学校は役に立つ知識や学問を教えてくれるところという、とんでもない誤解が世の中に蔓延(まんえん)している。教育の荒廃や子供たちの科学への興味の喪失なども、この手の思い違いが大きく影響しているのではないか。
教育テレビの特集番組で、中学校の教師と生徒との討論を聴いた。中学の数学が実社会でどれほど役立つのかという生徒の問いに、教師の側からの明確な答えはなかった。日常生活では全く使わないしち面倒な三角関数などをなぜ勉強しなければならないのか、と迫る生徒たち。「問題を解く楽しさ」などで説得しようとする教師。明らかに生徒の主張に分があるようにみえる。
ここに大きな落とし穴がある。法律に明記しであるかどうかは別にして、学校は人類が蓄積してきた知的財産を継承する場である。個々人が世の中に出て銭を稼ぐためのノウハウをたたき込むのが本来の役割ではない。仕事は現場で汗水流を払って伝授してもらうものだ。数学は論理的思考のエッセンスであり、複雑な世界を解釈するたぐいまれな武器だ。天才的な数学者によって積み上げられてきた膨大な体系を、要領良く現在に即した形で伝えるのが学校の数学だといえる。微分の計算法など忘れても、微分という概念を覚えていれば、世の中の「加速度的」な変化を実感できる。
自分の理解力不足を棚に上げて、実生活で使わないから勉強しなくていいなどと言う子らには、その浅薄な数学観をただすのが、教育の本筋だろう。問題を解く楽しさは数学の大きな魅力だが、それが学校で数学を教える本質的な理由ではない。中学校を実用的な知識の教習所と考えると、詰め込まなければならない知識はどんどん膨らんでいく。進学のために偏差値をはじき出す場ととらえれば、やはり知識の量を競うことになる。社会生活を営む上での「素養」を身に付ける場、その時代にかかせない共通の知識ベースを得る期間と定義すれば、すぐには役に立たない学問も意味を持つ。
国語の長文解釈を巡る議論では、解釈などは十人十色なのだから、正解を一つに決めて、点数をつけるのはおかしいと、生徒たちは口々にいいつのった。これにも教師側からは明確な反論はない。ここでも個性や自由のとり違いと、客観性を意識できない幼さやったなさの放置がある。文学作品の解釈は人によって違って当たり前だが、先達や研究者が議論と検討を加えて到達した一つの結論は、知的な資産として尊重されるべきものだ。子どもの読み違いや、読み込みの浅さは明確に指摘しなければならない。
模範解答とずれたものをすべて排除すべきでないこともまた、自明だ。ただの読み違いでなく個性的な新解釈といえるのかどうかを検証する作業が欠かせない。科学はそうして旧説を乗り越えて発展してきた。
事物を正確にとらえる「素養」は、なまじの実用知識にまさる。江戸時代の下級武士や町人の学問的な素養が、爆発的な明治の文明開化を支えたといわれる。
(編集委員 塩谷 喜雄)
1999/2/6/土