビゲーム。そして今は携帯電話やパソコン、フフクスなど情報機器に囲まれている。若者は、相手の顔を見ないで交流するのが自然なことになってしまった。表情を読み取るべき相手が目の前にいない、自分も表情をつくる必要がない。結局、表情にわざわざ気を配ることもなかろう、ということになった」

パフオーマンスの重要性を説く実践女子大学教授の佐藤綾子さんは、少子化社会における過保護元凶説を示した。

「小さいころから喜怒哀楽を顔に表さなくても、周りの大人が先回りして、子供の感情を読み取る努力をしてくれた。ちやほやされた結果、子供たちは胸の内を表情に出す訓練をしないまま、成長してしまう。いわば感情表現の〃手抜き〃が習慣化するわけで、表情レスの若者になるのも致し方ない」

 

深い付き合い拒む

無表情はすなわち「感情のあいまい化」の反映である、という見方もある。例えば「悲しいみたいな感じ」と断定を避けた話し方からもわかるように、若い人たちの感情は漠然としていて、変化の幅自体が小さい。本人もどんな気持ちなのか判然としない。その結果、表情もぼんやりとはっきりしないものになり、日常生活の場面でインパクトのある表情に出合うことが少なくなったというわけだ。

「表情が乏しいのは、心を閉じている証拠。相手を受け入れないのと同時に、自分もさらけ出さない。深く人と付き合うのを拒んでいるのだ」と強調するのは、モデルの動作指導などにあたっているモデリングディレクター、山田柱子さん。「この人と付き合いたい」と思えば、自然と顔からも無言のメッセージを送ろうとするものだが、若者にはその姿勢が見られないと首をかしげる。どうやら若者の表情レスにはそれなりの理由がありそうだ。

だが表情が乏しくて何の不利益があるのだろうか、との疑間も沸いてくる。「表情は言葉以上に、相手が抱く印象に影響を与えるものだ」と断言するのは佐藤綾子さん。

実験によると、話をする時に受け手が得る「好意」は、言葉そのものから8%、声の調子など周辺言語から32%、顔の表情からは60%という数字が出ている。

「相手が自分に好意を持てば、もっと話をしてくれるだろう。それが普通だ。情報だって、あれこれ提供してくれるはず。けれども表情が乏しいと、そうした機会を逸することにつながる」。表情レスが情報レスに直結しかねないのた。ただし、表情作りの「テクニック」は先天的というより生活環境の中ではぐくまれる度合いが大きく、意識して練習することで柑当腕を上げることも可能だという。

 

国際化で通用せず

「日本人の表惜の乏しさが国際社会でやり玉に挙げられるなど、外圧のおかげで、表情レスでは通用しないとだれもが気付くようになってきた。表情トレー二ングの大切さが一層、見直されるのでは」と束京大学教授で日本顔学会理事の原島博氏は楽観的だ。もっとも、こうした認識は主にミドル層以上に広がっているもので、若い世代に浸透するか疑問が残る。いつも若者にはその時代特有の表情があった。何十年かたった後に振り返ってみると、表情レスな顔がこの時代の若者の「共通の表情」として映るのだろうか。

1996/5/6/

顔から表情が消えつつある、とそんな声を最近よく聞く。しかし、顔の無表情化はいまにはじまったことではない。大きな流れとして見れば、地域と時代によって多少のバラツキはあっても、近代の生活規範の普及と同時にはじまっている。無表情化は、人間の存在が個人の心理的な傾向や行動様式によって判断される、近代という個性重視の時代に特有の矛盾なのである。

近代のエリートとは教養人のことだが、そうした教養人の資格として何が求められてきたか、考えてみよう。感情の爆発を抑え、喜怒哀楽を直接に出さないこと。つまり衷情をいかにコントロールできるか。それが教養人の資格であった。むろん、それは「おたく」人間を意味していたわけではない。自分を知って自分を抑えることができる。かつ、それでいて外の世界に開かれている。そういう人間が教養人だったのである。たしかに、これは、言うはやすく、行うはかたし、であったろう。

しかし、こうした矛盾を軽々と引き受けてさっそうと生きて行ける人、それが教養人なのであった。近代人の顔は、世の中の大衆化、すなわち匿名化状況の中で個人のアイデンティティの最後のより所として、個性的であることを求められてきた。が、同時に社会の中でなるべく波風を立てない顔つきが求められてきた。いいかえれぱ、顔は、内面の表現であると同時に、社会規範を順守していることを表明する場ともなったのである。その意味で表情の個性化といったところで、個人の社会化のプロセスの一環に過ぎなかった。そのようにして社会化された顔が無表情に近くなったとしても当然の結果ではないか。つねに良識にみち、礼儀正しく控えめ、しかも、いつも笑顔を絶やさず周囲に語りかけてくる、そんな表情をもつ人間を想像してみよう。何ともウソっぽい感じだが、しかし、それこそが近代人の理想としてきた人間像ではなかったか。

現代は、顔の比重が相対的に縮小しつつある時代である。ひとつには、顔が衣服や身体に競り負けていることによる。トップモデルの典型的な歩き方は一見魅力的だが、モデルの表情は少しも豊かではない。顔は肉体の添えものといった感じ。逆に、いかに無表情でも顔には個人を特定する力が備わっているのに、生身の身体にそんな力はない。これに対して衣服の方は、顔に代わって身体を個性化するだけの力を備えている。しかも、ずっと扱いやすい。顔は買い替えがきかないが、衣服は買い替えができる。

もう一つは、顔が化粧や髪形などと競合している事実に関わる。女性が日常的に化粧をするようになったのは、十九世紀の後半からだが、強力な化粧品メーカーの出現によって化粧品はたちまち差異化商品へと変身した。たから、化粧品のプランド化が一段落すると、その次に化粧法のブランド化がやってくるのは自然の成り行き。最近、モデルや女優などプロの使う化粧品やメーク法に対する人気が高いのは、そうした事情による。時間と努力の求められる表情の訓練よりも、お金を払って化粧品など皮膚表面での差異化をめざす技術の方が、いま風なのだ。

プロの化粧品や化粧法という社会的に認知された「差異」、つまりプランドによってしか個性化ができないのだとするなら、現代人の無表情化を嘆いてみても、はじまらない。

(北山晴一 立教大学教授・社会史)1996/6/16/日 NK