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家族の食卓1


突然の出来事だった。ある朝の激しい抵抗以来、娘が学校に行かなくなった。日本臓器製薬に勤める高羽信吾さん(53)の当時、中学一年生だった二女の不登校が始まったのは、九二年十一月四日のことだ。 兵庫県社町の社宅に引っ越して九年。高羽さんは近くにある小野緑園工場と生物活性科学研究所の工務課長として、保守管理を担当していた。地味で刺激は少ない仕事だが、会社の最前線を支えているという強い自負があった。
「男は仕事」。多くの同世代 に共通する気概を持って、打ち込んでいた。「会社人間」ではあったが、家族との夕げの食卓はほとんど欠かさなかった。我が家は万事円満と思っていた。だから混乱は大きかった。
社宅は平屋の三DK。中学の三年と一年の娘二人を持つ四人家族には手狭で、二女は夫婦と寝室が一緒だった。その日も妻が最初に起きだした。続いて高羽さん、長女といつもの順番で起きだしたが、二女だけが布団をかぶったまま。午前七時十五分。始業前に吹奏楽部の朝練習があるため、いつもなら慌ただしく制服に言替えて学校に向かう時間になった。
「朝は忙しいのに。面倒かけて」と妻がぼやきながら寝室へ入り、さらに時計が十分進んだ。「はよしいや。起きてんのは分かってるんやから」。妻のかん高い声が聞こえてきた。
高羽さんも慌てて寝室に向かうと、布団をはぎ取られべッドにうずくまる二女の姿があった。妻の困り果てた目にせかされるように無理やり立たせたが、二女は頑丈で重い二段ベッドの柱から片手を離さない。
娘の小さな手は必死で柱をつかんでいた。「何しとんねん」。力任せに引っ張るど、二女の体と一緒にベッドが畳の上を大きく動いた。とっさに手を離し、声を無くした。今までにない抵抗だった。
「友達とけんかでもしたんだろう」と気を静めて出社したが、午後になっても二女の様子に変化はないようだった。「不登校」。頭をよぎっな言葉に驚きながら、「まさか」と打ち消す言葉は声になっていた。
いじめ、先生との関係、クラブ活動……。不登校の原因は様々。そしてどの子にも起こりうる。「我が家は大丈夫」。そんな過信から子供が出すサインを見逃し、事態に直面して初めて現実を知る。そんなケースが多いという。この時、高羽さんも二女がそのまま不登校に苦しみ続けることになるどは思ってもみなかった。苦闘が始まった。
1998/4/6/月

家族の食卓2


日本臓器製薬の高羽信吾さん(53)の二女は、中学に通い始めてわずか半年余りの九二年十一月四日以来、突然学校へ行かなくなった。
楽しく、元気に中学生活を送っていると確信していた。だから、「二女がいじめを受けている」と妻から聞いた時は、信じられなかった。
直接の原因は漫画だった。同級生の女の子から月刊誌を買ってくるように頼まれたが、売り切れで買えなかったからだという。二女は母親を車で引きずり回して地元の本屋を探した。翌日にも大阪まで出かけた際、数カ所回ったが見つからなかった。
二女との関係を「友達みたいだ」と知人からねたまれたこともある。子供のことは分かっているという過信もあった。「不登校は家庭環境に問題のある子供が陥るもの」と思い込んでいた。「困っている人のためになるのなら進んで手助けしなさい」。高羽さんは二人の娘にこう教えてきた。不登校のきっかけになった出来事を聞いた時も、「二女らしい親切心だ」と思ったほどだ。「前日まで元気だったのだから、ほとぼりが冷めれば」と楽観していた。
しかし、二女は追い込まれてしまっていた。中学では小学校の友人と同じクラスにならず、クラスメートは親しい友人とグループを作って、二女は孤立した。グループに入ろうと様々な頼みごとを引き受け、いつの間にか嫌なことでも押しつけられるようになっていた。
「無視」という精神的ないじめも二女を追い詰めた。使い走りになっても、明るく張る舞うことで「いじめではない」と思い込もうとした。傷つきながらもクラスでの居場所を求めてストレスを積み重ねていった。「漫画を買い損ねた」という一見些細(ささい)なことで、二女は限界を超えてしまったのだ。
思い起こせば、家族全員で作った秋の体育祭用の鉢巻きも、中学三年の長女がクラスの分担として持ち帰ったよりもずっと多かった。これも押しつけられたものだった。職場でも二女が気になり時間があれば受語器を握っていたが、引きこもりの症状は重くなるばかり。ベッドにカーテンを引いたまま寝室から出てこようとはしない。食事もせず、家族の目を避けるように台所の冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出して飲むだけだった。妻は相談所に行ったり、学校へもいじめを訴えて改善するよう申し入れていた。症状の悪化が気になったが、「学校の先生が何とかしてくれるだろう」と静観した。しかし、信頼は裏切られる。

1998/4/7/火


家族の食卓3


「あなたは人間として失格ですよ、とたしなめました」。いじめに苦しみ、不登校になった二女のことをクラスの担任の先生はこう言った。
父親としての自信、平穏で温かな家庭、子供への期待----。日本臓器製薬の高羽僑吾さん(53)の中では、不登校を通して多くの価値観や物差しが揺さぶられた。
最初に揺らいだのが学校への信頼だった。二女はこの言葉をきっかけに不登校が一層深刻になった。励ましをこめたきつい言葉だったのかもしれない。でも、「あの時、いたわりの言葉があったなら……」という思いが、今も残っている。
二女からいじめのことを聞き出した妻は、担任の先生にずべてを話し、何らかの手を打つよう申し入れた。しかし、「いじめた側」の生徒から事情を聴いた結果、いじめはないという結論に達したようだ。ホームルームで問題提起して一件落着。数日後に、「問題は解決した」と担任から二女に登校の要講があった。
二女は再び登校した日、元気に振る舞った。一日中、おしゃべりを続け、教室の移動も跳ぴはねるようにしたという。「クラスに居場所ができたのかもしれない」。そんな期待を抱いて登校した二女は、帰宅後は無言でベッドにこもるばかりだった。
その日のうちに担任から説明があるというので、仕事を終え妻と学校へ行った。「向こうの生徒も『いじめてない』と泣いて訴えるし、いじめられたという本人はあんなに元気。問い詰めると黙り込むのでしかったのです」。そして ”あの言葉”が続いた。
二女は登校した朝から、クラスに広がる排除の空気を感じ取った。皮肉にも担任が開いたホームルームが、いじめの存在をクラス全体の共通認識にしてしまったようだった。明るい振る舞いは、つらさから逃れようと絞り出したカラ元気だったのだ。
さらに数日後、校長を交えた面談が行われたが、校長が二女に言った言葉も意外なものだった。「いじめはなし」の報告を受けていたらしく、「高羽。おまえは怠けやな」。二女は落胆し、妻はうなだれた。担任や校長に悪意があったわけではない。だが、学校側の対応には疑問や違和感があった。「先生が何とかしてくれる」と期待しただけに、何より落胆が大きかった。
屈託のない笑顔が似合う二女が表情をなくした。登下校の生徒を見るだけで妻は涙を流した。「優しい子に育てたのが間違いだったのか。目には目を歯には歯をじゃないと生きていけないのだろうか」。悩みは深まっていった。

1998/4/8/水



家族の食卓4


二女はいじめに苦しみ不登校になったが、学校はいじめを認めなかった。日本臓器製薬の高羽信吾さん(53)の学校への信頼が揺らいだが、今度は「父として娘を守らなければならない」という自覚が芽生えてきた。
不登校が始まって約一カ月後、妻とともに自宅がある兵庫県社町内の兵庫教育大学でのカウンセリングと「愛和会」という不登校児を持つ親の会に参加するようになった。
工場と研究所の工務課長を兼務していて、勤務時間内は手いっばい。平日昼間のカウンセリングに参加するために昼休みを削り、施設を移動する間に作業服のまま駆け込むことも多かった。
カウンセラーの分析では、二女は初期症状で、立ち直りを五段階目とすると、第一、二段階目。次には最も時間のかかる第三の無気力な状態になるという。「子供の心が安定するよう心がけ、要求にはできるだけこたえてあげてください」と助言された。
親が無理やり登校させようとする行為は何の改善にもならないことも分かった。二女の抵抗で無理強いをやめたのは幸いだったと思った。
愛和会への参加はカウンセラーに勧められた。町内にある西国33所の一つ、清水寺に集まってお互いの経験を語し合う活動だ。
親たちが体験をとつとつと話す。二女と同じ引きこもりや拒食に始まり、第三段階の典型として、深夜から未明まで漫画やゲームに没頭する昼技逆転、親と常に一緒にいて寝室まで共にしなければ眠れない幼児返り………。
「親の愛情を確かめようとする」要求行為は、マンガやゲームソフトから、高額なパソコンやAV機器へ発展していくこともあるという。
甘えと反抗が同時に起こり、要求が満たされないと、物を投げつけたり、家財道具を壊したり。しかりつけると切っ先が直接親に向けられる例もある。ある参加者が衣眼のすそをあげると、痛々しい青あざや切り傷がのぞいた。生活のリズムを崩し、苦悩し、親たちも満身創慶(そうい)だった。
「不登校に至る原因は複雑ではっきりせず、原因探しは意味がない。親の気持ちが落ち着かなけれぱ、子供の気持ちも安定しません」。カウンセリングではこんな指摘も受けた。二女のことばかり考えていたので、意外だった。子供の学歴にこだわり過ぎる偏見、独善的な期待----。試されるのは親そのものなのかもしれない。「父として自分はどうだったろう」。学校に投げかけていた批判の目は、次第に自分自身にも向かい始めた。

1998/4/10/金


家族の食卓5


二女の不登校をきっかけに、日本臓器製薬の高羽信吾さん(53)は「父としての自分」に自信を失いかけていた。衝突もなく、友人のようだった二女との関係は「裏返して言えぱ無関心だったことの証拠かもしれない」と思った。
酒は飲まない。ギャンブルにも興味がわかず、バチンコ店に入ったことさえない。「男は仕事」。そんな思いを貫いたまじめ一途(いちず)の人生は、父の生き写し。それが高羽さんの「父親像」だった。
高羽さんは関西電力に勤める父と家庭を守る母、姉と弟とともに大阪府堺市の社宅で育った。母からは「課長のところの息子には負けないでよ」などと勉学に励むようよくしりをたたかれたが、父は学歴にはこだわらず、むしろ高校を卒業したら職に就くよう求めた。
1963年に堺市立工茎高校の機械科を卒業して就職。 信念通り一生懸命働いた。二人の娘が誕生した当時は、大阪本社のエンジニアリング事業部で公害防止機器の設置に携わり、出張の連続だった。工務課に移って勤務時間は安定したが、二女の不登校が始まる前の年からは、課長職が兼任になり責任が増した。
中間管理職として責任が重くなり、家にいてもつい仕事のことを考えるようになっていた。二女に異変が生じるころ、食卓での話題は長女の高校進学が大半を占めていた。子供の学歴にさほど期待は抱いていなかったが、長女は成績優秀で、ひそかに期待を寄せ始めていた。近所付き合いで世間体を意識する妻も、高羽さんに輪をかけて期待していたようだ。
そんな中、二女が学校の話題を持ち出しても生返事になっていたのだろう。二女が発したサインは無視され、心の悲鳴は届かなかった。それにもかかわらず時には口論し、時には談笑しながら四人で囲む食卓は心の安らぎだと思っていた。
「いい家庭ですね」。ぽっかり空いたままの二女の指定席を見つめながら、知人から度々言われたほめ言葉は、むなしく響くだけだった。
二女は引きこもりと拒食を続けていたが、日中は漫画に没頭するようになった。カウンセラーの指摘通り、不登校の段階を確実に進んでいった。トンネルに深く迷い込んでいくようにも思えた。
カウンセラーによると、「回復しても学校に戻るかどうかは分からない」という。愛和会では「苦しむくらいなら学校に行く必要はない」という意見もあった。しかし、学校に行けなくて苦しむ二女の姿に「何とかして戻っていけるようにできないだろうか」と考え始めていた。

1998/4/11/土


家族の食卓6


日本臓器製薬に勤める高羽信吾さん(53)の二女の不登校が続いでいた当時は、不登校への教育現場の認識が変わる節目の年でもあった。
文部省はそれまで、不登校は家庭環境や生徒本人に起因する「例外的な問題」としていた。ところが増加に歯止めがかからない状況に、九二年になって初めて「どの児童・生徒にも起こりうる」という見解を示した。
九二年九月、同省は全国の教育委員会にこの見解を基本に通知を出した。それを受け、兵庫県でも九三年一月、各学校に通達が出された。「いじめや学業不張、教職員に対する不信感など学校生活上の問題が起因する場合もしばしばみられる」----。不登校をこう解釈して、学校と教師の努力を強く訴える内容だった。
通達で学校現場の空気も変わってきた、二女を巡って校長と話し合ったのは九二年末。その時校長は「不登校は家庭の問題から起こるケースが多い」と講釈した。そんな校長の姿勢も通達に合わすかのように変わった。高羽さんは校長を非難する気持ちよりも「特効薬のない不登校の対応に学校も悩み、迷っている」と肌で感じた。
学校も不登校への取り組みを始め、変わろうとしていたのだ。九三年七月、不登校生徒の親と教師を交えた会合が開かれた。九月の二回目から、妻の名前で親側の代表になった。「苦しむ二女の気持ちを代弁したい」と思った。
きっかけは夏休みに行われた不登校の生徒を集めたキャンプだった。二女と別の男子生徒が参加し、先生らと一夜をともにした。夜のキャンプファイアーで、ビールを飲み赤ら顔になった先生は、学生時代の恋愛や人としての悩みを語った。苦悩する自分の姿と童ね合わせ、「一緒にやっていけるかもしれない」という思いが芽生えていた。
会はその後「竹の子会」と名付けられ、二女が卒業する九五年三月まで代表を続けた。月一回の会合や野外活動を通して、学校側との相互理解は確実に深まっていった。
代表になって約半年後、家族の苦悩をつづった「親の愚痴、パジャママンの母」が学校を通して各家庭に配られた。不登校までの経緯、引きこもり、涙に暮れた日々。夫婦で何回も推こうを重ね、プリント一枚に思いを込めた。
「つらく長い日々ですが、家族仲良く元気で生きてさえいれば、いつかきっと羽ばたける日をと夢見ながら……」。文章は二女へのメツセージで締めくくったが、実はそれは長女へ向けたメツセージでもあった。

1998/4/14/火


家族の食卓7


九三年、季節が夏から秋へ移るころ。引きこもりを続けでいた二女が食卓につくようになり、日本臓器製薬の高羽信吾さん(53)の不安はいくぶん和らいでいた。
その一方で、新たな不安がふつふつとわき上がるのを抑えられないでいた。長女が二女と同じように無視といういじめにさらされ、不登校が始まろうとしていたのだ。長女は朝になると頭痛や腹痛を訴え、登校を渋るようになった。高校一年の二学期からだった。「不登校の初期段階」である疑いは濃厚だったが、高羽さんは気づかないふりをして励まし続けた。「二女の分も期待にこたえてくれるはず」。二女の不登校が始まってから長女への期待は一層、高まった。妻は大学進学の夢を託し、製薬会社に勤める夫への配慮から「薬剤師なんかいいんじゃない?」と勧めた。高羽さんは相づちこそ打たなかったが、表情は喜々としていた。
「期待にこたえたい」という思いはプレツシヤーとなり長女を追い込んだ。勝ち気な長女はクラスメートに過剰に対抗心を燃やし、敵を作るうちにほぼ全員から無視されるようになったようだ。
食卓で不登校という言葉は禁句となり、励ましは強い口調になっていった。長女の話になると妻ともけんか腰になり、口論は絶えなかった。二女の時は妻のストレスを和らげようとドライブに連れ出したりしたが、今回はそんな余裕はなかった。二女の不登校で逆に深まった夫婦の絆(きずな)にも亀裂が入り始めていた。
長女は入学直後から「学校まで行くのがしんどい」とぼやき始めていた。志願した自転車通学を早々と断念し妻の車での通学が日課になった。道すがら長女は妻に同級生らへの不満をぶつけていた。「あと一年の辛抱やないか。がんばれ」。ついこんな言葉が高羽さんの口を突いて出た。不登校の初期に「がんぱれ」という励ましは逆効果だが、二女の教訓を生かせないほど動揺していた。
クモの糸にすがる思いで、高羽さんは長女を学校につなぎ止めようと手を尽くした。出席不足を補うため、インフルエンザにかかった時の病院の診断書を提出したり、忌引の申請をしたり。何とか二年生への進級を果たしたが、長女は既に学校へ行く気力を失っていたぴ拒食、引きこもりになっていった。
あがきにあがいて、夫婦と長女が三つどもえになって傷つけ合った末の九四年九月、ついに休学届を提出した。学校に戻らないことは分かっていたが、気持ちの整理をつける時間が欲しかった。

1998/4/16/木


家族の食卓8


長女の手から学年主任の先生に退学届が手渡された時、「あー、終わった」と心でつぶやいた。つぶやきとともに煩悩がこそぎ落とされるようでもあった。二女の分まで託した期待が裏切られ、「夢が食いつぶされるようだった」半年。長女とともに悩んだ末の結論だった。
九五年三月。長女は休学から一度も登校しないまま、退学した。そして二女も不登校のまま中学校を卒業。二人の娘の相次ぐ不登校が続いた数年間は、日本臓器製薬の高羽信吾さん(53)にとって、父としてのあり方を問い直す日々でもあった。二女に対しては「優しい父」、長女には「厳しい父」ー−。振り返ると、高羽さんは「ふたりの父親」を無意識に使い分けてしまっていた。
二女に関しては、通信簿の勉強の評価が悪くても、「いつも元気」と書かれているだけで満足した。勉強は苦手だった。小学一年の時、算数の「繰り上がり繰り下がり」ができずに、先生から注意の手紙をもらったこともある。でも、小学校はほとんど休まず、中学入学の際、「休まなかったら、お父さんが皆勤賞をあげる」と約束したほどだ。しかったことはほとんどなかった。
一方、打てぱ響くような賢さを発揮した長女に対しては次第に期待が大きくなり、最初の子供という気負いもあって厳しくしつけた。「社会に役立つ立派な人間になってほしい」。そんな親心は自立心の芽生えた娘を前に空回りした。さらに、二女の不登校で期待はいぴつになった。
おっとり型の二女は、そこにつけ込まれ、勝ち気な長女は。自ら敵を作りだし、ともにクラスで孤立した。かつての”マイホームパパ”は休日には家族で出掛け、多くの写真を残した。カメラのレンズに屈託のない笑顔を向ける二女と、おどけながらもどこか冷めた表情が多い長女。アルバムを取り出せば、幼少のころでさえ、ふたつの父親像がにじんでいるようでつらくなるばかりだった。
食卓からかつてのようなにぎわいが消えた。高羽さん夫婦は長女を巡ってけんかを繰り返したが、その気力さえ失われていくようだった。二人の娘は無気力な状態を引きずったまま時が過ぎた。季節がまた春から夏、そして秋へと移り変わっていった。「いつか必ず自分の足で歩き始めます」というカウンセラーの指摘通り、あとは時間が解決してくれるのを待つしかなかった。
そんな中、長女は自分でカウンセリングに通い、打開策を探っていた。

1998/4/17/金


家族の食卓9


「二人の娘は不登校児でした。お役に立つことがあれは相談に乗ります」。九六年七月、管理職会議の席に立った日本臓器製薬の高羽僑吾さん(53)はこう告白した。娘の不登校を隠していたわけではないが、職場で自ら話したのは初めてだった。それは高羽さんが苦悩の日々から立ち直る兆しだった。
そのニカ月前、工場の工務課長の兼任を解かれ、研究所専任になったことで気持ちに余裕ができていた。そして何よりもその年の春の出来事が大きなきっかけだった。
長女の退学、二女の卒業から一年。娘たちが苦しんだ末に出した結論は、学校に行くことだった。毎日通学する必要のない通信制だが、立ち直りの大きな一歩であることに違いはなかった。話を持ち出したのは長女だった。自らカウンセリングに通って模索を続けるうちに、就職などで「学歴」が壁になると感じたようだ。ほんろうされ一度は捨てた価値観だったが、今回は自分のための選択だった。
入学式で長女は編入生の席に着き、新入生の席には二女と一緒に妻の姿があった。「人生をもう一度やり直してみよう」と妻も決意した。呼ばれた名前にはにかみながらこたえる長女と二女。高羽さんは後ろから見守りながら、家族みんなが苦しんだ歳月を思い起こし、トンネルの向こうに光が見えた気がした。
家族が息を吹き返したのは、入学の半年前に加わった「新たな家族」のおかげだったのかもしれない。高羽さんが同僚からもらい受けた小さな雌の雑種犬で、「コロ」と名付けた。コロは人恋しいと朝の暗いうちから鼻を鳴らし、かわいがると懸命にしっぽを振って全身で感情を表現した。そんな風に素直に生きる様子が、暗くなりがちだった家族の心境に変化を与えた。
いたずらを繰り返すコロの世話は大変だったが、高羽さん夫婦は再び子育てが始まったような新鮮な気持ちの張りを感じていた。娘の不登校に悩んだ末、離れそうになった夫婦の心が改めて結ばれた。子供の不登校に悩む親たちの集まりの「愛和会」では古参になり、アドバイスをする立場になっていた。教育現場で対策が進んだはずだが、不登校の生徒は増えるばかり。会の参加者も増えていた。
二女の卒業で「竹の子会」を退いたが、苦悩する親の姿を前に、再度不登校問題に取り組むことを決めた。そして地元の教育委員会と協力して不登校生徒の親が集う「ふきのとうの会」を結成した。コロがやってきた一カ月後のことだった。

1998/4/18/土


家族の食卓10


今年の春の日差しは格別だった。二女の突然の不登校から五年余り。季節を感じる余裕もなく過ぎたような気がする。「こんなにきれいだったんだなあ」。サクラをめでるのも久しぶりだった。
妻、長女、二女の三人が通信制高校に入学してから二年。九八年三月、二年生に編入した長女がひと足早く卒業を迎えた。「これで長女に対する親としての務めは終わったな」。日本臓器製薬の高羽信吾さん(53)は卒業式に向かう長女を見送りながら、満足そうにうなずいた。
長女は卒業記念文集に「やっと卒業?」という作文を書いていた。「?」マーク。そこには進路を決めかねている迷いと、少し素直になれない自立心おう盛な長女らしさがにじみ出ていて、高羽さんは食卓の指定席に座り、苦笑しながら目を走らせた。「私は全日制高校を中退しました。理由はクラスや学校になじめなかったこと。楽しかったはずの勉強について行けなくなったことです」。長女は自分の不登校に触れ、こう告白していた。食卓で一時は禁句にさえなっていた「不登校」だったが、長女のように家族全員が〃昔のこと〃として話せるようになった。
「あの時、お父さんもお母さんも私の話をまともに聞いてくれへんかった」。二女が不登校になった当時を振り返、ってほおを膨らませる。「お父さんは私にばっかり厳しかった。まるで口うるさいお母さんが二人いるみたいやった」。長女が冗談めかして口をとんがらせる。頭をかく高羽さんに、「昔のことやないの。許してあげなさいよ」と妻が割って入った。
二〇〇〇年三月には妻と二女も卒業し、翌年に高羽さんは一次定年を迎えるー−。
家族の中心にはいつも食卓があった。二女の不登校に始まり、三人、四人、そして二人の時も。改めて「四人の食卓」に戻った今、高羽さんは家族を前にこう言った。「ひとは夢がないと前進しないからね」。父親らしからぬキザな言葉に二女が噴きだし、笑いは四人に広がった。
「長く暗いトンネルはもうそこまで」。家族全員の満面の笑みを見ながら、高羽さんは実感していた。(第454話おわり)

1998/4/20/月