教育関係資料目次へ
総合Menuに戻る
広島発「子どもの権利条約カタログ」へ
「子どもの権利条約」について
弁 護 士 定 者 吉 人
(本稿は、1995年7月21日、第36回三次地区高等学校同和教育研究大会で
行った講演の記録に加筆訂正したものです。)
みなさん、こんにちは。
さきほど基調提案を読み上げられましたが、その最後の締めくくりに、「押しつけ、お仕着せの教育を廃し、生徒が主人公となる学校の姿を模索し続けて行きましょう」とありました。本当に、そうあってほしいと思います。
子どもを、いつも私たちは、弱い存在、力のない存在、考えの不十分な存在、未熟な存在と見てきました。そして、親や教師である私たちが導いてやる、育て上げてあげる、だから言うことを聞きなさい、私たちの言うことには間違いはないんだ、といった姿勢で、子どもに接してきました。家庭の中でも、学校の中でも、私たちは子どもに対して、このような態度で接してきました。
子どもが主人公と口では言いながら、家庭の中でも学校の中でも、やはり大人が主人公でした。大人の思いを子どもに押しつけることが、至る所で行なわれてきたのです。
子どもの権利条約は、そんなわたしたちのやり方、あり方に、大きな変革、大きな転換を迫っております。
子どもの権利条約のなかで、人としての尊厳、あるいは固有の尊厳という言葉が、何カ所か出てきますが、私は、この、子どもに「人としての尊厳」を認めるべきだとの考え方こそ、権利条約の根幹をなすものだと考えます。
例えば、障害を持っている子どもについて書かれた第23条には、こうあります。「日本は、障害を持つ子どもが、人としての尊厳を確保し、自立をし、社会へ積極的に参加できるよう、十分に満ち足りた生活を楽しむ権利があることを認める。」
それから、第28条にはこうあります。「学校で子どもに罰を与えるとき、その罰は、子どもの人としての尊厳に反するものであってはならない。」
23条や28条は、いずれも子どもの「人としての尊厳」が特に傷つき易い場面について、個別的具体的に書かれたものですが、さらに、権利条約の前文には、こういうことが書いてあります。
「子どもは、世界のすべての人の尊厳が守られ、すべての人が平等に、人としての権利を尊重されることが、自由で、正義が行われる、平和な世界を作るもとになるとの精神(国連憲章で宣言された理想の精神)にもとづいて、特に平和、尊厳、寛容、自由、平等及び連帯の精神にもとづいて、育てられる必要がある。」
国連は、世界の国々が、もう二度と戦争に巻き込まれることがないようにとの願いから作られました。そして、国連は、戦争のない平和な世界を作るには、「世界のすべての人の尊厳が守られ、すべての人が平等に、人としての権利を尊重されること」こそ大切だと考え、これまで、世界中の人たちの、人としての尊厳、人としての権利が守られるための、さまざまな活動をしてきました。1989年の国連総会で採択された子どもの権利条約は、そのような国連の、平和をつくり出す一連の活動の一つなのです。
だからこそ、権利条約は、次の時代をになう子どもたちが、互いに人としての尊厳を認め合い、尊重し合う人として成長することこそ、平和な世界を作るもとになると考え、子どもがそのように成長するために、なにより大切なのは、子どもが、子ども時代において、人としての尊厳を認められ、「特に平和、尊厳、寛容、自由、平等及び連帯の精神にもとづいて、育てられる」ことだといっているのです。
さて、「人としての尊厳」を認めるということは、その人自身の思いや、表現を大切にするということにほかなりません。
まず、子どもの権利条約の第12条には、こう書いてあります。「子どもは、自分に関係があることについて、自分の意見を述べる権利がある。子どもの意見は、子どもの年齢や成長に応じて、十分に尊重される。」
子どもの身の回りでは、いろんなことが起きています。そのどんなことについても、子どもには、自分の意見を述べる権利があるのです。
いろんな子どもがいます。その表現の力は違います。しかしそれぞれの子どもが、自分なりの思いを持っているということ、そして、大人になんとかして伝えたいと思っていることを、いつも忘れないでいたいと思います。
どんな小さな子どもであっても、自分なりの思いを持っており、それを大人に対して伝えようとしているのです。聞こうとする姿勢が大人にありさえすれば、そんな子どもの思いも、きっと大人に聞こえてくるはずです。だから、大切なのは、子どもの声を聞こうとする、大人の側の姿勢だと思います。
ところで、みなさん方が学校で関わっておられる生徒たちは、自分の意見を、みなさんにきちんと述べることができますか。むしろ、上手に自分の思いを表現できない子たちが多いのではないでしょうか。
いまの子どもの多くは、親や教師などの大人に管理され、命令され、操縦されて育っています。自分の意見や言い分をしっかり聞いてもらった経験は、少ないはずです。そんな子どもが、自分の思いを上手に表現できなくても、そのようにしたのは実は大人なんです。ですから、大人には、それを責める資格はありません。
現に表現の下手な子どもであれば、大人が聞こうとする努力をするべきです。大人のほうが、その子の本当に言いたいことは何なのかを、努力をして聞き取ってあげる必要があります。
大人が子どもの意見を真剣に、一生懸命聞くことによって、しだいに、子どもは、自分の意見や考えを的確に表現する力を身につけていくはずです。
子どもに意見を述べる権利があるということは、言い換えれば、大人は子どもの意見を聞く義務があるということです。そして、子どもの意見は「子どもの年齢や成長に応じて十分に尊重され」る必要があります。
大人たちは、いやおうなしに、いろんなことを子どもに押しつけてきました。しかし、子どもの権利条約は、そのようなやり方を改められるべきであると言っているのです。
これからは、大人は、子どもの言うことをきちんと聞いて、その意見が正当である場合には、それを受け入れる必要があるのです。子どもの言い分をせっかく聞いても聞きっぱなしということでは、子どもに意見表明権を認めた意味はありません。
それから、権利条約の第13条以下は、いわゆる市民的自由権と呼ばれるものです。
第13条が表現の自由、第14条は良心・宗教の自由、第15条は集会・結社の自由、第16条はプライバシーの権利。これらの権利は、これまで大人には当然に認められてきました。権利条約が画期的なのは、これらの権利をはっきりと子どもにも認めたということです。
ひとが「人としての尊厳」を認められるということは、このように、意見表明権や市民的自由権を認められるということにほかなりません。
では、いま学校で、子どもたちは、人としての尊厳を認められているでしょうか。意見表明権や市民的自由権を認められているでしょうか。
決してそうではないと思います。
この際、素直な気持ちで、みなさんの学校の中の、教師と生徒との関係、大人と子どもとの関係を、すべて洗い直してみてください。学校が、子どもひとりひとりを人として尊重し、子どもに対し、人として認められるべきすべての権利を保障する場所となるように、徹底的な見直しを、ぜひ、今日から、はじめていただきたいと思います。服装(制服)や持ち物などの押しつけも、そろそろやめたらどうですか。
特に体罰について、ひとこと申し上げます。体罰が学校の中で行なわれてはいけないということは、50年も前から学校教育法に書かれてあります。しかし現実には体罰は、いっこうになくなりません。
例えば、みなさんは、自分の言うことを聞かなかったからといって人をたたいたりするでしょうか。人に暴力を振るうということは、普通はなかなかできないものです。しかし、そういった普通の教師が、学校の中では、言うことを聞かないからといった理由で、生徒をたたいたりしているのです。
体罰がおこなわれるのは、結局、教師が生徒を、自分と同じ値打ちを持った人間だと認めていないところに、根本的な原因があるのだと思います。教師が、心のどこかに、子どもを人間として認めない、あるいは自分よりも一段下の人間だと、暗黙のうちに思っているから、体罰はおきるのではないでしょうか。
ですから、どうか、みなさんは、生徒に接するとき、子どもの、人としての尊厳を、いつも、意識するようにしていただきたいと思います。子どもを、一人の人間としてみとめ、自分と同じ人間がそこにいるんだという思いをいつも持っていていただきたいと思います。
さて、ここまで、私は、子どもの「人としての尊厳」を強調してきました。しかし、だからといって、子どもが成長過程にあること、そしてその成長の過程において、大人たちの援助を必要としていることを否定するつもりはありません。権利条約の前文にもあるように、「子どもは、その人格が完全に、調和よく発達するよう、家庭でしあわせに、愛情と理解につつまれて成長する必要がある。」のであり、「社会の中でひとりの人として生活していけるよう、十分に準備する必要がある。」のです。
ただ、これまで、大人達は、子どもに援助をおこなうことと引き替えに、子どもの人としての尊厳を無視してきました。そのことを、この際、しっかりと考えていただきたいと思うのです。
さて、子どもの成長発達のため援助をおこなう場所として大切なのは、家庭と学校です。
そこで、まず、家庭について、権利条約は第18条に、次のような規定をおきました。「父と母が子どもを育てるときには、子どもにとって一番良いことは何かをいつも考えなくてはいけない」。
政府訳では「最善の利益」という言葉を使っていますが、私は、「子どもにとって一番良いこと」と訳しました。これまで親たちは、ともすれば、親の利益、親の都合を子どもに押しつけてきました。そこで、権利条約は、そうしたことの反省に立って、「子どもにとって一番良いことは何かをいつも考え」てくださいと要請しているのです。
次に、学校については、第3条が関係します。第3条にはこう書いてあります。「日本が子どもに関して法律をつくったり、法律を実行したり、裁判をしたりするときは、子どもにとって一番良いことは何かをいつも考えなくてはいけない。」
国の立法、行政、司法がこれまで必ずしも子どもの利益を配慮したものでなかったという反省のもとに、この規定がおかれたのです。
ところで、学校の運営は法律に基づいておこなわれなければなりません。したがって、学校の運営は、まさに「法律の実行」であり、第3条によって、規律されることになります。ですから教師は、学校の運営にあたって、子どもの最善の利益を一番に考えなくてはならないのです。
結局、権利条約によれば、子どもの成長発達のため援助をおこなう場所として特に大切な、家庭と学校で、子どもについて何かするときは、まず、一番に子どもの最善の利益を考えなくてはいけないことにならないのです。
さて、ここで、みなさん、考えてみてください。みなさんは、これまで、日々、家庭や学校で子どもと接するとき、子どもにとって一番いいことをしてきたとお考えでしょうか。
子どもについて、これまでしてきたことで、これは子どものためなんだと確信を持って言えることがどれだけあるでしょうか。
おそらく、みなさん方も、これまで、子どものためにと言いながら、実際には自分の都合や大人のル−ルを、たくさん、子どもに押しつけてこられたのではないでしょうか。
どうか今日からは、子どもにとって本当に良いことは何だろうか、一番いいことは何だろうか、と考えながら、行動してみてください。自分は、大人の都合、大人のルールを子どもに押しつけているのではないだろうかと、いつも疑いながら、吟味しながら行動してみてください。せめて、一日に一回、たとえばお風呂に入ってゆっくりした気分のときに、きょう一日を、振り返っていただきたいと思います。
ところで、「最善」かどうかは、どうやって見分ければいいのでしょうか。
最善かどうかの判断は、実際のところ、人智でははかりがたいと思います。その時点で最善と思えたことが、あとになってみれば、そうではなかったということは、よくあることです。私としては、せめて、最善というからには、次の二つの基準をクリアしていただきたいと思います。一つは、それが子どもの「人としての尊厳」にかなっているかどうか。そしてもう一つは、子どもの意見をきちんと聞いたかどうか。
まず、子どもの「人としての尊厳」を無視したり否定するようなものは、およそ子どもの利益のためにするのだと名乗る資格がありません。
また、子どもの意見を聞かずに、大人だけの判断で考えたことは、所詮、大人の独りよがりで、見当違いに陥る危険があります。「最善」を発見する手順として、子どもの意見を、まず聞いていただきたいと考えます。
さて、先ほども言いましたが、子ども時代は、社会へ出るための準備の時間です。
社会の中で、一人の人として生活していくための準備、それが教育というわけです。ですから、権利条約の第28条にあるように、「子どもは教育を求める権利を持っている」のです。
次に、権利条約の第29条をご覧ください。とても大切な条文だと思いますので、長いですが、ぜひ全文を読みたいと思います。
その前に申し上げておきたいのですが、教育は、なにも学校でのみおこなわれるものではありません。家庭での教育は、学校での教育と同等、あるいは学校以上に大切なものです。権利条約は、第28条と第29条に、教育に関する規定をおいていますが、これらは、学校だけでなく、家庭における教育の指針になるべきものだということを、忘れないでいただきたいと思います。
では、第29条を読みます。
「子どもの教育は次のことを目指して行う。
それぞれの子どもが持ついろんな力を、いっぱいにのばす。
だれもが人として大切にされる権利を持っていること、そして自由に生きる権利を持っていることを理解し、大切にする気持ちを育てる。
自分たちの文化、文明を大切にし、また、他の文明も大切にする気持ちを育てる。
人には、いろんな違いがあるけれども、互いに理解し認めあって平和に生きるべきだ、男女は平等であるべきだ、との精神をしっかりと身につけて、自由な社会の中で、責任ある生活ができる人になる。
自然を大切にする気持ちを育てる。」
まず、「それぞれの子どもが持ついろんな力を、いっぱいにのばす」ということですが、子どもは、それぞれが、いろんな力を秘めています。その子なりのそれぞれの力をしっかりと引き出すのが、教育の目的なのです。しかし、いまの学校はどうでしょうか。あまりにも、それぞれの子どもの能力を無視して画一的な教育をしています。また、あまりにも知育偏重に陥っています。たくさんの知識を記憶し理解し、テストでいい点を取る子どもがいい子だという考えが、横行しています。しかし、知的能力は、人間の能力のほんの一部であって、それを育てれば事足りるというのは、あまりに一面的だと思います。
この関連で、第31条もここで読みます。「子どもには、ゆっくりと休む権利、遊んだりリクレーションをする権利、文化的な生活や芸術に親しむ権利がある」。
この中で、特に、子どもの「文化的な生活や芸術に親しむ権利」にご注目いただきたいと思います。家庭でも学校でも、知的教育にかたよらずに、子どもの能力をトータルに育ててくださるよう、お願いしたいと思います。
さて、29条の、「だれもが人として大切にされる権利を持っていること、そして自由に生きる権利を持っていることを理解し、大切にする気持ちを育てる」以下の部分は、先ほど読みました前文の、「子どもは、世界のすべての人の尊厳が守られ、すべての人が平等に、人としての権利を尊重されることが、自由で、正義が行われる、平和な世界を作るもとになるとの精神にもとづいて、特に平和、尊厳、寛容、自由、平等及び連帯の精神にもとづいて、育てられる必要がある。」という部分と重ね合わせて読む必要があります。
前文の「子どもは、・・平和、尊厳、寛容、自由、平等及び連帯の精神にもとづいて、育てられる必要がある。」とあるのを、敷衍したのが、29条の、「だれもが人として大切にされる権利を持っていること、そして・・・」以下の部分なのです。
ところで、子どもに対し、単なる知識として「だれもが人として大切にされる権利を持っていること、そして自由に生きる権利を持っている・・・」などと教えるだけでは、たいして意味はありません。大切なのは実践です。
家庭や学校の中で、人はみな大切な存在なんだ、と実感できるような生活をおくってはじめて、子どもは、人間尊重の思想を自分の体の中にしっかり身につけることができるのです。
子どもが、人を「人として大切にする」人間になるためには、子どもの現実の生活が、子どもどうし、大人どうし、そして子どもと大人が、互いを人として認めあい、人としての尊厳を大切にするようなものでなければならないのです。家庭や学校での日々の生活が、第29条や前文の趣旨にかなうものであることが、何よりも大切なのです。
ひとは、子どもの時代に、いろいろ体験をし、いろいろな価値観を身につけながら、大人になり、親としては自分の子どもに、教師としては生徒に、自分が身につけたものの見方、人間観、価値観を教えたり伝えたりします。
このように、ものの見方、人間観、価値観が、世代から世代へ伝わっていくことを考えますと、本当に教育というのは大切だ、そしてその教育に携わっておられるみなさんの責任は、本当に重大だと思います。同様に、親の責任も、まことに重大だと思います。
さて、私は、ここ1年間、登校拒否の子どもたちと、「がんこ寿司」という劇団を一緒にやってきました。そこで、登校拒否と子どもの権利条約について、少し、お話ししたいと思います。
「がんこ寿司」の子どもたちは、自分たちの思いを劇に託して訴えたい、自分たちのつらかった思いを劇を通じて見る人に伝え、考えてもらいたいということで、「メディアからの贈り物」という劇を、一年間、広島県内はもちろん、岡山市、姫路市などで公演してきました。公演回数は、既に一〇回を数え、たくさんの方々に見ていただきました。
この劇のクライマックスで、大人や子ども達が、登校拒否をしている子どもを取り囲んで、口々にののしるという場面があります。お父さんは「学校へ行けんのんなら家を出て行け」と言います。お母さんは、「あんたなんか、生まないほうが良かった」と言います。おばあちゃんは「恥ずかしゅうて外も歩かれんわいね」と言います。近所のおばさんは、「登校拒否ってうつるんでしょ。近づかない方がいいわよね」と言います。しまいには、みんなで「おまえなんか死んでしまえばいいんだ」と声をそろえて非難し、ついに、子どもは、「みんな僕が悪いんだ。殺してくれよ」と叫びます。
これは劇の中だけのことではありません。実際、子どもが学校へ行かなくなると、周囲の大人は、口を揃えて、その子を責めたてるのです。
しかし、みんなに否定され、非難され続ければ、子どもはいったいどんな気持ちになるでしょう。家の中に閉じ込もって、もう外に出ることもできない。「自分が悪いんだ。自分がみんなに迷惑をかけているんだ。自分なんか、生きていく値打ちがないんだ。」などと思いこみ、悩み苦しみ、やがて自殺することを考え始める。本当に自殺してしまう子も現にいるのです。
どうか、子どもに登校を強制することをやめてください。登校拒否は、学校へは行きたくない、という意見の表明です。すぐに学校へ行かそうとせずに、大人は、その意見を、まずは、しっかりと聞いて、受けとめてほしいと思います。
そうすることこそ、その子どもを、人として尊重することにほかなりません。
また、そうするのでなければ、そのような状況にある子どもにとって一番いいことを考えることなど、決してできないでしょう。
登校拒否に限らず、大人は、子どもの意見を、まずは、しっかりと受けとめるだけの余裕を持ちたいと思います。大人の考えを無理矢理押しつけて、かえって子どもを窮地に追いやるようなことは、もうやめるべきです。
どうも、これまで、多くの大人は、「子どもは学校へ行くべきだ、学校へ行かないのは、悪い子だ」、と頭から決めつけていたようです。しかし、子どもは学校の中だけで育つものではありません。
学校というのは、たくさんの子どもに教育を提供するために考えられたシステムです。しかし、たくさんの子どもにまとめて教育を提供しようとすると、一人一人のニーズに沿って教育を提供することは難しくなります。ですから、学校になじめない子どもが出てくるのも、考えてみれば当たり前のことなのです。
私たちは、学校になじめない子どもとそうでない子がいるということ、そして、学校になじめないのはその子に問題があるからではなくて、その子のニーズに応えられない学校にこそ問題があるのだということに、そろそろ気がつくべきだと思います。
子どもはみんな学校に行かなきゃならない、学校に行ってない子はだめなんだというふうに子どもを学校に囲い込んでいくのは間違いなのです。
すくなくとも、がんこ寿司の公演を見た人たちは、ステージ狭しと駆け回り、元気よく自己主張する登校拒否の子どもたちを目の当たりにして、学校ばかりが子どもの成長発達の場ではないのだということを、実感されたはずです。
さて、権利条約の第42条には、こう書いてあります。「日本は、この条約の中心となる考え方や、条文を大人にも子どもにも広く知らせることを約束する。」
しかし、日本政府は、まだこの約束を十分に果していません。外務省が、全ての学校の教室に権利条約のポスターを貼るために何万枚かのポスターを作ったそうです。そのポスターが本当に貼られたのかと思って、先日、ある先生方の集まりの際に聞いてみたのですが、多くの方が、まだ貼っておりませんと、おっしゃっておられました。その程度の、たったそれだけのことならすぐにでもできるだろうと思うのですが、それすら政府はやっていないのです。
そもそも、条約を批准するには国会の承認が必要なのですが、政府は、子どもの権利条約の批准案を国会に提出したとき、国会に対して、「権利条約を批准したからといって、一切法律は変える必要はありません。また一切予算を付ける必要はありません。日本はちゃんとこの権利条約の水準をクリアーしております」と、大見栄をきりました。そういう姿勢が、今もなお政府の姿勢であり、だからこそ、「大人にも子どもにも広く知らせる」ことに消極的なのでしょう。
権利条約は、「大人にも子どもにも広く知らせる」必要があります。特に、子どもに知らせることが、何よりも大切です。
よく言われることですが、権利の主体である人がその権利を行使しなければ、権利といっても絵に描いた餅で、何の意味もありません。ところで子どもの権利の場合、権利の主体は子どもです。ですから、まず、子ども自身が自分の権利を知る必要があるのです。
まれに子どもに代わって、子どもの権利を守ってくれる大人もいないわけではありません。しかし、大人と子どもの権利が衝突するぎりぎりの場面では、やはり、当事者である子どもによってしか、子どもの権利は守れないのです。
ですから、子どもが、子どもの権利はどんなものか、子どもの権利条約にどんなことが書いてあるか、ということをしっかりと知り、子ども自らが自分の権利を行使することができるようになることがなによりも大切だと思うのです。
もっとも、大人としては、あるいは教師としては、あまり子どもの権利条約を子どもに教えたくないというのが素直な気持ちだと思います。子どもに権利条約に書かれた権利を教え、それを行使することを認めれば、家庭では親が、学校では教師が、しんどい思いをすることになるのは、目に見えているわけです。しかし、大人たちはその思いを克服していかなくてはいけません。
子どもをひとりの人間として認め、人としての権利を行使させることの反面として、大人は今までよりもしんどくなるけれども、これは当然のことなんだと、考えを切り替えていく必要があるのです。
そのためには、大人もまた、子どもの権利とはいかなるものかについて、しっかりと知る必要があります。しっかりと知って納得する必要があります。そうして、権利条約に基づく子どもたちの正当な権利主張を認め、受けいれていく必要があるのです。
皆さん方は、せっかく本日、子どもの権利条約を知る機会を持たれました。そこで、これをきっかけにして、ぜひ、権利条約の学習を深め、皆さんの家庭で、あるいは学校の現場で、権利条約を実行していただきたいと思います。
ところで、みなさん方は、現実の今の自分達の家庭や学校の姿を考えると、権利条約に書いてあることは、あまりに理想的で、とても無理だと、つい思ってしまわれるかもしれません。
しかし、そんなふうにすぐに諦めてしまうのではなく、困難であっても理想を目指していくという姿勢が大切だと思います。いきなり、理想の所へ誰も行けるわけではありません。現実の学校、あるいは現実の家庭をしっかりと見つめ、少しずつ、できるところからはじめればいいのではないかと、思います。一朝一夕にできることではないんだという思いを一方では持ちながら、だけどそれへ向かって努力を進めていく。そして、権利条約に書いてあるような理想、人と人とが互いに、その尊厳を認めあう関係が達成できたら、自由で正義が行われる、平和な世界がおとずれるのだという思いを持って、日々の努力を、積み重ねていきたいと思います。
難しいことかもしれないけれど、日々の実践の中から、努力というものを積み重ねていくことによって、理想と思えることも、必ず実現するんだ、できるんだという思いを持ちたいと思います。
最後に、親と学校の関係、特に学校外での生活のついて述べておきたいと思います。
権利条約の第5条には、「日本は、子どもが、この条約で決められた権利を主張し、実行しようとするときに、子どもの親が、子どもに指示したり、指導したりする権利を認め、それを尊重する。」と書いてあります。
それから第18条には、「日本は、父母が子どもを育てる責任を十分に果たすことができるよう、必要な援助を行う。」とあります。
したがって、権利条約は、本来、子どもを育てるのは親であり、親の足りないところを援助しサポートするのが国の役割だと考えているのです。教育について言えば、教育は、もともと親の役割であり、親の足りないところを、親の委託を受けて引き受けるのが学校、というわけです。
ところが、いまの学校の教師には、あたかも、教育をするのは教師で、親は教師の言いうことにしたがっていればいいという考えがあるように思います。面と向かって親に対し教師がこのようにあからさまに言うことはめったにないかもしれませんが、どうも、そうした考えが見えかくれするように思います。しかし、この際、学校は、親に任せるべきものは親に任せてはどうでしょうか。
例えばバイク規制など、これまで、学校は、学校外の生活についても、校則を定めてきて、規制してきました。親が子どもに対する指導について自信をなくして学校に頼ってきていた、そして、学校としてもそれを引き受けざるをえなかった、という事情もあるようです。しかし、もともと学校から帰ってからの子どもの生活は、親と子で決めるべきことであって、学校には、それについてあれこれと口を出す権限はないのです。
他にも大切な条文がありますが、時間の関係もありますので、これ以上触れません。
お帰りになってから、ぜひ、本日お配りした権利条約のプリント、これは私が訳したものですが、これを、最初から最後までお読みいただきたいと思います。ほんの15分もあれば、読み切れるはずです。
また、いろんな解説書も最近は出ておりますので、読んでみてください。権利条約については、いま、いろんな議論がおこなわれており、統一的ではありませんけれども、それはそれで結構なことだと思います。議論を積み重ねながら、子どもにとって本当に幸せな社会とは何かを、みんなで考えていきたいと思います。
今日は、どうもご清聴ありがとうございました。