ニホンゴキトク1
国際化のうねりの中で、日本語が内と外から揺さぶられている。企業の不正が相次ぎ、釈明が繰り返される度に言葉は信を失い、電子媒体を中心に英語の勢力圏が広がるのに反して、海外での日本語熱は退潮気味だ。言葉の輝きがあせる時、それを使う人々の活力もまた衰える。日本語の空洞化の先に日本人らしさの揺らぎが重なって見える。
イタベル、キムタコ、サムイ…。つい最近まとまった「専修大学キャンパス言葉事典」の九六年版には、世相、風俗を反映した新語があふれている。イタベルはいたずらベル、キムタコはタレントの木村拓哉似の格好をしている子を指す。サムイは、つまらないギャグを言われた時に返す言葉という。
この事典は、文学部の永瀬治郎教授が川崎市の生田校合で学ぶ学生に呼びかけて採集した、いわば学内方言集だ。八八、九○、九二年度に続く四回目だが、一覧して気づくのは、生まれては消える言葉の寿命のはかなさだ。リョクチ(生田緑地)、ユーエン(向ケ丘遊園)などの固有名詞や、ケッタ(自転車)、ゲンチャ(原動機付き自転車)など必需品を指す言葉を除けぱ、四回の調査を通じて報告された言葉は少ない。
「集団語の持つ特徴で、その集団がいなくなれぱ使われない」(永瀬教授)とはいえ言葉はまるで消耗品並みの扱いだ。
野茂や伊良部の活躍が、日米の野球の違いを改めて浮き彫りにしている。と言っても実力や規則の比較ではない。用語の話だ。フォアボールランニング・ホームラン。おなじみのこれらの用語は皆、英単語をつないで作っだ日本語、いわゆる和製英語だ。野球にはとりわけ和製英語が多い。同じことを米国のべースボールはウォーク、インサイド・ザ・パーク・ホームランと表現する。「和製英語は身内で使っている分には便利です。しかし、日本が情報の発信側に転換しようという時、独り善がりに無知でいると相手に通じない」。
物流企業に籍を置き、「アメリカ人の知らない英語」等の著書がある山田雅重氏は語る。「カタカナ語を不用意に使うな」。小泉純一郎厚相が外来語の見直しを省内に指示した。インフオームド・コンセントなどという難しい言葉は、日本語に翻訳するか意味をカッコで書き添えて、子供や老人でも分かるようにせよという。
「デイサービスという用語を、事務方は通所リハビリテーションなどと言っているが、日帰り介護でいい。英語と日本語の双方をきちんと理解していないからこんなことが起きる。英語はますます重要になるだろうが、そのことと日本人として美しい日本語を残していくこととは別だ」
小泉厚相の意見はもっともだが、より本質的な問題は役所の文体、発想そのものにありそうだ。
「農村活性化住環境整備事業(農地及び農業集落の整備と一体的に新規宅地予定地の創出及び周辺の環境整備を実施)ヽ水環境整備事業(水路、ダム等の農業水利施設の保全・管理又は整備と一体的に親水空間等の整備を実施)……」
カナダ人の翻訳家、イアン・アーシー氏が「整備文」と呼ぶ文章の一例だ(「政・官・財の国語塾」より)。整備文とは何でも整備、整備で片づける役所の文章を皮肉った命名で、いかめしい割には中身の乏しい文章を指す。
「こんな文章がまかり通るのは、賢い役人には硬い文章こそふさわしいという錯覚があるから。それに、漢語を羅列すると文意があいまいになり、権力者には都合がいい」
あいまいな文言は翻訳家泣かせだ。過剰摂取→食ベ過ぎ、一般廃棄物→ごみ、特定商業集積→ビジネス街、所定外労働時間→残業。アーシー氏は自分なりの言い換えを用意している。「でないと、外国人に真意が伝わらないんです」。
二十一世紀を前に、日本語を取り巻く環境は大きく変わっている。インターネットの世界では日本語不適論が唱えられ、成長著しいアジアでは英語と中国語が主流言語になるとの見方が強まっている。こうした中で、「信なき言葉」をもてあそんでいると、日本語は内部から自壊しかねない。
テレビドラマの演出家で、最近は小説家としても活躍している久世光彦氏は昨年、懐かしい日木語が死にかけているのを惜しんで、「ニホンゴキトク」というエッセー集を出した。「チチキトクスグカエレ」というよく知られた電報の文句にならった書名だ。
ところが、読者の中にはこれが通じない人もいる。「日本ご危篤、ですか」。久世氏は返答に詰まったが、あえて否定はしなかった。日本語が死にひんする時は、日本が危篤に陥る時にほかならないからだ。
(「二○二○年」取材班)毎週月曜日に掲載
ニホンゴキトク2
フアッション季刊誌「zyappu」(ジャップ)の編集長・伊島薫氏は、今年夏号の編集後記で「総ローマ字化」をローマ字で宣言した(下の仕掛け参照)。今月二十五日に店頭に並ぶ、第十四号の誌面から漠字やひらがな、カタカナはすべて消える。四年前の創刊時、西洋フアッションの物まねしかできなかった日本人の汚名を返上するため、伊島氏はあえて、「日本人を見下す英話」を雑誌名につけた。当初は、漠字やカタカナに英語をまぜた表記で独自性を出そうとしたが、どうもしっくりこない。
特に問題だったのは漠字のデザインの悪さで、放っておけば誌面は英語一色になりかねなかった。どうしたらいいのか…,。伊島氏がたどり着いたのがローマ字だった。最初はローマ字の見出し、次にローマ字だけの特集。苦情は思ったより少なく、これまで写真との釣り合いで控えていた大和言葉もローマ字なら自由に使えた。日本デザインの独自性を目指した「zyaPPu」は、漢字を捨て「第二の創刊」を迎える。
「言語を淘汰(とうた)するのはメディアである」と、言葉の歴史に詳しい中央大学の三浦信孝教授は指摘する。すべての言語は話言葉として生まれ、そこから「文宇」を持ったごく一部が生き残った。印刷術が発明され、活字メディアに載らない言葉は自然と消えた。そして今、電子媒体にそぐわない言葉が受難の時を迎えている。ユニコードでの津字はその象徴だ。
ユニコードは国やメーカーの違いを超えて、コンピューター上で文字情報をやり取りするための万国共通コード。すでに日本でも日本工業規格が定められ、ユニコード採用のワープロソフトも販売されている。構想が米国主導でまとまった九二年から、日本の知識人や学者は「漠字文化を抹殺しかねない」と反対し続けている。当初は約六万五千字分の容量だったユニコードに世界の主要言語をすべて押し込んだため、漠字は二万強に抑えられた。「五万字を収めている大漠和辞典の半分にも満たない」と反対派は主張する。
ユニコードが普及すれば、インターネットで海外に送った日本語の電子メールが、「…Q?/¥#…BYJ」などと判読不可能な記号に置き換わってしまう「文字化け現象」はなくなる。利点はあり、容量も増えているが、制定に力を持ったのが米国という事実に讐戒心は消えない。
「インターネットは印刷文化にとって死活問題だ」と京都の老舖印刷会社、中西印刷の中西秀彦専務は訴える。人名や地名の漢字は、同じ字でも「はらい」や「はね」など字形が微妙に異なるものが多い。それを紙の上に忠実に再現する「印刷屋のプライド」は、漠字に込められた文化の伝承にも貢献した。インターネットでは、それが否定され、西夏文字など文化遺産とも言える特殊漠字は生き残れない。漠字と結び付いた学術文化の危機というわけだ。
こうした中で、東京学芸大学の松岡条志助教授(中国語)は、一般的な漠字と専門家の使う特殊な漠字を分類し、その上で足りない漢字を盛り込む提案をユニコード会議の場で発表した。「現実的なインターネットとのつき合い方を考えた方が、コミュニケーションの道具として漠字は使われる」と考えるからだ。「字統」「字訓」「字通」の漠字辞典三部作を独力で著した中国文学者の白川静氏は、「漠字への理解を抜きに、東洋の文化的な蓄積は語れない。文化概念としての『東洋』が衰弱すれば、我々は世界のなかで孤立する」と讐鐘を鳴らす。その一方で白川氏は、漠字の数のみを論ずることのばかばかしさも訴える。「調べてみると、李白が作品中に使っている漠字は三千五百六十、杜甫が四千三百五十、旬子でも四千六百。一万字も知っていれば専門分野の研究でも何とかなるだろう」と−−。
漠字民族は一様に、漠字の重さに悩み続けた。西洋化を進めるために、前島密は十五代将軍徳川慶喜に「漠字御廃止之議」を上申した。中国の文豪、魯迅でさえ「漠字が滅びなければ中国は必ず滅びる」と嘆いたという。今よりはるかに大量の情報が地球を駆け巡る二○二○年に向け、漠宇は生き残れるかどうか。
「いや、このままでは日本語そのものが21世紀には廃れるかもしれないと私は恐れている。日本人の学者が日本語でものを考えなくなれぱ、まず学術の分野から日本語は消えていく。外国人にどんどん日本語を使ってもらわなければ日本語は生き残れない。そのためには、漠字にこだわっていてはだめで、ローマ字表記にすれば良い」(一橋大学の田中克彦教授)。
ローマ字化に踏み切った「zyaPPu」は二重、三重の苦難を背負った漠字の将来をも暗示している。
(「二○二○年」取材班)=毎週月曜日に掲載1997/7/21/月
日本語キトク3
「日本は、地球環境保全に努めるべきだ。早寝早起きすれば、光熱費を節約できる……」(肯定派)「夏だけ一時間繰り上げても、残業時間が増えるだけだ……」(否定派)六月二十六日、東京・大田区にある富士通の研修所。サマータイム(夏時問)制の導入をめぐり肯定派、否定派に分かれた社員の議諭が繰り広げられた。
昨年度から新入社員、新任係長・課長級社員に義務付けている日本語ディベート(討論)研修の一こまだ。しかし、ディベートに慣れないためか、三分の持ち時間内に、ほとんど言葉が出てこない社員もいた。
国際化を積極的に推進する同社は昨年、会長、社長を筆頭に約三万人が英語能力検定試験「TOEIC」を受験、入社試験にも採用するなどして話題を呼んだ。英語必修の富士通が、なぜいま、「日本語ディベート」なのか。当時、会長だった山本卓真名誉会長が不安を抱いたのは、英語力の低さだけではなかった。英語力以前に、相手と議論し説得する能力そのものが不足していると気づいた。
「米国人との議論で最後にモノを言うのは、語学力より識見と論理、それに気合」。山本名誉会長は自身の経験を振り返って語る。まず、日本語の足腰を鍛えよというわけだ。富±通経営研修所の鈴木浩一教育課長によると、韓国や台湾のエリート管理職の中には、日本から講師を招き、日本語によるディベート研修を受けている人も多いという。まごまごしていると、日本人は英語どころか、日本語での議諭や交渉でも苦戦しかねない。
しかし、今の日本ではむしろ、英語力の低さに国全体が焦燥感を募らせ、日本語自体の能力の間題を忘れているようにみえる。英語圏への留学生を対象にした英語カテスト「TOEF」」の93〜95年の平均点で、日本は中国、韓国などより低く、アジア27カ国・地域中22位。「もっと日本語を」でなく、「小学校から英語を」というのが目下の流れだ。一方で、企業経営者や学者などの間からは”日本語特殊論”も唱えられる。「日本語はファジーであいまいな言語。論理的な表現に適さない」と----。
本当にそうなのだろうか。世界の言語百三十種を調べた東京大学の角田太作教授は、「言語学的に分析すると、日本語は特殊ではなく、むしろ英語の方が特殊」と語す。母音が五つであることや、主語、目的語、動詞という語順などは、他の多くの言語と共通性が高いという。角田氏は、「日本語では論理展開が難しい」という声に、「そう言う人の頭の中がよく整理されていないだけだ」と言い切る。
日本人による”日本語懐疑論”は今に始まったことではない。明治時代には文相、森有礼が英語を公用語にすべきだと唱えた。第二次大戦後には文豪、志賀直哉が随筆で「この際、フランス語を国語にしたらどうか」と書き、当時の知識人に衝撃を与えている。
中間日本語のすすめ----。広島大学名誉教授で、国際言語文化研究所所長の荒木樽之氏は、英語をものにする方策の一つとして、日本語を客観的にとらえ直す訓練を提唱している。英語で意思を伝える際に、言いたいことをまず論理的な日本語に置き換え、それから英語に変換すれぱ、翻訳が円滑に進む。この「諭理的な日本語」に相当するのが中間日本語だ。例えば、「相合い傘」という言葉がある。訳せといわれても、とっさにはふさわしい英語が出てこない。そこで、自分が相合い傘をさす甥面を頭に思い描き「異性と一緒に傘をさすこと」と分析すれば、「シェア・マイ・アンブレラ・ウィズ・ハー(ヒム)」という英語が出てくる。
荒木氏は「中間日本語に直す訓練は、実は日本語を強くし、肉付けすることにもつながる」と語る。情緒的だとか、主語が不明だとかと言われる日本語が、中間日本語化という過程を経ることによって、より明せきな文章になるからだ。
学習院初等科(小学校)では、日本語教育の一環として、「話しかた書きかた」という副読本をつかって授業をしている。先生が黒板に様々な文章を書き、「これは事実を示した文ですか、それとも意見を述べた文ですか」などと生徒たちに問いかける。自然に身についた日本語をあえて意識的に見直させ、必要な時には自分の意見をはっきり言えるようにするのが目的だ。「国際的な学術会議などで、日本人が明確な主張をできないのは、そうした教育を受けなかったから」(川嶋優科長)との反省が、この授業の原点にある。
日本語への理解が行き届いて初めて英語が分かる。情報化、国際化が急速に進み、英語の重要性がさらに高まる2020年。日本語軽視を続けている限り、日本人の英語下手は解消されない。
(「2020年」取材班)=毎週月曜日に掲載1997/7/28/月
ニホンゴキトク4
季刊誌「日本」----。海外で日本語を学ぶ人たちに頼りにされてきた雑誌が今春、惜しまれながら魔刊した。朝日薪聞政冶部の記者だった大森和夫氏が、退職金をつぎ込んで始めた事業で、これまで八年間、四十余りの国に無料で送り続けてきた。「生きた日本語を通して、日本の現状や日本人の考え方を理解してもらいたい」。これが大森氏の狙いだった。経費を切りつめるため、編集や発送など仕事の一切は、奥さんと二人で手づくりでこなしてきた。しかし、こと志に反して資金繰りが続かず、三月発行の三士二号が最後となった。
大森氏は文部省に対して再三、資金援助を申し入れていたが、いい返事はついにもらえなかった。加えて、頼みの綱だった外務省と通産省の援助も九六年度で打ち切られた。
「いろいろ手を尽くして陳情したが、だめだった。海外で日本語の教材がどれだけ不足していることか。その実態に、□では日本語の海外普及を言う日本のお役人は気づいていない」と、大森氏は悔しがる。
「(高校で)正規の科目として日本語を選択する生徒は九六年度の新カリキュラム施行以前に比べ減少している」(インドネシア)
「金泳三大統領の世界化宣言や、(中略)日本経済のちょう落などにより、韓国での日本語教育は停滞ムードである」(韓国)
語学教育出版のアルク(束京)が発行する「海外就職98日本語を教える」には、各国の日本語教師らのこんな報告が並んでいる。米国の高等教育機関を対象にした米国現代語学文学協会の九五年の調査によると、米国内の日本語学習者は五年前に比べ、二%以上減っている。中国語が約三六%増となっているのと好対照だ。日本語の海外普及の勢いに陰りが出ている。
「言葉には値段が付く」と語る束京外国語大学の井上史雄教授は、「言語の市場価値」を尺度に、世界の言語を比較する。話し手の数、公用語としての採用国数、国家の経済力、文化度などで試算すると、「経済力は世界で二番目の日本語も、言語の市場価値では英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語に次いでようやく六、七番目」となる。
井上教授は、大都市への人口集中現象になぞらえ、「日本語の勢力伸長も中都市の人口増加のように一時的なもの。大都市として集積の利益を享受する英語との関係や、漢字や敬語の習得に必要な労力などを考えれば、日本語の国際的な普及の道のりは楽観できない」と危倶(きぐ)する。
国際交流基金によると、海外の教育機関に通う日本語学習者は七九−九三年の十四年間で約十三倍の百六十二万人に増加した、中央大学教授のF・クルマス氏はその薯「ことばの経済学」の中で、80年代の日本語学習者数の急増は「日本がすべての大陸の多くの国々にとって重要な通商相手となった事実を直接反映する」と語っている。それに陰りが見られるとすれば、海外での日本語学習ブームも、経済と同様、一過性のバブルに過ぎながったということだろうか。
国連公用語。日本ではあまり意識されることはないが、各国の代表が集まって議論する国連総会の場で、公用語になっているのは英語、仏語、露語、スペイン語、中国語、そしてアラビア語だ。世界二位の経済力の持ち主で、かつPKO(平和維持活動)経費を除けば米国に次ぎ、世界で二番目の分担金を拠出している日本の言語が、国連公用語になっていないのはなぜか。
日本語の国際普及の必要性を常々訴えてきた鈴木孝夫慶応大学名誉教霞は、「文化的教養語、あるいは知的な国際交流言語として日本語の地位は低すぎる」と言い、それは対外言語戦略が欠如しているためだと指摘する。無策が続けば、ODA(政府開発援助)にいくら金を注いでも、日本の意見や主張に耳を傾けてもらう機会は増えない。
日本語の海外普及への陰りに「ジャパンパッシング」の兆しを読む水谷修・国立国語研究所長は、「日本語が国際的な共通語となりうるかという論議を進めるための十分かつ客観的な情報すら、我々は持ち合わせていない」と顔を曇らせる。現在、同研究所を中心に「国際社会における日本語についての総合的研究」が進んでいる。しかし、「最終的に提言をまとめてもどこへ持ち込めばいいのか」と研究員は苦笑する。そもそも省庁の枠を超えて言語政策を総合的に討議する場すらない。
日本語は国際語になることはおろか、アジアでも英語と中国語の間に埋没しかねない。日本語の将来に、2020年の国際社会での日本の姿が重なる。
インタビュー
「日本は計画的な移民政策を取り入れるべきだと思う。それが経済を活性化し、日本語の国際化にもつながる」
[アジアには優秀な人材がたくさんいる。彼らの中には日本に来て日本語を覚えて学校で勉強したい、そしでそのまま残って仕事をし、緒婚して日本の国籍を取りたいと思っている人がたくさんいる。ところが、彼らにはお金がなく、スポンサーもなく、学校もない。日本が外国人労働者を必要としているのなら、不法就労者でなく、こうした人々と契約して計画的に受け入れればよい。優秀な人材が確保でき、人口の滅少におぴえなくてもよいからだ」
「契約を終えたアジア人は、帰国すれば進出日本企業に勤めることになるだろう、こうして日本語を話すアジア人が増える。しかし、大きな期待はしない方がよい。アジアではこれからは英語と中国語が主流言語となるだろう。ヨーロッパでも日本語はひところの人気はなくなり、関心は中国語に移っている」「ただし、中国語に注目が集まれば漢字が再評価される可能性もある。私は外国人に日本語を早く覚えてもらうためにローマ字を採用せよという議論には賛成できない。日本語をやろうというぐらいの人は能力も高い。面白いから好きになる外国人も多い。日本語を読み書きする外国人はまだまだ少数で、日本語を習得することの経済的メリットは、例えばフランス語をやることの比ではない。日本語はまだまだお金になるんです」「それに関して付け加えれば、外国にある日本人学校を日本語を学習したいという現地人に開放したらいい。日本語ファンが確実に増える」「多摩大学ではこの春の入試から英語を選択科目にした。入試のための英語は英語の学習にとって害になるだけで、なんのメリツトもない。入試の英語で苦しむくらいなら、物理や数学をやったほうがいい」
グレゴリー・クラーク氏(多磨大学学長)
ニホンゴキトク5
先生「エトテクワエアナルウェー?」(元気でいたかい)
生徒「エークトテクワカナワー」(ええ、元気でいました)
毎週月曜日の夕方、札幌市の市民会館で沢井政敏さん(51)のアイヌ語教室が始まる。生徒は約二十人。アイヌの人々も、アイヌ以外の生徒も、慣れない会話に時間を忘れる。アイヌである沢井さん目身もこの教室の卒業生だ。明治時代から続く同化政策の結果、母親から祖先の言葉を教えてもらえなかった沢井さんは社会人になってからここで学び、三年前からは進んで講師を引き受けるようになった。「アイヌ語はいくつもある民族の言葉の一つ。それを学ぶのは特殊なことだとは思わない」と沢井さんは語る。
文化庁によると、アイヌ語を日常的に話している人は全国で十人強、アイヌ語を教えられる人は二十人余を数えるのみという。ほぼ例外なく高齢者だ。アイヌは文字を持たない文化であり、言葉を話せる人がいなくなれば、文化そのものが滅びてしまう。アイヌ文化の危機を背景にした沢井さんらの運動は、通常国会でのアイヌ新法成立の推進力にもなった。
ネパール語、タガログ語、ベンガル語−−。福岡市の福岡国際交流協会が主催する外国語教室は、アジアなどからの留学生が講師になり、市民に自分たちの国の言葉を初歩から教えている。スリランカのシンハラ語など、大学でさえ学ぶ機会の乏しい言語も合め講座数は十八、今年度の受講者は約二百五十人にのぼる。異国の言葉に対する福岡市民の関心は高い。市内、十四の小学校にはアジアの言葉を中心に勉強する「外国語クラブ」があり、市や財界の出資で開局した九州国際FMは、中国語やインドネシア語の情報番組を流している。
アジアとの交流を地域発展のキーワードに掲げる福岡市にとって、多様な言語への興味を刺激するのは当然のこと。「民間の語学会社では採算に乗りにくい分野を支援したい」と福岡市国際企画課の馬場伸一係長は言う。
単一民族=単一文化という図式で均質な社会を作り、近代化を推し進めた明冶政府。「国語」の概念のもとに言語も単一化し、アイヌ語などの少数民族の言葉や方言を否定した。欧米に追いつき追い越せの国是は、外国語といえば英仏独語という偏見を助長し、それ以外の言語は長らく視野からこぼれ落ちたままだった。しかし、これを覆す現象が今、各地で起きている。
東京の薪宿周辺では、ハングルやアラビア文字の看板はもう珍しくもない。北関東を中心とした工業地帯では、ブラジル人同士の陽気な会話が飛び交う。単一言語の国にも確実に異言語空問は広がりつつある。多冒語主義----。少数の主流言語に対して、言葉の多様性を認め合い、互いに相手の言語を尊重しようという考え方が世界的に台頭している。英語の存在感が増していることへの不安や民族主義の高まりが、抑圧されていた言語の復権を求める動きとなっている。自国語へのこだわりが強いフランスでも、ブルターニュ地方のブルトン語やスペイン国境のバスク語など少数民族の言語が、独自性を強固に主張している。各国の結び付きが深まり、様々な地域の人々が交じり合う2020年には、多言語主義が世界の共通認識になっているだろう。その時、日本人が国語や英語にしか目を向けないなら、日本への敬意は失われ、日本語は孤立し輝きを失う。
「本当に残念です」。早稲田大学の語学教育研究所 でアイヌ語の研究を続ける田村すず子教授が、一枚の紙を見せでくれた。学生向けの語学科目の一覧表で、アイヌ語は外国語の項目にくくられ、アイスランド語の次にある。日本語以外は外国語と見なす態度は変わらず、千葉大学のアイヌ語授業も「外国語」扱いだ。国語の呪縛(じゅばく)は依然、解けない。
一方で、商品名や流行歌の題名に欧米語を付けたがる「自已植民地化」の体質も変わってはいない。「国語という思想」の著者でもある大東文化大学のイ・ヨンスク助教授は、「明冶以来の言語政策が他の言葉、とりわけマイナーな言葉に対する日本人の感性を鈍らせた。それは民族意識が高まる二十一世紀に有利にはたらくとは思えない」と指摘する。
社会の均質性が日本経済の強みから弱みに転じたように、「単一言語の幻想」もグローバルな社会ではコミュニケーションの阻害要因になりかねない。極端な迎合か、さもなくば拒絶かという硬直した対応では多言語との共生は難しい。しなやかな言語感覚を日本人が持てない限り、「ニホンゴ」と「ニホン」は、「キトク」から脱することはできない。
(「2020年」取材班)1997/8/18/月 掲載記事
※世界には色々な文化があってこそ面白い
加藤 周一
「まず、『母語』と『国語』は同義ではない。母語は、ある人が生まれて初めて接する言語を指す。国語は国家の公式言語という意味で、政治的な概念だ」
「世界には母語が国語でない人が大勢いる。多くの日本人にとって、たまたま日本語が母語であり、国語でもあるだけのこと。言語の領域で、国語辞典、国文法、国文学といった言葉を使うのはおかしい。政治優先主義を反映している」
「一方、英語には英米人などにとっての母語であると同時に、『国際語』でもあるという二面性がある。多くの日本人は、世界的な学術交流や商取引に不可欠な、国際語としての英語を学ぼうとしている。だが、二面性への十分な認識がないと、言語は文化と切り離せないだけに、圧倒的な力を持つアングロサクソン文化に吸収されてしまうだろう」
「多言語主義はこれを避けようとする考え方だ。現実的な手段として個々人が英語に加え、もう一つの外国語を学ぶことを提唱したい。例えば中国語を学習すれば、第三の言語に関して英米人と対等な立場になり、劣等感から免れる。義務教育では日本語と数学を必修とし、他の様々な言語は選択科目にすればいい」
「多冒語主義は多文化主義に重なっている。アングロサクソン文化に、日本文化が単独で対抗すれば、二十一世紀には吸収されてしまう。しかし、多文化主義なら単一文化主義に対抗できる。多文化主義以外に日本文化を救う道はない」
「世界には色々な文化があった方が面白くて楽しい、と思う。各国の人々が文化的に独立し、アイデンティティーを維持して自己主張できることが望ましい。同じ考えの人々は外国にも多いし、国際的な連携を広げるべきだ」