教えない教育が大切
1999年(平成11年)9月19日(日曜日)
独自に開発した自己学習教材を使った塾を主宰する教育研究家の平井雷太さんは、「教えない教育」が大切だというユニークな教育論を展開している。「できない状態にぶつかることが子供が育つチャンス」という平井さんに寄稿してもらった。
「何のために学校に行くの?」「受験勉強が将来、どんな役に立つの?」「何のために勉強をするの?」。子供のころ、大人に間いかけても、「就職するときに有利だからし「将来、役に立つから」「そんなことを考えずに勉強しろ」などと言われるだけで、納得できないまま勉強をやらされた記憶がある。
子供に迎合は危険
学校の勉強にほとんど面白さを感じられず、「なぜ学校に行くと学ぶことが嫌いになるのか?」という疑問が消えぬまま大人になって、今度は子供たちから私が間われる側になった。
先日も講演会で不登校の中学生から、「学校は何のためにあるのか」という質問を受けた。私はこう答えた。「問題を感じる学校だからこそ、『学校とは何か?』という問いが浮がぶ。そのこと自体がすごく貴重だ。学校は答えのないことを考えるチャンスをもらうためにあるのではないか。学校に行けなくなったことで、今までなかった視点ができ、改めて自分自身を見つめられるようにもなる」
私がこのような発想をするようになったのは、十九年間、独自に考案した「教えない教育」を実践してきたからだ。それ以前にやっていた塾では、ともかく「わかること」「考えること」を重視していた。「分数の割り算はどうして引っ繰り返して掛け算にするのか」「マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか」といったことを授業に盛り込めば「考える力」を育てることができると考え、子供のやる気を引き出すための楽しい授業を心がけた。
しかし、そんな授業を続けるうち、「わからなければ学ばない」「楽しくなければ学ばない」子供たちの存在が気になり出した。私のしていることは、子供に迎合し依存心を育てるだけではないかと思うようになったのだ。子供のために良かれと思って始めたことでも、そうならない場合があることに気づき、「教えることの怖さ」を実感した。
こうした体験を踏まえ、息子には「教えない教育」を試みた。「教える・教えられる」という関係を回避したくて、息子のために「教えなくても一人で学べるプリント」を作ろうと思い立ったのである。こうして始めたプリント作りだったが、「教えない教育」をすることで、「教える授業」では見えなかったことが見えてきた。
操り返すメリット
プリントは、簡単な問題からやや複雑な問題まで類題を多数出題し、他人に教えられなくても自分の力だけで解くことができるように工夫してある。最初は考えながらやるので時間がかかるが、何度も同じプリントを繰り返していると、いつしかスラスラできるようになる。すべてのプリントに、この時間内で解いてほしいという意味の「めやす時間」を設けた。
初めはできなくても何度も繰り返すうちに、子供たちは考えないでも瞬時に答えが出る状態に到達する。こうした様子を見ていて、「考えないでも答えが出る状態」が「習熟した状態」であり、「できる状態」であることに気づいた。
この教材で息子以外の生徒も学ぶようになり、十六年間ですでに二千五百人以上とかかわっている。生徒たちは三歳から七十八歳まで。一割近くは大人だ。「教える行為」をしないから、大人でも小学生の学習内容をもう一度学ぴ直す気になるのだろう。
私は生徒に「このプリントをしなさい」という指示は出さない。「めやす時間」を見ながら、生徒が自分で取り組むプリントを決める。今、自分がどんな状態であるのかを自覚し、スラスラできる状態になるまで繰り返す。やれぱだれでもできるようになるのだ。にもかかわらず、学校はそれを途中でやめさせ、「できない子」というレッテルを張ってしまうのだから、あまりに理不尽だ。
生徒の中に、小学校一年生相当のプリントを半年近く、約百八十回もやり続けた小学二年生がいた。彼女との出会いが多くのことを教えてくれた。無理やりやらせたら苦役になることが、自分で選んでやった場合には苦役にならない。しかも、そのような状態のときにしか育たないものがある。やりたくないことでも必要であれぼそれを自分で選んでやり、今はできなくても継続すれば必ずできるようになると自分の可能性を信じる力が、同じプリントを繰り返すなかで、彼女にはぐくまれていたのである。
心から「よかった」
問題解決能力は、問題と出合わない限り育たない。彼女のおかげで私は、何度繰り返しても合格しないプリントにぶつかった生徒に、心から「よかったね」と言えるようになった。そのプリントに出合ったことで、生徒は自分にとっての壁を自覚する。壁を乗り越える力は、それが厳しいほど強くなる。「壁に出合ったとき、できない状態になったときこそが、その子が育つチャンスなのではないか」と思うようになった。
しかし、プリントを子供の言いなりに渡していると、すぐにやらなくなってしまう現実にも直面した。「自分でやることを自分だけで決めていると、簡単にできることしかしなくなる」のである。「できる、できないを考えず、ただやることの大事さ」や.「わかってからやるのではなく、わからないままやることの大事さ」などを子供たちか'ら教えられる中で、私は「できない」「わからない」「考えない」ということが、教育を考える上で、非常に重要なキーワードだと考えるようになったのである。
そう考えると、不登校とか学級崩壊と言われている現象も、「できないこと」や「うまくいかないこと」に学校自身がぶつかった現象の一つであり、いままで表面化していなかった学校の問題が顕在化してきたことのまうに思えるのだ。だとすると、その原因を「子供たちは変わった」とか、「親のしつけがなっていないから」などと学校外に求めても何も変わるまい。
しかし、少し視点を変えると、さまざまな問題が顕在化した今こそ、人が育つチャンスであり、教育が変わるチャンスととらえることができる。もしかすると、長い間かけてでき上がった「教えること」だけが教育だという価値観が揺らぎ始めているのかもしれない。「教えられるから学ぷ」のではなく、「教えられなくても学ぷ」視点を教育現場のなかに取り入れることで、学校依存の教育から解放されるのではないだろうか。
※ 制度疲労の学校 聞い直し不可避
公立小中学校の校内暴力は二万九千六百八十五件、前年比二五・七%増。不登校の小中学生は十二万七千六百九十四人、前年比二一・一%増----。八月に文部省が相次いで発表した調査結果である。一方、日教組のアンケートによると、クラス担任をしている教師の三四・八%が、担任を辞めたいと思ったことがあるという。
こうしたデータからうかがえるのは、学校を取り巻く状況はますます厳しさを増し、危機的状態にあるということである。一世紀余に及ぶ歴史を持つ「学校」という教育システムは、制度疲労を起こしつつある。これまで、当たり前のことと考えられてきた学校教育の手法そのものの是非を、一つずつ問い直していく作業が今後、様々な形で求められるのは間違いない。「教えない教育」という、一見矛盾するような平井さんの教育論には、閉塞(へいそく)状況にある学校の現状を打開するヒントが含まれているような気がする。
(横)