心に砂漠を抱える少女たち
「子供の心が見えない」。大人たちの嘆きをよそに、子供の心の荒れは思わぬ形で噴出することがある。こうした荒れは暴力事件などで表面化しやすい少年だけでなく、少女たちにとっても同じことだ。二十五年にわたり、作文を通して子供の心を見続けてきた国語作文教育研究所所長の宮川俊彦氏は「最近の少女たちは心に砂漠を抱えている」と分析、その深刻さは少年以上かもしれないと指摘する。
「私はおぎょうぎよくしなさいと言われてきた。手はおひざ。品のない言葉は使っちゃダメ。……だからじゆうにしていいよと言われるとこまってしまう」。小学四年の女子の作文だ。この女子は、作文教室の講義と作文実習の時はものの見事に有名ブランド校の典型少女ぶりを見せる。ものを考える姿勢も良い。ただ書いている内容はまだ優等生的で、「思いやり」「やさしさ」「心」というキーワードを駆使。ものごとを疑うことをせず、自分の「思考」はのぞかせていない。ある日、たまたま教室である子の手が色とりどりに塗られていた。「どうした?」と聞くと、先の作文を書いた四年生の少女と仲良くなり、ふざけていて塗られたという。その少女は後で私のところに来て「楽しいんだもん」と言って、恥ずかしそうに少し笑った。
ミサイル「やり返せ」
彼女は「お受験」の申し子。外側は行儀が良く、それで通る。しかし、そうしつけていれば常に行儀が良いというものではない。心の中では、はめをはずしたいという渇望が顔をもたげている。学校あるいは家庭で「おとなしくていい子」が自由闘達(かったつ)な議諭や探求や自已表現の甥に足を踏み入れると、案外ひょう変する。迎えに来たこの少女の母親は低姿勢だった。
塗られた側の母親も「いいんですよ。洗えば落ちますから」。ただ、この言葉の奥はちょっと重い。「何をしていいのか、それをすればどうなるのかを分からない子が増えている。『この場ではこうしていればいい』ということが先行して、それ以外の場では立ち往生するか、とんでもないことをする」。後日訪れた〃被害者”側の母親はそう語った。
この母親の言葉を借りるまでもなく、少女たちの多くは今、自由に戸惑っているようだ。作文に「心の大切さ」を書く子たちの本当の心は殺伐としているのではないか。ある中学一年の女子はこう書いた。「お母さんもお父さんも私に何でもしたいことはさせているし、満足なはずだと言っている。そうだと思う。この夏ハワイにもドイツにも行った……。でも少しも楽しくない。笑い顔が疲れる」
北朝鮮のミサイル騒動の時にも、過激に「やり返せ」と言ったのは女子が圧働的だった。教室の帰除も自発的にやるのは常に男子だ。
「心の砂漠を生きている」と、かつてある事件を起こした少女は作文に書いた。それを示して教室の子たちに「どう?」と尋ねてみた。「わかるよ。でも砂漢でいいジャン。それ当たり前ジャン。だからオアシスを求めて行くんだ」……。そんな発言が印象に残っている。
心の置き場所に問題
八月に東京の区立中学校で、女子生徒による偽やせ薬事件が起きた。この事件に限らず、私は最近の少女犯罪の急増に着目している。統計によれば、九七年の十代少女の刑法犯は前年より約三割増えたという。背景には、いじめなどの問題よりも少女自身の心の置き場所の問題があると、私は考えている。そうせずにはいられなかった少女たちの心の現在を見なくてはなるまい。それは一個人の問題にとどまらない。
少女たちを縛っていた規範や規制がおぼろになり、女性が生きやすい雰囲気が社会的に強まっている。しかし、それは表層だけで、少女たちの内面には空白感が漂っているようにも見える。
中高生らの作文で「私」という主語の後に続くものが、「我」に関するものか好悪の感情だけになって久しい。少女たちの世界では、むき出しのエゴとそれを包んだ少女らしさが闘歩(かっぽ)しているといったら極端すぎるだろうか。
1998/10/16/金
心を育む場としての学校を求めて
十日まで東京学芸大で開催された日本心理学会大会で、「二十一世紀の教育改革−心を育(はぐく)む場としての学校を求めて」と題した公開シンポジウムが行われた。子供の荒れやいじめの間題を中心に「二十一世紀の学校像」を探る試みで、二時間半にわたり、心理学にとどまらず「学校観」をめぐって幅広い議論が交わされた。
シンポジウムは四人の研究者らが「指定討論者」として順番に発言、それに二氏がこたえて質疑を行う形式で行われた。心理学会でのシンポだけに、討議の中心に置かれたのはカウンセリングなど心理学的アプローチが教育改革にどうかかわることができるか、という点だった。最初に発言した国分康孝・聖徳栄養短大教授は、学校教育の場で人間関係の回復を図るため、グループ体験を通じて個の自覚を促す「組織的グループエンカウンター」導入の必要性を提言した。サイコエジュケーション(集団に対する予防・開発的カウンセリング)の有効性や、教員のメンタルヘルスの重要性なども強調。各種技術の習得や仲間同土のネットワークづくりが効果的であることを指摘するなど、具体的な技術、方法論を紹介した。
「脅迫性」が原因
スクールカウンセリングの専門家である渡辺三枝子・筑波大教授は、学校の外部、特に産業界との関係を中心に据えて発言した。渡辺教授は、社会の変化が子供に大きな影響を与えているとの前提から、「カウンセラーもただ一人一人にアプローチするだけではなく、社会の変化にアプローチしなくてはならない」と指摘するなど、学校主導での産業界との連携を訴えた。具体的には、インターンシップや社会人の非常勤講師登用など最近の学校、産業界間の連携に一定の理解を示しつつ、ブログラム策定にあたっては子供の発達段階に配慮する視点を盛り込むよう注文した。ユニークな見方を示したのは元家庭裁判所保護監察官で法務省法務総合研究所の生島浩氏で、「脅迫性」をキーワードに非行を起こす少年の性格を分析。@通常は目立たないが、自分が傷つけられたと感じると暴発するA勉強を全くやらないわけではなく、つまずいた途端に放り出すB融通がきかず、思い込みが激しいー−などの特徴をあげ、「非行少年にも完全主義的で自已愛の強い脅迫性がみてとれる」と指摘した。
そのうえで子供たちへの対応法として「教師側の熱意が空回りすることもある。子供の側に入り込まず、”たらたらとした人間関係”づくりも必要」と強調した。指導に熱心な教師の脅迫性が悪循環を招くという分析で、現甥教師には意外に感じる部分もありそうだが、長年、非行少年にかかわってきた専門家の発言として注目された。
東京学芸大保健管理センターの児玉隆治教授は、中央教育審議会でも論議された「生きる力」を取り上げ、「子供だけではなく、現代人そのものにも欠乏している」と説明。ささいな悩み事でも専門家に解決を求めたり、健康食品に癒(い)やしを求める傾向の中で、「自ら困難を解決する能力が減衰している」と強調した。
児玉教授は「生きる力」の定義として、「人とつながる力」「耐える力」「社会に貢献する力」の三点をあげた。最近の子供の「荒れ」の原因として人間関係の希薄さ、耐性の欠如、自分勝手な性格などが指摘されているだけに、分かりやすい提示だった。
「責任・役割分担を」
学校運営の観点からは、「学校社会に組織心理学の技術を導入すべきだ」とする国分教授の指摘が興味深い。個々の教師の能力を生かすには、貢任や権限、役割分担を明確にすることが不可欠、との意見は説得力があった。先の中教審答申でも「校長のリーダーシップ確立」のための機構改革が提言されたが、とかく組合問題へと収飲(しゅうれん)されがちなこの問題を、組織心理学の面から説明した点は注目される。
学校の「枠」に賛否
後半部分では、「プロ教師の会」のメンバー、河上亮一教諭と文部省の問題行動に関する調査も行っている森田洋司・大阪市立大教授、さらに会場の参加者を交えて討議が行われた。ここでは学校の「枠」、つまり「子供のしつけなどについてどこまで学校が教育の主体となるか」をめぐる論議が中心になった。文部省の教育改革が「脱学校」や「スリム化」を打ち出しているだけに、パネリストからは様々な意見が出た。生島氏は「学校は保護者や子供の要求にできるだけこたえる〃ワァミリーレストラン〃であるべきだ。こちら(教師)の思いだけで教育する時代は終わっている」と、枠を取り払う必要があるとの立場から持論を展開。
一方、国分教授は「枠のない教育はない。人を育てるうえでの不可欠条件だ」と反論した。
「一定の枠は必要だが、生徒や保護者が選べるように緩めることも必要」と”条件付き”の意見もあった。会場の教師からは「指導要領などの枠があったからこそやってこれた」と戸惑いも聞かれ、学校の役割分担が簡単に線引きできる問題でないことを浮き彫りにした。
最後には「教育改革はだれが担い手となるか」との問い掛けも出た。この点では現場教師の努力を求める声が多いなか、当の教師である河上氏が「教師に主体となる力はない。文部省や教育委員会が強引にやるしかない」と答えたのが印象的だった。
(東京社会部 石川 淳一)1998/10/18/日
二十一世紀の教育はどうあるべきか-----。文部省が進める教育改革に対し、民間団体が独自の改革案を公表したり、教育関係者らが公開シンポジウムを開くなど、文部省外からの発言が増えている。「百人いれば百通り以上の教育諭がある」と言われながら必ずしも国民的な議論とはなりにくいだけに、こうした傾向は歓迎されるべきだろう。
東京学芸大で開かれた公開シンポは心理学会の大会での企画だったが、決して専門的で難解な内容ではなく、一般の保護者や教師が聞いても十分に理解できるものだった。
いじめや不登校問題への対策どして、スクールカウンセラーの活用や、教員養成課程でのカウンセリング能力重視などが注目されているだけに、心理学的側面からのアプローチにはタイムリーな話題性もあつた。
シンポジウムそのものは、二時間半では短すぎたし、特に「枠」をめぐる議論が中途半端に終わったとの印象はぬぐえない。ただ、長時間議諭したからといって正解が出る問題でないのも事実だ。必要なのは、こうした議論の機会を継続的に、かつ多くの場で設けていくことだろう。