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自由学園の美術教育
独創性生む感性磨く

受験戦争の陰で、学校教育における美術や音楽の位置付けが難しくなってきている。青少年はどのようにして美しいものを受け止める感性を養っていくのか、日本画家の池田幹雄氏に寄稿してもらった。

私は縁あって毎運土曜日に東京の郊外、東久留米市にある私立、目由学園で、生徒と共に美術の勉強をしている。

約20年前から参加
創画会という白本画団体の創立者の一人である吉岡堅二先生が以前、この学園で教えておられ、「ぼく自身が教育されたよ」と話されていた。その先生の勧めで私が加わったのは20年あまり前のことだ。
最初の印象が鷲くほど新鮮だった。ちようど新緑の季節。全校の生徒がいっせいに広い学園の新緑を描いていた。幼稚園から小、中、高、大学相当の最高学部まで、一貫教育がこの学園の特徴だが、年齢の違う生徒が一つのことをする。
秋になれぱ紅葉。遠足から帰ってくると、記憶をたどりながら自分の目に焼き付いている映像を描く。夏休みの宿題で、家族の日常生活をありのままに描くこともある。そこで感じたのは、同じ題材でもどういう色を出しどういう工夫をするか、年齢によってこんなにも違うものかということだった。一つの学年、同じ年齢の生徒だけだったら到底見えなかったことが見えてくる。その中からそれぞれの年齢に応じて何に力点を置いて学べぱよいかが、おのずと
はっきりしてくる。
私が担当している女子部では、普通科(中学)以上の全員が一つの食堂に集まって昼食をとりながら、作品を並べて見る。点をつけたり、賞を出したりはしない。けれども、お互いの作品を観賞する中で「自分」が分かる。低学年の生徒にも高学年になるとどんなことができるようになるか自然に理解できる。
作品を取り上げて簡単な批評を加えるが、作品を選ぶ基準は見た目のよさとか、うまいへたではない。作品には透き通った絵と、そうでないものとがある。澄んだ心で自分を偽らずに出した桧は透き通って見える。そうした作品を取り上げるように心がけている。自分の目で何を発見し、何にドキドキ感動したか、いかに一生懸命見たか−−。その時の心の状態が絵には出る。そのような絵が描けるかどうかは技術的な訓練より、生活によって磨かれるように思う。

拭行錯誤の連続
自由学園では四年に一度、「美術工芸展」を開く。創立75周年の今年は11月15−17白に全校生徒の作品を集めて展示し、広く一般に公開する。4年分の作品を見てまわると、4歳から22歳までの生活の鼓動というか、心の様子が感じられる。
私の子供のころ、戦前の美術教育は、お手本を1ぺージ目から写すものであり、自分で本物を見る体験はほとんどできなかった。
これに対して自由学薗は、1921年の創立時から、自由画運動の先駆者であった山本鼎を招き、独自の美術教育を始めた。その後も本郷新、吉岡堅二、佐藤忠良らの作家が指導に携わった。現在でも指導者は、私をはじめほとんどが絵画や彫刻などの創作活動を専門にしている講師である。
何をどう教えるかは、講師が集まって話し合い、生徒の可能性をいかに引き出すかという観点から決めていく。常に教える側も新鮮で、温度の高まりのようなものがないといけない。試行措謀の連続でもある。
もちろん、年齢に応じて特に学んでほしいポイントはある。初等部(小学校)なら自然の中から対象を探し出し、しっかりつかむこと、つまり素描力だ。普通科(中学)ではそれを映像化する描写力を、高等科では目で確認したことを一つの作品に仕上げること、構成を学ぶ。
さらに、女子の学部(2年制)では陶芸や絵画、織物、木工などいくつかのグループに分かれ、生活の中で生かせる作品づくりに取り組む。
今日の公立学校の美術教育のメニュ−は戦前とは比べものにならないほど充実している。版画一つとっても木版もやれば銅版も教える。素材も実に豊富だ。しかし、文部省の決めたカリキュラムに従い、業者の開発した素材を使って、一通り技法的なものを教えるというやり方で、若い人の感性を磨くことができるだろうか。

何もかも教わる弊讐
美術は本来、教育以前のもっと身近なものであるはずだ。それが教育と考えて何か押し付けようとするから型にはまる。何もかも教えてしまうから、独創的なものを生み出す力が弱くなるのではないだろうか。
実は「教える」のが一番楽ではある。こうやって描くと教え、それからはずれたら点を引けぱいい。しかし、そういうやり方でなく、この子はどうやったら生き生きとしてくるか、自分の気持ちを素直に出せるだろうかと一緒になって考えて、はじめて独創性も養える。
「はにわ」を思い浮かべてもらいたい。決して教育によって生まれたものではない。生きる姿がそのまま表現されているのが、素晴らしいのだと思う。
私は、生徒に美術を学んだ感想文を書いてもらう。「美術の勉強はとっても楽しい」と書く生徒もいる。一方では「自分は絵を書くのが苦手で、苦しんだけれど、おかげで自分を見つめる一年だった」と、語りかけるような長い感想文を出してくる生徒もいる。たとえ芸術家をめざす人でなくても、受験の役に立たなくても、こういう経験を大切にしてもらいたい。
1996/11/10/日 掲載記事

教育コラム

子供に自然との触れ合いを
小学校の高学年生に竃子メディアなどへの接触状況を尋ねてみた。テレビゲームを「一度以上したことがある」割合が92%。CDを扱ったが81%、ビデオが69%などは納得できる。パソコン(ワープロを合む)が61%、携帯電話(子機を合む)57%、八ミリビデオ40%、ファクス37%などの数字を見ると、情報化社会が子供たちの周りにも迫っているのを感じる。
そうした一方で、「生きた魚に触った」は43%、「木に登った」も35%にとどまる。「山や川をはだしで歩いた」が27%、「真っ暗な夜道を歩いた」が19%という調査結果もある。電子メディアなどへの接触は豊富だが、生き生きとした体験に欠ける。
それでは、「パソコン通信をする」のと「木に登る」とでは、一体、子供の成長にどちらの体験が望ましいのだろうか。あるいは、「パソコンで文章を書く」と「生きた魚に触る」との対比でもよい。パソコンを操るのは知的な感じがするうえに、将来に役立ちそうだ。しかし、木に登るのは危ないだけでなく、古臭く、そんな経験など不要なように思える。
多くの親や教師は子供にパソコンを奨励することはあっても、木登りを勧めようとはしない。その結果、知識だけは豊富だが、生の体験に欠ける子供が育ち始める。情報化社会だからこそ、子供のうちに自然との触れ合いや人との交わりなどの生活体験を大事にしなけれぱと思う。
1996/11/10/日 掲載記事