心罰に敏感な子どもたち

1999/7/14/

少年による凶悪犯罪、小学校での学級崩壊など、子どもの問題が深刻化している。原因を巡っても様々な議論が交わされてきた。教育評論家の尾木直樹氏は、問題を理解し解決する一つのカギは、子どもたちが大人や社会から受ける「必罰」にあると主張している。先ごろ同名の本を著した氏に、心罰とは何か、語ってもらった。

 

見えないダメージ

心罰とは、子どもの心に深い傷を与える言葉・行為を指す。体罰が物理的で肉体的な苦痛を与えるのに対し、心罰は目に見えない精神的ダメージを与える。いじめ、セクシュアル・ハラスメント、暴言、さらには退学処分など人権侵害ともとれる懲戒権の乱用など幅広い言動・社会の行為を含む。もちろん、体罰の多くも子どもたちの心に苦痛を与える。だから広い意味では、体罰も心罰に入る。

今の子どもたちは言葉の暴力や無視、人を侮蔑(ぶべつ)するような態度に、とても敏感になっている。最大の原因は、メディアのすさまじい発展だ。

 

情報過多で感性鋭敏

子どもたちはいまやテレビを通じて、学校や家族が教えないこともいつの間にか知っている。日本から遠く離れたユーゴスラビアの難民の悲劇や世界各地で自然環境が破壊されていく様子を、リアルタイムで目の当たりにする。そして、テレビが媒介した様々な現実を身近に感じ、人間とは、生きるとは、愛とは、といった問題について考え、悩む。こうした日常の繰り返しが、子どもたちの感性を大人の予想を大きく超えて鋭敏にしている。子どもたちの感性が敏感になったところに、社会や大人たちからの様々な心罰がこれでもかとぱかりに降りかかり、子どもたちの心をむしばんでいくのだ。

心罰の一つに、幼児虐待の新しい傾向である「ネグレクト」(怠慢)がある。この問も、ラーメン店に入ろうとした若い夫婦が生後五カ月の乳児を駅のコインロッカーに「預けた」事件があった。夫婦は一応空気が入ることを確かめたと弁明した。だが、こうした場合、生命の安全うんぬんだけの問題ではない。非人間約扱いが、子どものやわらかな心に深い傷を与えることに、全く思いが至っていないのが大きな問題だ。子どもを成長させる責任を大人が放棄したことによって、今の子どもたちは心を傷つけられ、疲れ果てている。

「社会内心罰」も見逃せない。典型が、昼夜の別なく流されるテレビ電波であろう。深刻なことには、放送を通じて子どもの心と体の成長を守るのだという自覚が、放送事業者からほとんど感じられない。

ようやく先日、日本反問放送連盟が自主規制によって、夕方五時から夜九時までは、青少年を特に意識して性や暴力表現などの内容に注意した番組作りをすることに決めた。十月から実施する予定だ。ただ、この精神が制作現場に下り、視聴率至上主義を脱していくまでには、今後大変険しい道のりが予想される。

 

深刻な言葉の暴力

しかし現在、子どもたちにとって最も深刻な必罰は、日常生活の中で親や教師など大人から浴びせられる言葉による暴力だ。「何回言えばわかるのよ!ママ、あなたのことなんか大嫌い!」「こんなに苦労するんなら、産むんじゃなかったわ」

大好きで、頼らなくては生きていけない自分の母親からでさえ、平気で言葉のナイフを突きつけられる。親がキレて発する一言が子どもの心をえぐるのだ。学校でも同様だ。「お前、耳くっついているのか!ちゃんと聞いておけ!」「兄貴もワルだったけど、弟のお前もダメなやつだなあ」

教師のこんな言動は珍しくない。これらの親や教師、それにテレビをはじめとするメディアなど大人の側に共通しているのは、子どもを見下す思考・態度だ。二十一世紀を生きる大人の小さなパートナーとしての子どもへの信頼感や思いやり、人権尊重の意識がまったく感じられない。だから、子どもが心罰に対しますます過敏になっていくのだ。

これからあるべき社会の姿は、高度情報化の中でまるで「小さな市民」のように人権感覚豊かに成長してきた子どもたちと、大人が手を取り合って進む社会だ。そうなってこそ、子どもたちの自己肯定心情が育ち、困難にも自ら挑戦する力がつく。また、社会を前進させるための力を大人に与えてくれる。いままさに、そんな時代にさしかかっているのではないか。

子どもと対等な「子ども観」が大人の間に広がり、心罰が社会全体から姿を消したときに初めて、日本は大人にとっても安心できる手ごたえのある社会になるように思う。