昨年十月にスタートした連載企画「教育を問う」には電子メール、ファクス、郵便を通じて二千件を超える反響が寄せられた。そのほとんどが教育に対する危機感を訴えるものだった。学びの場をどのようにつくり直すか、教えの衰退に歯止めをかけるには何をすべきか。具体的な提言も相次いだ。
2001年(平成13年)6月30日(土曜日)
▼大学改革には、入学を易しくし入学後の勉強の度合いでスクリーニングする方法が必要だ。意欲も適性も認められない学生にお引き取り願うという当然のことができない原因の一つは予算消化の観点に立ち、入学者がそのまま卒業生になる姿を好ましいとする行政にある。学生定員との関連を軸に、教育予算の配分方法を考え直すべきだ。(森岡伸、51歳、大学教授)
▼私立大学の経営主体である理事会は人事権をもっていないため、多額の研究費を持ってくる優秀な教官を採用できないでいる。人事は大学の経営とは無関係な学閥などで決まり、その結果、収入を授業料に頼るという歪(ゆが)んだ経営をせざるを得なくなっている。(長谷川晃、67歳、大学教授)
▼大学は、現実世界の問題とは隔離した、文部科学省が机上で作り出した需要にこたえるべく研究をしている。教育予算は文科省にあてがうのではなく、真の需要者である国民に配分する仕組みを作ることが解決策になる。(穂鷹良弁、64歳、大学教授)
▼学校は何より、父親を含む保護者に対し開かれるべきだ。保護者会が平日に開かれる現状では、父親が学校と接点を持つ機会は限られる。二〇〇二年度から土曜授業もなくなり、この傾向はますます顕著になるだろう。フルタイムで働く保護者にとって切実な問題で、学校は保護者の都合に歩み寄るべきだ。(横田租伸、40歳、会社員)
▼安全も教師の質にも信頬を寄せられない以上、入学前に学校の実態が確認でき、入学後も転校のタイミングを逸しないように、学校の情報公開が急務。一方で、自分の都合しか考えない親に教員が振り回されることのないように、学校は教育方針を明確にしておく必要がある。親は学校の方針に共感できなければ転校すれば良い。(大竹雄一、37歳、会社員)
▼教育にも規制緩和と改革が必要。学校はすべて民営化し、国は学校を経営するのではなく、子どもに学費を援助するだけでよい。さらに年齢一律ではなく、科目に対するレベルによるクラス分けをする。数学は中学一年レベル、英語は高校三年レベルという子どももいる。その水準に合わせて年齢に関係なく授業を受けられるようにする。(水野省吾、45歳、会社員)
▼企業はもっと積極的に教育システムに参加するべきだ。求める人材を育てるようなカリキュラムの導入を学校に促したり、育児休暇の拡充や育児施設の増設も必要。父親がもっと育児参加できる環境整備も、国と一体になって取り組まなければ日本は衰退するはかりだ。(飯島寛、41歳、自営業)
▼ゆとり教育は落ちこぼれを無くすという目的を遂げられなかった。結論が出ていることをなぜ強化するのか理解できない。落ちこぼれを無くすには、生徒と教師に能力の差を認め切瑳琢磨(せっさたくま)してもらうしかない。新指導要領の見直しがなされない場合、塾や私学に子どもを通わせる費用の税控除は当然だと考える。(吉川正見、46歳、会社役員)
▼子どもを塾に通わせるために親は休日も働きに出て、家庭や地域で醸成されるべき道徳教育も崩壊する。あらゆる分野にエキスパートがいて、一方でゼネラリストがいるからこそ社会が発展する。こうした人材を育てるには、能力に応じた機会均等の教育システムを作り、カリキュラムを作成する必要がある。(阪本弘、45歳、会社員)
▼最大の問題は教えが衰えること。「ゆとり教育」「創造性重視」といっても、行政を含めた教える側が変わらなければ実態は変わらない。既得権者の集まりである圧力団体が、多くの競争の芽をつぶしている。学校は最後に残った規制業界。新規参入が難しく、既得権者には無駄な税金が流れていく現状を改めるべきだ。(44歳、会社役員)
▼開かれた学校を実現するには学校側の体制が不十分だ。警備は民間の警備会社に依頼し、警備員は地域の高齢者を訓練して雇用する。保護者らの来校時に校内を案内したり情報資料を保管管理する体制も、地域の高齢者を人選し、教育委員会や学校、自治会、保護者が連携する中核になる地域コーディネーターとする。(紀野好佑、65歳、ボランティア)
▼校長を含め教員採用や配置は地域にゆだねる。ビジネスとして人材派遣会社が成立しているように、校長や教員は登録制とし地域や親が校長を選ぶ。校長は自分が描く学校を具現化するために必要な教員を、登録者から選ぶ。教員も自分の考えにあった学校や校長を選べるようになる。(50歳、小学校教員)
▼生徒の評価により優秀な教員は待遇面で厚遇し、学習は習熟度別クラスで実施する。現状では難しいだろうが、授業中に騒ぐ生徒に対して、教室から退出させたり卒業資格を与えないといった懲戒権を教員に与えるなど、断固とした態度で生徒に注意できればいいのではないか。(41歳、公務員)
▼全国一斉の指導要領は過去の遺物だが、教員が改革の障壁になっている面もある。公設民営の学校を作り地域で欲しい人材を教師に採用する仕組みが必要だ。現在は都道府県単位で採用し、雇用した人材を各校に割り振るだけで精いっぱい。経験を積んだ四十代、五十代の人が採用されてもいい。(高橋義彰、32歳、養護学校教員)
▼校長のリーダーシップのみが強調されがちな議論には疑問がある。保身ばかりで教員や生徒の立場に立つことのない校長は珍しくない。任命者である教育委員会ではなく、保護者や一般教員、第三者を含めた機関が評価する仕組みがない限り、校長のみに権限を与えるべきではない。(30歳、県立高校教員)
▼教師が問題行動を起こす子どもに対応するために他の生徒を放り出してしまうという現状を変えるには、小人数クラスとカウンセラーの増員が必要だ。学校は勇気を出して子どもの問題点をどんどん親に伝えるべきだ。自分自身、学校任せにするつもりはないが、自分の子を一〇〇%把握することはできない。(39歳、自営業)
▼医学を学んだだけでは医者になれないように、教師にもインターン制度を作る。四十人の子どもを相手に、新卒教師が創造的な総合学習を指導するのは無理があって当然。初めはインターンとして基礎学力を担当し子どもたちとの接し方を学ぶ。総合学習と基礎学力を分担すれば教師は研究の時間を取れるようになる。ゆとりが必要なのは教師であり、子どもではない。(40歳、主婦)
▼学生、生徒に受験のハードルがあるように、教師も適性や専門分野について定期的にテストを実施し、合格した教師だけに免許、資格を再交付する制度を導入すべきだ。(居士健次、64歳、会社員)
私はこう思う
市場化とグローバル化、情報化が進む現代社会においては、一人ひとりが自分の意思決定に責任を持つ「自己責任原則」を教えることが、教育の重要な課題となる。
例えば、これまでなら自分では悪いと思っていても「会社のため」「会社が守ってくれる」と考え、銀行員や証券マンが粉飾決算をしてしまうようなことがあった。上からの指示に忠実に生きることが自分の幸せにつながる、との見方が定着していたためだ。
しかし、会社が個人を守ってくれないことははっきりしたし、ルールに不誠実な市場参加者は市場によって排除される仕組みも明確になった。市場参加者の間に信義や誠実さが育っていなければ、信頼で成り立っている経済社会そのものも壊れてしまう。
そもそも市場経済は「利己的な個人主義」だけで成立しているわけではない。アダム・スミスも国富論を書く前に道徳の重要性を指摘している。上から与えられた規範ではなく、社会に参加する人々が相互に作りあげた信頼によって、努力やリスクに報いる社会を作らなければ、ゆたかさを持続することは難しい。
日本人は「お上」意識が強いので、都合の悪いことは「お上」のせいにして、それを批判するだけで終わってしまいがちだった。これでは自立した「個人」の集合体としての民主主義は生まれない。いまの日本は「忠実」から「誠実」への価値観の過渡期にあり、その移行がうまくいかないことが様々な摩擦を引き起こしているのだろう。
学校教育では知識そのものを問うのではなく、知識をどう使いこなすかを教える必要がある。知識は「考える素材」だから、データとしてはきちんと身につけなければならない。しかし、もっと大切なのは知識をもとに自分の意見をまとめ、論理立てて、他者に伝える能力を磨くことだ。これは自然科学でも社会科学でも同じ課題だと思う。
これまでの学校教育は知識を最初から正しいこととして上から教え込む傾向が強かった。小中学校や高校、大学といったそれぞれのレベルに合わせて、知識を使いこなし、発展させる形の授業に変えていくべきだろう。教科書の内容を見直したり、討論形式の授業を増やすといった工夫が考えられる。
学生が株式会社を作り、商品を実際に製造・販売することで経営や経済社会の仕組みを学ぶ「ジュニア・アチーブメント」活動が日本でも広がっている。意思決定の大切さを学ぶ上で、有効な教材だと思う。
自立した個人の結合としてのボランティア活動にも期待している。体験を踏まえて自分の知識や考え、主張を謙虚に反省し、再構築するのはまさに知的な作業だからだ。
歴史を振り返っても、産業構造や社会の枠組みが大きく変化する時には、一人ひとりが社会とのかかわりを問い直す作業が必要だった。自分を社会に問い、自分の立場を謙虚に確認し続けること。こうした学び続ける姿勢が求められている。(談)
ゆたかな社会の中で、子どもたちの「想像力」が驚くほど衰えています。相手が何を欲しているのか、どうして欲しいのかを考え、想像する力がない子どもが多すぎる。隣に座った子の顔色が悪くても「痛い」「苦しい」と訴えるまで何も気付かない。友達の父親がリストラで仕事がなくなった時に、大変だろうなという気持ちすら浮かばない。
思いもよらぬ子どもの凶悪犯罪も、この想像力の欠如が根底にあるのでしょう。ゆたかだと皆が言う今の社会でも、まだ貧しく、苦しむ人がいるのだということに思いがいたるような人間を育てていくことが何よりも大切です。
映像による情報を一方的に与えられる社会には、想像力が入り込むすき間がなくなってしまいます。作家だから言うわけではないのですが、想像力を養うにはまず本を読むこと。活字を読み、時に忍耐を伴いますが、自分の頭で物を考える訓練を積むことが想像力を鍛えるのです。知識を身につけるためではなく、仏教で言う「智恵」すなわち「心の知恵」を子どもに授けなければなりません。
今は親も本を読まなくなっているし、人の痛みに鈍感になっているのは、親も子も同じなのでしょう。
家庭でのしつけが難しくなっている、などと言うのも親の怠慢です。小さい子どもが通りすがりのお年寄りを見て、「臭い」「汚い」と言うことがあっても親は叱(しか)りもしない。子どものしつけは幼稚園や学校でやってくれると思っているような親が多すぎます。特に母親の役割は重要。父親が外で働き、子どもと接する機会がなかなか持てない以上、子どもは母親の影響を大きく受けるからです。
しつけをないがしろにしながら、一方で親は子どもには「良い学校へ行け」「良い会社に入れ」と言う。社会が大きく変わっている中で、親が考える安泰な会社や職業などありません。子どもは直観的にそういうことを感じているから、親が良いと思っていることが子どもには全然魅力がないのです。
子どもはみんな何かやりたいと思っている。そういう気持ちを、個々の子どもに合わせて引き出してやるべきなのに、今の親も学校もその役割を果たしていません。子どもの持っている才能はそれぞれ違うのに学校は同じように教育しようとする。これが日本の教育の一番ダメなところで、今の学校は天才を凡才にするだけです。
勉強ができる、できないというのは人間の値打ちとは関係ない。同じように教えれば勉強のできる子はつまらないし、ついていけない子どもはつらいだけです。いろいろな才能があることを認めたうえで、それに合わせた教育をするべきなのです。
私は教師は聖職者だと思っています。才能を見いだし、知恵を育(はぐく)む仕事はだれにでもできるものではないでしょう。労働者という位置づけも結構ですが、聖職者の誇りを捨てた教師は子どもにも尊敬されはしないのです。(談)