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1 変わるコンピュータ
「コンピュータを使うと学生が授業中,眠らない」。これはある同僚の教師の言葉で
ところでここ数年のあいだに大学などでは,コンピュータが急速な勢いで学校の中に入り込んできている。以前は,コンピュータといえば情報処理関係の学科が中心であったが,文科系においても積極的に授業で活用する学校が増えてきている。コンピュータを設置して学生に自由に使わせる自学室の整備も進んでいる。また,それぞれのコンピュータを通信ネットワークで結び,教員同士や学生同士,あるいは海外とのメール交換も日常化しつつある。その背景には,「大学の冬の時代」を迎えて生き残りのために情報化への対応を重点課題とせざるをえない,各大学の事情がある。
一方,義務教育の場合はどうだろうか。情報化の必要性が叫ばれているが,現場では情報化への対応はそれほど目立った動きを示していない。確かに一部の学校では,コンピュータを導入し,それを活用した新たな授業を展開したり,インターネットを利用して学校間の情報交換などを試みる実験が行われている。しかし,全体からみれば,それらはごく一部の限られた学校であり,一般的には情報化への対応は鈍い。
コンピュータを活用した学習の意義については,かなり以前から指摘されてきた。しかし,ここ数年の論調はそれまでとはちがう変化をみせている。
いままではどちらかといえば,コンピュータは,学習の補助的な役割を担うものとして位置づけられてきた。紙やエンピツと同じように,それは道具の一種であり,教師の仕事を補助するテーチィングマシンとみなされてきた。つまり決められた仕事を効率よくこなす,ロボットのようなものであった。
ところが最近のコンピュータ技術の発展は,そうした見方を変えつつある。コンピュータはテキストだけでなく,画像や音声も一元的に扱うマルチメディア機能を備え,同時に通信ネットワークにも対応するようになった。さらにその操作性は以前と比べて格段にやさしくなった。これによって,紙や鉛筆という次元の道具から,自己表現を可能とする道具,膨大な情報を入手しうる道具,さらにコミュニケーションの道具へと変わりつつある。
教師の仕事を補助するロボットではなく,まさに教師そのものになりうる可能性を秘めた道具なのである。
このようなところから,コンピュータによって,「学習が変わる,教師が変わる,学校が変わる」と主張する論者も登場するようになった。
以下,近年におけるコンピュ−タと学習のあり方に焦点をあてながら,この点をもう少し詳しくみてみよう。
2 コンピュータと新しい学習
コンピュータの導入を促し,情報教育の推進を説く論の背景には,いうまでもなく社会の高度情報化という現実がある。これから社会はますます情報化していく。そこでそのような情報化に対応できる能力を学校で育成する必要があるというわけだ。変化する社会への対応という観点からコンピュータ教育の必要性を説く論である。
こうした考え方は一般に広くみられ,今日の情報教育の推進力になっている。たとえば,1986年に出された臨時教育審議会の答申はこうのべている。「新しい情報手段は,これまで主として産業面で取り人れられてきたが,…・今後は,家庭生活,教育,芸術など個人が生身の人間として直接体験するところにまでいや応なく浸透してくる傾向にある」。そのために「今後,社会への情報化に備えた教育を本格的に展開して行くべきである」という。ここでは,われわれの生活の中に情報化が浸透するから,それに備えた教育を行うべきだという主張がのべられている。ただし一言補足しておけぱ,臨教審は社会への対応の論理だけでなく,次のような「学習の論理」も展開していた。「本格的な情報化は,教育において,教えるものと学ぶものとの双方向の情報伝達を大幅に拡充するとともに,時間的,空間的制約を緩和して情報のネットワークを中心とした新しい『学習空間』を創出するという基本的な効用をもっている」。しかし,「新しい学習」とコンピュータの関係について,臨教審はそれ以上詳しい展開を行っていない。
臨教審以外にも,経済界の主張などをみてみると,社会への対応という観点から情報教育の必要性を強調する論が目立つ。一例として,昨年(95年4月)に出された日本経営者連盟『新時代に挑戦する大学教育と企業の対応』をみてみよう。そこでは「世界的な高度情報化社会の到来の中で充分に適応できる人材を育成するため,低学年からコンピュータに接し,自然に自分のものとしてしまう,いわゆるコンピュータリテラシーの普及に努めてほしい」とのべている。つまり高度情報化社会に「充分に適応できる人材」づくりが情報教育の目的とされている。
以上みてきたのは,社会の変化への対応という観点からコンピュータ教育の重要性を指摘する論である。これは,情報化社会にうまく適応して生きていけるように,情報活用能力を身につける必要があるといった,いわば適応論である。
しかし,コンピュータ教育の意義や必要性については,別の観点から主張する論もある。すなわち,子どもの学習にとってコンピュータがどのような意味をもつか,この点を重視する見方である。
ここでは学習論の観点に立つコンピュータ教育論とよんでおくが,こうした考え方は,コンピュータ教育に開心をもつ教育学者だけでなく,文部省の中にも支持する人々がいる。
文部省学習情報化メディア課長という肩書きをもつ多田元樹は,その『「マルチメディア」で学校はどう変わるか』(1995年)のなかでこうのべている。
「言うまでもなく,自ら学ぶ意欲や思考力,判断力,表現力などの能力の育成を新しい学力観では基本としている。…・マルチメディア以前のコンピュータは,…・ドリル練習型や解説指導型のCAIによる利用が中心であった。ところが,文字ばかりでなく映像や音声等の情報も一体的に処理できるマルチメディアパソコンが登場したことにより,問題解決や自然探求,自巳表現などのための道具としてコンピュータを利用することが可能になったのである」。
引用がやや長くなったが,そこにみられるのは,次のような認識である。いままでのコンピュータは,学習の効率化のためにテーチングマシンのような使い方しかしてこなかった。しかし,コンピュータ技術の発逹により,マルチメディア的な利用の仕方が可能となり,思考力・判断力・表現力の育成をねらいとする,”新学力観”の逹成のために有効に活用しうる道具になった,と。
周知のように,90年代のはじめ頃から,文部省はさかんに”新学力観”という考えを強調するようになった。コンピュータはまさにそのような新しい学習のあり方をサポートし,推進する道具として注目されている。「新しい学習論」とコンピュータ・テクノロジーとがうまくドッキングしたわけである。
コンピュータと「学び」との関係について,積極的な発言を統けている佐伯胖も情報教育における「学習の論埋」を重視する。かれによれば,社会への対応のために情報教育を行ったとしても,テクノロジーの発展は急速であり,学校で学んだことがらはすぐに陳腐化してしまう。したがって,社会への対応という観点ではなく,子どもの「学び」にとってコンピュータがどのような可能性をもつのかという視点をもつことが必要だと主張する(水越敏行・佐伯胖『変わるメディアと教育のあり方』)。
情報教育をめぐる論理は,いまみてきたように「社会への対応」の論理と「新しい学習
しかし社会への対応というとき情報化した社会生活への適応という面ばかりではない。注意すべきは,産業界の要求する,創造的・独創的な情報技術者の育成への対応という面もあることだ。経済界の主張には常にこうした二つの要求が含まれている。たとえば,先に引用した日経連の報告書においても,情報化に対応するためには,多くの人が基礎的な能力として,情報関連機器を使いこなせること」とのべたうえで他
しかし,結果的にみれば,それは産業界の要求する人材の育成に寄与することになる。この意味において,「社会への対応」の論理と「新しい学習」の論埋は決して対立するものではなく,相互に補完し合う関係にある。
3 コンピュータと学校改革
いまみてきたように,変化する社会への対応という機械的なとらえ方ではなく,コンピュータの,学校への導入が子どもにとってどのような意味をもつのか,こうした観点から情報教育の意義をとらえ直そうという論が最近目立っている。
代表的な例が,第15期中教審第1次答申である。そこでは,社会への対応という視点もみられるが,むしろコンピュータが子どもたちや学校に何をもたらすかという観点が前面に押し出されている。
こうした論調の背景にあるのは,マルチメディアやインターネットの発展であり,これにともなうコンピュータに対する過剰な期侍の高まりである。そしてさらに期待が膨らむと,コンピュータは従来の学校のあり方を大きく変革するテクノロジーという見方が出てくる。たとえば,鈴木敏恵は『マルチメディアで学校革命』の中で次のように発言している。
「情報化は,授業を変えます。学校や教育を変えます。教科書と黒板,そして先生が主たる知識の情報源だったこれまでの学校…そこに,広い範間からたくさんの知識や情報が入ってくるのです。…『変わること』はすてきです。新しい変化は,モノト−ンの世界に色彩を与えます。学校が,心ひかれるフルカラ−な知の宇宙に生まれ変わる可能性だってあるのです。このテクノロジ−のすばらしい産物を,学校にこそもっともっと満載し,活かしてあげたいものです」。
ここでいわれる「情報化」とは,コンピュータを中心にした情報化を意味している。書名で使われている「マルチメディア」も,コンピュータの機能としてのマルチメディアである。要はコンピュータを学校に導入し,「このテクノロジーのすばらしい産物」を活かすことによって,「心ひかれるフルカラーな知の宇宙」が生まれる(可能性がある)ということである。「フルカラーな知の宇宙」が誕生するために教師がどれだけ苦労しなければならないかについては,彼女はいっさい触れていないが,いずれにしてもこうしたバラ色の未来の学校観の裏側には「今ほど,学校がパサパサと色あせたものとなり,そこにおける教育が社会とかけ離れ陳腐化してしまった時代もないでしょう」といった,現実の学校に対する批判意識が存在する。
現実の学校が,画一的かつ閉鎖的なシステムになっていて,子どもにとって楽しい空間ではなくなっているという認識は,情報教育の推進を説く論者の多くにみられる認識である。だからこそ,学校にコンピュータを積極的に導入し,子どもたちが生き生きと学べるような新しい空間をつくり出すべきだという主張になる。
学校の画一性・硬直性を批判する論は,臨教審以後,教有改車の主導的な理念になっている。文部省もこうした立場に立ち,学校の弾力化・多様化に熱を入れている。弾力化・多様化した後にどのような学校像が出現するのか,この点については文部省自身も,明確な青写真を持っているわけではない。しかし,コンピュータ導入のインパクトが,従来の学習のあり方,学校のあり方を変える契機になることを期待しているといってよい。
第15期中教審答申もまた,学校教育の質的改善にコンピュータが大きく寄与する点を強調する。とくにネットワークで結ばれたコンピュータのもつ潜在的可能性を高く評価している。答申が指摘するメリットをまとめると以下のようになる。
すなわち,ネットワークの活用は,個に応じた教育,教育における時間的・空間的制約を克服するなど,学校教育の質的改善に資する。それは,一人一人の個別の学習二一ズに応じた指導,豊富な教材の提供,へき地の学校など比較的教育条件に恵まれていない学校の教育条件の改善,病気療養児の教科学習等の補完,外国の学校との交流などに活用できる。さらに学校間交流や国内や世界の様々な地域や学校との交流が可能になり,学校が社会,さらには世界に開かれたものとなる。また,それを通して子どもたちは情報発信能力を身につけることができるようになる,というものである。こうしたメリットを指摘しながら,近い将来,すべての学校がインターネットへ接続することを目指すべきだと結んでいる。
さすがに鈴木ほど楽天的に学校の未来を語っていないが,そこには中教審なりのバラ色の未来像が描かれている。ちなみに10年ほど前に文部省の出した情報教育に関する文書(情報教育に関する調査研究協力者会議「審議のまとめ」1985年)と比較してみると面白い。
その文書は「コンピュータをはじめ各種のニューメディアの導入に当たっては,学校教育がもつ本来の目的,目標の達成に資するものであることが基本である。……このため,コンピュータ利用等に当たっては学校教育のこれらのねらいと矛盾することなく,むしろ本来の目的,目標をよりよく実現するものでなければならない」とのべている。つまりコンピュータの導入は,既存の制度の枠をはみ出すものであってはならないという,堅苦しい表現が目につく。
これに対し,今回の中教審答申では,かなり柔軟な姿勢が目立つ。「情報通信ネットワークの活用は,一つの学校の枠を越えて,様々な学校や地城との情報の共有・交流を可能にし,学校がそれらとの連携の下に教育活動を展開することを可能にするものである」。そしてそれを利用することは,「子供たちに豊富な教材を提供する上でまた子供たちの学習の対象を広げ,興味や関心を高める上でその効果は極めて大きなものがある」と説いている。
こうした見方のちがいを生み出したものとして,”教育の自由化”や”新学力観”といった,教育観の転換をあげることができる。さらに,繰り返しになるが,コンピュータそれ自体の機能における大きな変化も見逃せない。l0年前にはネットワークのもとでコンピュータを活用するという発想はほとんどなかった。しかし,コンピュータがお互いにネットワークで繋がれることにより,学習の道具としての新たな活用の可能性が広がったのである。
4 残された課題
以上みてきたように,今回の中教審答申では,コンピュータの活用,とりわけ情報ネットワークのもとでのコンピュータの活用に大きな期侍がかけられている。しかし,これを受けて,文部省がどのような施策を展開するのか,この点はいまだに不透明である。答申のいうように,全国の学校にインターネットを導入するのかどうか,財政的な問題も絡んでかなり困難が予想される。確かにいま「100校ブロジェクト」という形でインターネットを用いた実験授業のブロジェクトを文部省は試行している。しかし,その結果を踏まえて,実際にインターネットを導入するかどうかは,文部省自身にも迷いがあるのではないか。財政的な問題はもちろんだが,それ以外に,もしもインターネットを導入して,それを利用した学習が行われるとなると,学校空間の中に「アナーキー」な状態が出現する可能性があるからだ。
周知のように,インターネットには膨大な情報が蓄積されている。「不思議な巨大空間」(立花隆)の中を,マウスのクリックーつで自由に飛び回ることができる。そこには”教育的”と呼べないような情報もたくさんある。子どもたちの興味・関心の赴くままに,いろいろなサイトにネット・サーフィンした場合,どのような状況が生まれてくるのか。
私自身は,こうした「アナ−キー」な状態の出現には反対ではないが,文部省にしてみれば,それは現行の学習指導要領体制を根幹から覆すものになりうる,ゆゆしき事態といってよい。インターネットを用いて,「不思議な巨大空間」を探索することは,教えるべき知の体系を定めた学習指導要領の枠を越え出る可能性を秘めている。
文部省がどこまでこうした事態に自覚的かどうかはわからないが,コンピュータのネットワーク利用に対しては,慎重な姿勢をとっていることは確かである。また,たとえ実際にネットワーク利用が行われたとしても,それをサボートする教師に高度な専門的知識・技術が要求されるという問題が残っている。多忙化の教師の現状をみると,これは大きなネックになるにちがいない。
コンピュータを利用した授業で子どもたちが生き生きするという現実があることを,私は否定しない。しかし,コンピュータが主役になり,それが教育や学校を大きく変革するという考えには同調できない。教師が子どもたちに知識を教え込むという伝統な様式は,どこまでも残り続けるだろうし,また知の伝逹において不可欠な作業である。こうした教え込みの手法とコンピュータを活用した「新しい学習」とが,これからどのように”折り合い”をつけるか,これが問われるべき課題であると思われる。
(ひろせたかお)
教育文化研究所発行 教文研だより 1996/11月号より転載
転載者の独り言
教文研だよりからの転載文である。この文が,コンピュ−タを教育に生かそうとする現状を率直に語っているように思われる。
コンピュ−タの進歩のはやさは驚くほどで,日進月歩をなぞって秒進分歩と言われるほどである。進歩があまりにもはやすぎて2年前に導入されたコンピュ−タでさえも,残念ながら文字情報に画像情報や音声情報をまじえたマルチメディアに対応することが難しくなっている。このうえさらに,動画情報を扱うようになると現在最速(ペンティアムプロ200MHz)とされるコンピュ−タでさえも,そのときは不満が残ることになるだろう。
しかし一方で,進歩した技術を,人間に対して優しいコンピュ−タになるように使うようになる。以前は,命令を文字を入力することで行っていたが,今はアイコンという小さい図柄をマウスという道具でクリックすることで行えるようになっているし,直観で操作することができるようにもなっている。機器の接続とその設定も簡単になっている。ただ,簡単とは言っても,それは以前に比べて簡単ということであり,小さいとはいえコンピュ−タなのだから,まだまだ敷居が高いことには違いない。しかし,その敷居の高さも,コンピュ−タの能力が進歩するにしたがって,よりフレンドリ−なものになることも確実である。
『l0年前にはネットワークのもとでコンピュータを活用するという発想はほとんどなかった』というのはその通りである。まだパソコンという言葉もマイコンという言葉もなかった1979年にタンディ社やコモド−ル社の小型コンピュ−タを見て,ようやくコンピュ−タを身近で使えるようになったと感激し,1982年には何とか漢字が扱えるようになったと驚いていた頃は,まさかここまでパソコンが発達するとは思わなかった。コンピュ−タが教育現場で使われるようになることは確実とは思いながらも,まだまだ先の話だと思い,変わり者と陰口を言われながらパソコンに向かっていた頃の話である。1984年にようやくコンピュサ−ブにつなげることができ,ようやくパソコンが外部につながったのだが,絵も,音も扱うことができなかっただけでなく,漢字さえもようやく単漢字変換で表示できていたときに,ネットワ−クなど普及するはずもなかった。絵が表示できたときも感激したが,インタ−ネットを通じて音が送られてきたときは驚きを感じてしまった。でも,1986年当時はようやく10MHzで動く16ビットパソコン「98VM2」が世に出た頃であり,技術がネットワ−クを日常的に組めるほど発達していなかったのである(「一太郎」が「JxWord」という名前で初めてPC100というパソコンに添付発売されたのが1983年末)。いいや,発想はあったのだが,それを育むだけの技術がなかったのである。
技術が加速度的に進み,それが,『さらに技術の進歩は,家電製品のようにだれにでも手軽に使えるコンピュータを生み出すだろう。となれば,学校でわざわざコンピュータの扱い方を学ぶ必要性はなくなるわけである』と,言うように,コンピュ−タの使い方がよりフレンドリ−になり,使い方そのものを覚えるのではなく,コンピュ−タで何をするのか,という面,情報そのものをどう扱うか,という面に目が向けられるようになってきた。「どのパソコンを買えばよいか」という質問から「この仕事をするのにどのソフトとどのソフトを使い,どう組みあわせて使えばよいのか」という質問に変わってきている。
コンピュ−タの教育への導入は急である。それは,教育の目的そのもののためだけでなく,産業界の,そして社会の要請でもある。そのことは次のように述べられている。『産業界の要求する,創造的・独創的な情報技術者の育成への対応という面もあることだ。経済界の主張には常にこうした二つの要求が含まれている。たとえば,先に引用した日経連の報告書においても,情報化に対応するためには,多くの人が基礎的な能力として,情報関連機器を使いこなせること」とのべたうえで他方では「さらに情報通信の高度化を先導する情報技術者・研究者などの先端的人材を確保する」と指摘している』。望ましい人材の育成に向けての要請である。
ただ,人間性の完成に向けてという教育の目的の達成に,『あくまでも子どもの学びの現実に目を向け,それを少しでも「真の」学びに近づけるという「善意」に支えられている』という点も忘れてはならない。
しかし,そのための教職員の負担は大きくなる。『「フルカラーな知の宇宙」が誕生するために教師がどれだけ苦労しなければならないかについては,彼女はいっさい触れていない』は,その影の側面である。パソコンが高性能になるにつれて,システムは複雑になる。WINDOWS95の組み込みに,パソコン1台について,うまくいっても2時間から3時間の時間が必要である。それもまとまった時間でである。その時間をどう作るかが問題なのである。家電製品のようなわけにはいかない。何も問題がなければ優しいコンピュ−タでも,おざトラブルが発生すると厄介である。トラブルが生じた場合は対応は不可能ともなるだろう。『たとえ実際にネットワーク利用が行われたとしても,それをサボートする教師に高度な専門的知識・技術が要求されるという問題が残っている』ということを忘れてはいけない,少なくとも今は,である。
余談だが,この文を校正しているときにパソコンの画面がいきなり止まってしまった(フリ−ズしてしまった,凍ってしまった)。どうやっても再起動しない。しかたなく電源を切って再度,電源投入。それでもダメ。キ−ボ−ドの接続が緩んでいたことに気づくまで1時間もかかってしまった。一瞬青ざめてしまったが,こうしたトラブルはしょっちゅう起きることでなのである。先を続ける。
コンピュ−タが教育のための有効な道具であることには異論はない。しかし,その力が現在の組織のありようを変えることにもなる。『インターネットを用いて,「不思議な巨大空間」を探索することは,教えるべき知の体系を定めた学習指導要領の枠を越え出る可能性を秘めている』という心配もある。
大げさな話かもしれないが,ソビエトを崩壊させたのもベルリンの壁を崩したのも,情報の活発な流れが根底にある。そのことを考えれば,おそらく学校の組織自体が変わることになると予想するのも無理ないだろう。学校のありようも大きく変わるかも知れない。企業で起きていることが学校組織で起きないという保証はない。インタ−ネット等のネットを使えば,在宅で学習を進めることも可能なのである。
以前は,コンピュ−タに対する認識の浅さ(情報に対して鈍感?)もあってか,『コンピュータの導入は,既存の制度の枠をはみ出すものであってはならない』という規制もあったということであるが,そうも言っていられない事情がでてきた。先進国と思ってきた日本がいつのまにか後進国になっていた,という危惧があるからである。創造力,独創性,個性化が言われるようになったのも,情報化の波に乗り遅れようとしている日本の事情が重なっている。規制の撤廃も,NTTの分割もこの流れの中にあるのかもしれない。いまや,ソフト市場はマイクロソフトの独壇場であり,ハ−ドの頭脳部分はインテル社に占められている。これまでの日本の優位性が消えつつあるのかもしれない,そんな危機感が出てきている。
われわれは,もっと情報に対して敏感でなければならない。水も安全も,空気も,情報も,サ−ビスもタダでは手に入らないということを認識するべきなのである。
ついでにもうひとこと,情報が力をもつにはストックが必要である。フロ−の情報とストックされた情報はどちらも大事である。この点についてはまた別枠で。
思考力を養うと言っても,考えるもとになるものは必要である。『教師が子どもたちに知識を教え込むという伝統な様式は,どこまでも残り続けるだろうし,また知の伝逹において不可欠な作業である』ということになる。ただ,『こうした教え込みの手法とコンピュータを活用した「新しい学習」とが,これからどのように”折り合い”をつけるか,これが問われるべき課題である』。
なぜか,○か×,黒か白か,というように極端に走りがちであるが,△も▽あるのだし,白に近いグレ−から黒に近いグレ−まであるのである。ゆとりをもって考え,バランス感覚を養うことが大事である。コンピュ−タを使って独創性を養うことも必要だし,実物に触れて経験を豊にすることも,人と人のコミュニケ−ションも大事だし,コンピュ−タから離れて美しいものに触れて感性を養うことも必要である。過ぎたるは及ばざるが如し,である。
さて,本校の現状は,そしてこれからの見通しは・・・,それは,今のところ,計画に書いた通りである。ネットワ−クに移行するにせよ,単独で使うにしろ,慣れることが大切であり,ついで,自分を表現するために,絵や図を描けること,日本語を入力できるようになること,情報の分析というと大げさだが,表計算ソフトでグラフや表を作れること,こうしたことができるように,とねらっている。
情報を受信したり発信するのは,それらができてからの話である。とにかく,ふれる時間を多くすることが一番必要なことである。でなければ,情報格差が益々大きくなっていくばかりではないか,と心配する。
転載者の勝手な独り言である。
1996/12/10/火