新学習指導要領文部省に聞く

2000(平成12)617(土曜日)

 

学習内容を三割削減し、総合的学習の導入や選択制の拡大を盛り込んだ新学習指導要領が二〇〇二年度(高校は二〇〇三年度)から実施される。学習内容を削減し過きだという批判も根強い新指導要領について、文部省の寺脇研政策課長に話を聞いた。

 

---新指導要領には批判もありますが

どんな改革も直前になると不安の声が出る。改訂の背景には、日本の教育が画一曲過ぎるとか、子供の負担が大き過ぎるという大議論があった。

前々回の八○年改訂では、詰め込み教育に対する厳しい世論の批判があり、一貫して増え続けていた学習内容を見直し、緊急避難的に内容を減らした。その後、臨時教育審議会で初めて画一的な教育手法に対する批判が出て、選択的に学ぶ部分を作るべきだという選択の概念が提起された。前回と今回の改訂は、全員が共通に学ぶ部分を減らし、代わりに選択的部分を作ったのがポイントだ。

今回の改訂では、三割減らして、そこには何も入れないように受け取られているようだが、三割削減が目的ではなく、選択的部分、つまり総合的学習の時間と選択時間の導入が目的だ。この時間をきちんと確保するため、従来画一でやっていた部分を減らしたのだ。中央教育審議会は「厳選」と言っていたのに、文部省が「三割削減」,と言ってしまったのは過ちだった。厳選して先送りしているわけだから、従来、小中学校でしゃにむに詰め込んできた内容を、高校一、二年ぐらいまでにやればいい。三割削減というより、修得スピードの三割減速だ。

減速のぺ-スについては様々な意見がある。減らし過ぎで学力低下を招くという声もあれば、「21世紀日本の構想」懇談会のように義務教育は三日でいい、もっと減らせという意見もある。私たちも三割が絶対だとは思っていない。だから教育課程審議会を常設化し、いつでも見直しができるようにした。

 

学校の常識を変える

---新指導要領の内容をきちんと教えられるような学校や教師の態勢になっているのか

そういう心配をする人は多いかもしれない。先生は今まで一方的知識流入型、画一詰め込み型の仕事の仕方をしてきたわけだから、うまく切り替えられるかという不安がある。

第一に、総合的学習をこなせるか。しかし、総合的学習はチームで教えたり、学校の外の人たちに参加してもらったりするから、先生方も比較的早く順応できるだろう。むしろ問題は三割減速して、学習内容を全員に確実に身につけさせられるのかという点だ。新指導要領の内容は、全員が最低ここまでは到達してほしいというミニマムスタンダードだ。できる子にはさらに進んだ学習をきちんと指導し、理解力の遅い子供にはじっくり身につけさせることが期待されているが、本当に大丈夫か。真ん中に合わせて授業を行い、理解力の高い子供には退屈な思いをさせ、低い子供にはしんどい思いをさせてきた百二十年来の学校の常識を今、変えようというのだから。

今度の改革では、指導要領というソフト面に加えて、ハード面の議論が必要だ。学校評議員の問題や校長の資質の問題、PTAの新しい在り方の提案、学校のチェックシステム、教師の評価システムなど、学校や教師のあり方も変えていかなくてはならない。

 

自己肯定感持たせる

---改訂の背景には、いじめや学校の荒れもある?

いじめや荒れの原因として、気持ちにゆとりがなく、自己肯定感が持てないということがある。ゆとりが持てないのは、期限を切られてやらなければいけないとか、みんなと全く同じにできなければいけないというときだ。総合的学習では、自分の好きなことができるし、教科でも全員が同じスピードで進めとは言わないわけだから、気持ちにゆとりを持てる。ゆとりの教育とは、物理的に楽ができる教育でなく、気持ちにゆとりを持たせる教育だ。

自己肯定感は、自分にしかできないことや得意なことがないと持てない。全員が同じことをやらされ、かつ試験勉強ができる者だけが認められるようでは、どうせおれなんかだめだと言う子を作ってしまう。新指導要領の意義は大きい。

 

---かつて総合的学習のような授業は教科の中でできていたのでは?

我々の小学校時代は総合学習の連続のようなものだった。雪が降ったら雪合戦したり雪を調べたり、紅葉の季節には近所の公園に行って調べたり。それが昭和三十年代までの学校の風景で、そんな時代には総合的学習などと言う必要はなかった。四十年代以降、保護者、そして文部省や教育委員会から、時間割通りにやらなくてはいけないという”圧力”が強くなり先生方に窮屈感が出てきた。教科間の垣根も高くなった。総合的学習の時間とは、昔の先生が自主判断でやっていたことを合法的に位置づけたものとも言える。

 

受験シフト崩したい

---高校の選択制は、現実には教員も不足してうまくいっていないようだ

総合学科のような高校では生徒は喜々として選択しているが、多くの高校では、選択が受験シフトになってしまっている。大学の入試科目を増やしてもいいなどと文部省が言っているのは、高校の受験シフトを崩したいからだ。

長期的には、今年の小学一年生は三年生から総合的学習をやるので実質的に新課程一期生と言えるが、彼らが九年後に高等学校に入るときは、相当数の高校が幅広い選択肢を持ち、大学入試に合わせた選択ではなく、本当に自分のやりたいことを選ぷ、そんな豊かな選択ができるようにしたい。本来持っている自己実現欲求を伸ばし、きちんとした選択ができるような人間を育てるのが小中学校教育の目的だと思う。

教員については、最もコストのかかるフルタイム・終身雇用の教員ですべてをまかなおうという考え方は行き詰まった。パートタイムやボランティアを組み合わせる発想でやればいい。

 

---選択制の結果、高校では楽な科目を選ぶ傾向が強まり、学びの逃避が起きている。

そうした一面もあろう。だが、高校でぎゅうぎゅうに教え込んだって、大学で見事に学びの逃避をしているではないか。大学生こそ、取りやすい科目だけ取っている。これまでの学校は逃避を許さないやり方でやってきたが、死ぬまで押さえつけていくならともかく、どこかで根っこから学び方を変えないと。仮に大学で押さえつけたとしても、今度は社会に出てから、楽な方、楽な方へと行くようになるだけだろう。

 

(聞き手は編集委員 横山 晋一郎)

 

新学習指導要領は、学校完全逓五日制に対応するもので、@教える内容を三割削減 A教科の壁を越え自ら考える力を養う「総合的学習の時間」を小学校三年生以上に新設 B課題・教科の選択を拡大---などが柱。

特に、学習内容に関しては、七五三(教科書の内容を理解できるのは、小学校で七割、中学で五割、高校で三割)といわれるような現状の反省から、小学校で台形や多角形の面積を削除したり、中学校で学ぶ英単語数を大幅に減らすなど、大胆な削減に踏み切った。

知識詰め込み型の学校教育の大転換につながるとの期待が寄せられる一方で、新指導要領では学力低下がより深刻なものになるという批判も強まっている。

 

2000/6/17/

 

 

新指導要領は学力低下を

2000(平成12)422(土曜日)

 

学習内容が現行より三割程度削減される新学習指導要領が、二〇〇二年度から導入されるが、慶応義塾大学の戸頼信之教授は、新指導要領はさらなる学力低下を招きかねないと批判する。

慶応義塾犬学教授

戸頼 信之

 

年頭に発表された日米の首脳の所信表明演説・年頭教書は、ともに教育を最重要課題としていたが、その方向性は全く異質のものだった。

レーガン政権が教育白書「危機に立つ国家」を発表以降、米国は精力的に教育改革を進めてきた。ブッシュ政権は数学と理科の学力向上に意欲的に取り組み、クリントン政権も読み書きと数学・理科の基礎学力の向上を最重要視している。

その結果、SAT(大学入学のための学力試験)では、受験者数が最多であるにもかかわらず、数学の平均点は過去四半世紀で最高を記録するまでになった。米国科学財団と教育庁は「数学・理科の学力向上の活動戦略」を策定したが、これを命じた教書の中でクリントン大統領は、「高度な数学と理科が大学進学や、市民となること、生産的な雇用、そして生涯教育のゲートウェーである」と位置付け、「技術・情報化時代には数学・理科の達成度をあげる必要がある」と言い切っている。

ひるがえって日本の状況を見ると、小中学校と高校の教育内容を大幅に削減した新学習指導要領が昨年策定され、二〇〇二年度(高校は二〇〇三年度)から実施されようとしている。

 

危機に立つ"日本"

日本の現在の状況は「危機に立つ国家」の当時の米国と非常に近いように思える。一九八○年代の米国では、子供の自発的な興味や個性を重視して、知識の詰め込みを否定し、体験による学習と問題解決を重視するというデューイ以来の教育哲学が強く、高校では科目選択を大幅に認めた「カフェテリア式教育」が主流だった。しかし、その結果は、著しい学力低下が生じたとされる。クリントン政権の教育政策もこうした過去の反省に立っていることを忘れてはならない。

西村和雄京都大学教授と私は、九八、九九年度に、幅広い層の大学の又系学部で数学の学力調査を行った。詳細は「小数ができない大学生」(東洋経済新報社)に譲るが、@私大のトップ校の経済学部でも分数・小数など小学校の算数レベルも危うい学生がいる A私立上位校でも数学未受験の学生の数学力は中学二年生程度 B国立大の最難関校の学生でも入試で数学を経験していない学生の多くは中学の数学もできない--など、非常に深刻な状況だ。

問題は、数学だけではない。慶応大学の教員が、ゼミで英語のテキストが使えないくらい英語力が落ちでいると嘆いた記事が、日本経済新聞に載っていたが、英語力、国語力の低下は、多くの大学教員の共通認識と言ってよい。

 

無意味な「全員100点」

日本ではこれまでも、「ゆとり」という美名の下で、教育内容の空洞化が進行してきた。算数・数学でみると内容が滅っている分、時間数も滅っている。「減らしたのは枝葉だ」という人もいるが、実際は根幹の部分の理解を促すために必要な部分が削られている。

学年間の重複もなくなったが、それは理解を確かにするための方策であったはずだ。しかも詰め込み教育に対する批判があり、教員サイドが宿題をあまり出さなくなっている。こうした状況では、学年が進むほど「理解不能な」勉強を、苦痛に思う子供たちが増えるのが当然であろう。

小学校の算数は、中学で理科・数学などを理解するための基礎である。中学校数学は高校で理科を理解するのに不可欠である。ところが、新学習指導要領では現行よりさらに算数・数学の時間が減る。分量にして三割の内容が削減されるのである。

小学校の算数に焦点を当てると、たとえば、四けたの足し算、引き算がなくなる。小数の計算は小数第一位までしか教えない。しかも、中学でも教えない。中学の数学は各学年で週三時間になる。これが、多くの高校生を理科・数学嫌いに導くであろう。

文部省の政策担当者が、内容の三割判滅で「全員100点とれるようになる」とまで公言しているが、たとえ内容を六割減にしたところで、そのような目標が達成されるはずはないし、そのようにして達成された「全員再点」に、どんな意味があるのだろうか。

総合的な学習が体験学習、問題解決型の教育という題目の下で導入され、個性重視の掛け声のもと、高校の新カリキュラムでは、科目選択が無節操なまでに自由となる。こうした方向の教育は、冒頭で述べた過去の米国の教育改革において、失敗と認識されており、「危機に立つ国家」でも、高校生により厳格な科目の履修をさせるように勧告していた。

最近ニューヨーク州で高校の卒業資格試験が導入されたが、試験科目が定める履修科目とその時間数は基礎科目に厚いものになっている。

 

貧富の差すら拡大

新指導要領の社会的な影響はどうだろうか。内容が薄まった新指導要領の導入とは、公的教育が、かつてのパフォーマンスを示していないことの裏返しでしかないことに注意すべきだ。公立の学校で教育を受けるとなると、学習塾で補習を受けない限り高い学力はつかない。公的教育の質低下のコストを国民が負担することに外ならない。

このことは、経済的に問題のある家や、教育に理解のない家の児童が、これまでと同様の教育を受ける権利を大幅に奪うことも意味する。家計における教育費の増加は、少子化に拍車をかけるだろうし、長期的には貧富の差を拡大する危険すらある。

最近、東京大学の合格者における私立・国立の六年一貫校卒業者の割合が、尋常でないくらいに増えている。半面、有力な私立高校がない県からの合格者数は軒並み減少している。田舎の県立高校を出て大学教授になるのも私の世代が最後となるのだろうか。

すべての問題は、文部省。の役人が決めたことをすべて一律に地方に押し付けることである。緩やかな指針としての指導要領を残して、科目設定と教科書編集を地方レベルでより自由にできるようにすべきである。

豊かな国に豊かな教育を実現してほしい。そのためにはまず、新指導要領の実施を中止してほしいと思う。私たちは、「二〇〇二年度からの新指導要領の中止を求める国民会議」を結成してインターネットで署名運動を始めた(http://www.naee2002.gr.jp/)。賛同する方の協力をお願いしたい。

 

 

新学習指導要領では、学校完全逓五日制の導入に対応して、授業時間が週二時間滅ることもあり、学習内容が三割程度削減される。多様なテーマに目を向け、自ら考える力を養うことを目指した「総合的な学習の時間」も小学三年生以上に新設される。中学、高校段階で、科目の選択制がより広く導入されるのも特徴だ。指導要領改訂の大きな狙いの一つが、「知識偏重教育」からの転換だった。背景には、教科書の内容が多岐にわたり難しいこともあって、七五三(小学校で七割、中学校で五割、高校で三割しか授業が理解できない)といわれる現実があることへの反省がある。

ただ、科目間のバランスを配慮したともいわれる削減作業の結果、新しい指導要領で、本当に基礎・基本が身に付くのかという不安の声も相次いでいる。教科学習の内容を削減する傍らで総合学習を導入しても、総合学習自体が空洞化しかねないという指摘もある。

既に学校現場では、この四月から、新学習指導要領の移行期間として、総合学習の導入などの取り組みが始まっている。正式導入まであと二年。子供も保護者も教師も納得できるような、指導要領をめぐる活発な論議が求められている。