子どもの顔が変った
田沼 武能 (写真家)1997/6/7/土 日経夕刊掲載記事
長いこと子どもたちを撮っている私だが、ファインダーからのぞく日本の子の顔つきは、時代とともにずいぷん変る。定点観測をしてきたつもりはないが、最近になってつくづくそう思う。
昭和三十年頃の話になるが、東京の佃島で紙芝居を見ている子どもたちを撮ったことがある。一人一人が実に真剣なまなざしで、食い入るように見ている。すべての神経が、おじさんの語る一点の絵に集中しているのだ。あの表情に出会う例は、今ではきわめてまれになった。コンピューターゲームをしているときの子どもは、あの佃島での写真とやや同じような表情になるが、やはり質的にちがうものがある。
同じころにガキ大将というのがいて、広場や空地で撮影していると、たいていは目についた。そういう子は顔つきを見れぱ、すぐそれだなと分かったものである。そしてガキ大将がいれば、周りには年少の子どもたちが一緒に遊んでいた。今のようなイジメをする子とガキ大将はちがう。多少なりとも年少者に敬まわれなげれば大将になれない道理で、そうした雰囲気が顔つきにも表れてくる。
運動会などに行くと、かつては先生の目を盗んでいたずらするような子が必ずいて、茶目っ気顔を、こちらはフアインダーから楽しんでいた。好奇心旺盛の顔と言い換えてもいいだろう。今は、みんな優等生で先生のいう通りよく動くが、いたずら好きの顔に出会わない。
いわゆるおっとりした顔というのがある。これまた目にしなくなった。塾通いも含めて超過密スケジュールでは、のんびり遊ぶ時間もないし、それもむべなるかなと思う。変化は変化なのだから、善し悪しを云々しようというのではない。
しかし、私としては年々、残念な気持ちが増えていく。ベーゴマでもメンコでも、ままごとでもいい、体を思いきり使う、戸外でのシンプルなゲームが減ったこと、これが顔つきの変化をうながしたと、これは経験からの推測である。例えば途上国に行くと、日本で減った一連の子どもの顔に出会う。鼻たれ小僧が元気いっぱい悪戯をしている。その瞳は好奇心に満ちあふれていて、キラキラ輝いている。物質には貧しいかもしれないが、心の豊かさを感ずるのは私だけだろうか。
大人の顔も時代によって変ってくる。明治の顔、大正の顔、昭和の顔など、どこがどうちがうとはいいにくいが、ちがいはある。快適でスピーディーな生活をおくると、それも顔に出るということだ。その点でいえば、人間が手でものをつくり、生み出した時代と現代では、正反対なのではないか。だから職人肌の顔などは、とても貴重な文化財的存在に思えてくる。子どもは自分で自分の環境を変えることはできない。受け身である。したがって、子どもの表情の変化は、大人社会のそのままの反映といえる。この先、十年、二十年後も、社会変化とともに子どもも変る。してみれば、子どものいい顔が見られるようにするのは、大人の責務ということになる。