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能力主義と平等感

河合隼雄

2月2日(火曜日)


国際化の波が激しくなるにつれて、日本人特有の強い平等感に対する反省が生じ、最近では能力主義を声高に主張する人が多くなってきた。確かに、国際社会で日本が生きのびていくためには、これまでの悪平等主義では、能力のある人の足をひっぱることになるのを反省し、能力差の存在を肯定し、能力のある人を思い切って伸ぼしていく方策を考えねばならない。
ここでもっとも警戒しなくてはならないのは、能力差の肯定が、単純な「能力主義」になってしまうことである。能力主義となると、これはこれまでの平等主義の裏がえしになって、かつては何でも平等がよいと思ったと同様、能力のある者が勝ち、ときめつける。下手をすると、能力のある者は価値がある、そして、能力者-これはしばしば権力に結びつくーは正しい、というところまでなってしまう。アメリカ社会の現状を見ていると、そのような危惧(きぐ)を感じる。
能力差を肯定することにより、能力のあることはそれ相応に評価され、社会のそれに対する対応も異なるであろう。私はずっと以前から、能力差を肯定するべきことを主張していた。従って、特別な能力をもった者が人より早く大学に入学する制度も、日本において必要なことと思っている。しかし、このようなことは、まったく根本的な意味に把いて、人間は平等である、という強い確信に支えられていてこそ意味があるのだ。
大学に人より先に入学しようが、地位や財産が人より上であろうと、人間の根本の価値においては何ら差がない。このことを前提とし、人間の全体の幸福や進歩のために、能力に基づいて、それにふさわしい処遇が出てくるのである。
能力主義は下手をすると、能力の評価と人間存在の評価をごっちゃにしてしまう。このことをよく弁(わきま)えることが大切である。

日本の教育もこのことをよく考えるべきである。運動会で皆が一緒にテープを切るような妙な「競争」をさせてみたところで、その子が国際社会に出でいけば、能力差の存在を前提とした痛烈な競争社会において生きていかねぱならない。さりとて、ここで急に反転して、能力を人間の価値そのものに直結する「能力主義」になったのでは、世の中がギスギスとしすぎるであろう。強い平等感の上に、各人の能力差を認める生き方を、日本人は築いていくべきである。

(国際日本文化研究センター所長)