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教育分野に関する規制緩和

行政改革委員会の規制援和小委員会(座長・宮内義彦オリックス社長)が「規制援和に関する論点公開」を発表した。十分野三十八項目に及ぶ論点公開では、教育分野に関する規制緩和についても言及、大きな関心を呼んだ。規制援和小委の論点を受けて、「教育と規制緩和」について専門家の意見を紹介する。初回は宮内座長に寄稿してもらった。

今の教育に期待されているのは、自分自身の意識や価値観を育てながら、生きていく過程のいろいろな場面で、自ら判断し選択する力をつけさせることではないだろうか。これからの社会は、個人の自律的な活動を中心として運営されることが求められている。そのためには、一人一人が自立し、多用な価値の存在を相互に認め合うことができるような姿が望ましい。しかし、現在の教育システムを見ると、必ずしもそのような力を子供につけさせる弾力性や多様性を持っていないばかりか、逆に力をそいでしまうような結果になっているのではないかと疑間を持たざるを得ない。

行き過ぎた公平も
これまでの日本の社会システムは〃広くあまねく公平に〃の理念の下、形式的平等や結果の公平性を重視してきた。教育も例外ではなく、行き過ぎた結果として、運動会の競争でも順位をつけない配慮がなされる例まであると聞く。その一方で、学力順位だけは異様な序列を生み出している。
米国の学校で、一人だけある問題が解けな
ワーキンググループでは、「子供は、指定された学校の教室に行って座っている途(みち)しか与えられておらず、縛り付けられている」「学習指導要領が大綱化されても、現場の学校で教材が自由に選択できなければ独自性のある教育課程を編成できない」「競争をすべて否定するのでなく、子供のそれぞれの才能を互いに認め合うべきである」など、活発な議論が展開された。

両論対比で論点公開
こうした議論を経て七月下旬に、他の分野とともに規制緩和に関する論点を公開した。規制を維持すべきとする考え方と、援和すべきとする考え方を両論対比させて整理・公開し、広くご意見を寄せて頂こうというのが趣旨である。教育分野として取り上げたのは、
@学校選択の弾力化
A中学校卒業程度認定試験の弾力化
B教育内容の多様化(教科書採択の在り方など)
C学校設置の弾力化
−−の四点。
また、産学官による研究開発推進については、今後その連携・交流が極めて重要な課題であり、主な関心事項を示した。
学校選択の弾力化を例にとれば、現在、公立の小・中学校では、子供は通学区域に応じて教育委員会の指定した学校に就学しなけれぱならない。この制度については「学校指定が怒(し)意的に行われることがないように、また、保護者に不公平感を与えることがないように、地域の実情に応じて設定され定着してきている」との考え方がある一方で、「学校指定が選択の機会に対する配慮を欠いており、学校教育の画一性、硬直性の一因になっている。市町村の区域範囲程度で、自由に学校を選択するような方式を検討すべきだ」との考え方がある。
教科書選択についても、公立の小・中学校では、教育委員会が定めた教科書しか使用できないが、私立学校と同様に学校単位で選べるようにすべきだとの論点を取り上げた。

現状のまま放登せす
教育問題は、制度改革や規制緩和だけで解決できるわけではないし、今回の論点公開事項だけで問題点を網羅したわけでもない。しかし、教育問題は、これからの社会の中でいきいきと生きながら、その社会を支えていかなければならない我々の子供の問題である。どのようにすればあるべき教育の姿が実現できるかを、オープンに議論していく必要があると思う。小委員会では今後、論点公開した事項を中心に、関係者に集まって頂き、公開の場でディスカッションなどを行い、議論を深めていきたいと考えている。教育に実験や試行錯誤は許されない」とよくいわれるが、現状を放置すること自体が不作為の実験にほかならず、許されるべきことではない。
とかく閉鎖的になりがちといわれる教育に関する議論に対し、風を吹き入れていくことができればという思いで検討を続けていきたい。「論点公開」をぜひ手にして頂き、ご意見を当小委までお寄せ下さい。

間い含わせ先は
行政改革委員会事務局 千代田区
もちろん「規制」を原則としての「援和」である。完全な「自由」を前提に「規制」を考えるというのではないのだから、徹底的な目由化論者からすれぱ、十分とはいえないだろう。しかし教育というものが持つ公共的な性格からすれぱ、完全な規制の撤廃はありえない。
規制援和がある程度進んだいま、緩和をさらに進めるためにも、必要なのはなぜほかならぬ教育のその部分の規制緩和であったのか、それはどのような「効果」をうんだのか、じっくり検証してみるべきときが来ているのではないか。

義務故育が論点に
そう思っていた矢先、行政改革委員会の規制援和小委員会から、教育についても「規制援和についての論点」が公開され、いや応なしに問題を考えさせられることになった。「論点」は
@学校選択の弾力化
A教育内容の多様化
G中学校卒業認定試験の弾力化
C学校設置の弾力化
の四点に分かれている。このうちCは学校といっても大学の設置にかかわるものだが、他の三点は,@が小中学校の学校選択,Aが具体的には教科書採択の自由化,Gはタイトル通り中学校の卒業資格認定というように、いずれも義務教育関連の論点であるのが特徴的である。
規制緩和が予想外に進んだといったが、それは義務教育以後の、高等学校や大学にかかわる部分でのことである。義務教育段階の学校の選択の自由化の問題は、臨教審での審議の初期の段階で大きな争点になったが、文部省の強い反対もあって結局合意に達することなく終わり、義務教育は規制緩和のいわば「聖域」として残されてきた。
それが再び行革委によって取り上げられるに至った背景には、(Gの中学校卒業認定も同様だが)いじめや不登校問題の深刻化があるようだ。行革委はそれを突破口にこの「聖域」に切りこもうとしているわけだが、学校選択の自由化の「効果」の及ぶところは、いじめや不登校への対応策にとどまらぬ広がりをもちうる。これまでの規制緩和の流れにもまして、慎重な検討の必要とされるところである。

偏差値重視変わらす
義務教育は、教育だけでなく社会や経済、文化にとっても、もっとも基礎的な、それゆえに公芙性がもっとも強い部分である。教育のこの部分が「義務」化され、法的に強い規制のもとにあるのは、そのためであり、「自由な競争」とは基本的になじみにくい。規制援和が進むなかで、この部分が「聖域」として残されてきことには、それなりの理由があるとみるべきだろう。
臨教審からほぼ十年、この間におし進められてきた教育改革のキャッチフレーズは、自由化、個性化、多様化であった。実際に高校や大学については、自由化が進められ、個性化、多様化にも一応の進展がみられた。しかしほぼ完全な学校選択の自由の認められた、これら高校や大学についても、それと個性化、多様化が結びつき、進学者の流れが大きく変わり、いっそうの個性化、多様化がもたらされたとみることはできない。学校選択の自由にもかかわらず、偏差値重視の進学者の流れは、基本的に変わってはいないのである。

弱肉強食型の弊害も
学校選択の自由化が、それだげで公立の小中学校を活性化させ、学校の活性化をもたらすという保証はまったくない。義務段階の学校の活性化が目標だというのであれぱ、規制緩和の対象は、もっと別のところに求める必要があるのではないか。大学の設置をめぐる規制も、公共性の間題とかかわっている。大学設置に必要な校地面積について基準が設けられてきたのは、消費者である学生たちに、一定の質の教育サービスを保証するためであり、また大都市部での大学の新増設抑制は、過密化を防ぐと同時に教育機会の平等化の推進をめざしてとられた措置であった。その基準や規制を今のまま、継続する必要があるかどうかは、確かに検討に値しよう。しかしそれと基準や規制の全面的な廃止とは別の問題であり、またそれが大学の活性化や発展を妨げる、大きな要因となっているかどうかも疑わしい。
右肩上がりの成長の時代は、いまや大学についても終わろうとしている。そうしたなかで、基準を廃止し規制を除くことが「悪貨ぱ良貨を駆逐」するような、また「弱肉強食型」のはげしい生き残り競争をひき起こし、結果として教育サービスの質の低下や、機会の不平等化をもたらすことはないのか、どうか。自由な競争と公共性との、しばしぱ対立をはらんだ関係は、義務教育に限らず大学についても、規制緩和を考える際に、忘れてはならない問題だろう。

1996/8/25/日/掲載記事

教育と規制緩和3/1

行政改革委員会の規制援和小委員会が、教育問題をとりあげたことについて、今後の日本の教育のあり方に大きな影響を与えるとみる専門家は多い。筑波大学の下村哲夫教授は、同委員会の姿勢を評価したうえで、本当に重要なのは、小手先の制度いじりよりも、教育関欝者の「内なる規制の援和」ではないかと指摘している。

近ごろでは珍しくなったが、プロペラ機から地上を見ると学校だけは見分けがついた。細長い校舎とその後ろに広がる運動場、そして青い水をたたえたプール、四角い体育館、そうした取り合わせが申し含わせたように共通している。地上に降りて学校を訪ねてもよく似たものだ。校門をくぐって正面に事務室、そのわきに職員室と校長室。北側廊下で南側教室。教室の造りも大同小異で、同じころに学校訪問すれぱ、教室の後ろに掲げてある習字の文字まで同じだったりする。
実際、わが国では、
今回、行政改革委員会規制援和小委員会の「論点公開」が、初めて教育問題をとり上げ、この幻想を論議の舞台にのせた意昧は大きい。とり上げられたのは、「学校選択の弾力化」「教育内容の多様化」「中学校卒業認定試験の弾力化」「学校設置の弾力化」の四項目だが、主として大学設置を問題にした「学校設置の弾力化」はさておき、先の三項自は論議の方同いかんでは、明治以来のわが国の教育の在りように重大な転機をもたらす可能性を持っている。
「学校選択の弾力化」は、かつて臨教審でも「教育の自由化」とのからみで提言されたが、結局日の目を見なかった。学区割りの関係で調整地域を設けたり、いじめによる転校は認められているが、これらは便宜的ないし応急的な借置で「学校を選ぶ」権利を保障するという意味での選択の弾力化とは趣旨が違う。行きたい学校、行かせたい学校を選ぶというのは、子供や保護者にとって本来ごく自然なことではないか。

人任せの教科書選択
とはいっても、学校選択が意味を持つのは各学校がそれなりの特色を持つ場合である。「みんな同じ」では学校選択の意味もない。
そこで「教育内容の多様化」が必然的な要請になる。もっとも「論点公開」では、この点に関しては教科書の学校単位の採択しかあげていない。公立小中学校の教科書は、教科書無償制と引き替えに採択地区ごとの来同採択制度がとられ、教師が教科書採択に発言する機会は失われた。以来、教科書展示会には閑古鳥が鳴いている。自分が使う教科書も人任せというのは教職の専門性からしてもおかしい。
この点に関しては、政府の地方分権推進委員会の「くらしづくり部会」中間報告が「教育課程の監督権限を、施設(学校)の設置者たる市町村教育委員会の権限とするか、それとも文部大臣の定める学習指導要領を大幅に弾力化して市町村教育委員会規則で定め得る範囲を極力拡大するか」を検討テーマに掲げたのが注自される。「教育内容の弾力化」を図るには、教科書採択制度に限らず、教育課程行政そのものの見直しが必要である。
「中学校卒業認定試験の弾力化」は、むしろ「学校選択の騨力化」とのかかわりで論じるべきであった。現在の学校というシステムがすべての子供の学習にとってふさわしいというのは、学校大国に住み慣れた者の傲慢(ごうまん)さである。学校は子供の暮らしにはかなり特殊な環境であり、その枠組みに不適応を起こす子供がいてもさして不思議でない。そうした子供たちに学校に代わる学習の場を提供し、その成果を検定試験で認定するというのはごく当たり前のことではないか。中学校卒業認定試験から大学入学資格検定というルートができれば、現在のエスカレート式の学校教育に風穴をあける効果もあろう。

しょせん小手先か
とはいうものの、正直なところ、私はこの規制援和なるものに総じてさほど大きな期待を持たない。教育にかかわる規制は、この種の制度よりむしろ教育関係者の意識の中にある。「何ごともお上のいうままにお上の意向をうかがってから」という教育委員会、そして学校の主体性の乏しが「内なる規制」を生んでいいるのである。
教育は本来「国の事務」でなく,「地方の事務」であり,学校はまさにその当事者である。その心構えが確立されないかぎり,制度面での規制援和は、しょせん小手先の制度いじりの域を出ない。
1996/9/1/日 掲載記事

私大縛る 護送船団方式

教育の規制援和を考えるうえで、私立大学に対する文部省のさまざまな規制は、避けては通れない問題だ。関西学院の武田建理事長に私大経営者の立場から、「大学と規制緩和」について、寄稿してもらった。

読者の多くは経済界の方だと思うので、大学がどんな規制を徹廃してほしいか、その幾つかを紹介しよう。
まず、学部等の新設である。ある会社が新しい事業を始めるとしよう。どんな事業を始めるかは、その会社の経営見通しと財力で自ら決定することが出来る。しかし、大学の場合は、学生定員はもちろん、多くのことを学校が勝手に決めることは許されない。まず文部省に申請し、認可をいただかなくてはならない。特に、今のように十八歳人ロの滅少期には、めったなことでは認可はいただけない。

学部新設の資料膨大
次に、「新しい」大学、学部、学科は借入金でつくることは許されない。会社ならば銀行からお金を借りて工場を造ることは出来る。しかし、大学が新しいことをするときには、それは許されない。それだけではない。学部や学科の新設のときには、その必要性、教育内容、建物、設備、校地の広さ、財政状況、その他膨大な資料を作って文部省に届けなくてはならない。
中でも大変なのが教員の数と質の審査である。新設の認可を得るためには、全教員の展歴書と、出版したあらゆる本や論文にその要約をつけて提出しなくてはならない。そして、審査委員会で吟味され、教える力がないと判定されれぱ、大急ぎで他の教員と差し替えなくてはならない。駄目と判定された教員はすでに現在の職場を辞める了承をとっているから、今さら「来るな」とは言えない。設置基準上、学生数に応じて校舎面積は定められているが、校地は校舎の総面積の六倍以上なくてはならない。この狭い日本で、この基準は多くの大学にとっては苦しい。また、極めて少ない定員の学部や学科でも、定員の三○%をオーバ−するとおしかりを受ける。私大の経常経費の大部分は人件費たが、経常経費の二五%以上を教育研究に使っていなくては指導がある。このほか、財政の健全性を維持するために、さまざまな注文がつく。学納金といえぱ私大のそれは国公立大に比して当然高い。私学に子供を送るご両親は税金で国公立を支え、そのうえ、子供の通う私学も支えなくてはならない。全私学連合は、そういう親のために免税借置をお頗いしているがガードは堅い。

答付も免税されす
文部省は国立大学の老朽校舎の改築を始める。私学だって老朽校舎を抱えている。しかし,一般的に言うと、予算の一○%以下の国庫助成しかいただいていない私学の校舎の方が整っている。その分、学生の両親、同窓、その他の方々に重荷を背負っていただいているわけだ。これが米国ならば、教育機関に寄付をした場合、その全額が免税の対象になる。だから、日本企業は欧米の大学に寄付をしても、日本の大学にはなかなか寄付をしていただけない。こうしたことが、日本の大学の研究の質の低下を招く一因にもなっている。どこかがおかしい。非課税のNPO(非営利組繊)による研究開発支援が望まれる。
だが、文部省にも言い分はある。大学の中には、いい加滅な教員や建物・設備で、むやみにたくさんの学生を集める学校があるから、教育の質を保つためには規制が必要だというわけだ。十八歳人口がどんどん滅っているのに、定員を各大学に自由に決めさせれぱ、特定の大学に学生が集まり、倒産する大学が出てくる恐れがある。銀行だけではない。大学も護送船団方式で守られているのである。経済界の友人は「おれたちは倒蕗の危機と背中合わせで仕事をしているのに」と私たちをあざ笑う。大学人は甘いのだろう。だが、自分の大学が生き残れても、他の大学がつぶれたら、そこの学生はどうなるかも心配になる。

米にはチェック機関
規制援和はありがたい。ぜひやっていただきたい。しかし、仮に大幅な緩和が行われた場合には、文部省に代わって、チェック機能を働かす組繊が必要だろう。米国では、大学が集まって、教員や教育内容をお互いにチェックする組繊がある。地域的なものもあれば、大学院などは専攻別の全国的なチェック機関もある。その仕事にあたる教員たちは、一つの大学を何日もかて調べ上げ、手厳しい評を与える。しかし、日本でこうしたシステムが近い将来容易に根づくとは思えない。
当面は、大学人が主体的な自己改革システムを確立して行く以外に手はないだろう。それは大学自らのアカデミック品質管理とでもいうべきものだと思う。大学設置基準の大綱化(とくにカリキュラムの自由化)に伴って、各大学が始めた自己評価・自己点検も、本来はアカデミック品質管理につながらなくては意味がない。規制援和は大歓迎である。各大学が目由競争の原理を貫くところに進歩があると思う。そのうえで、万一「欠陥商品」を出すようなことがあれば、その時は「製造物責任」を問われるのは当然である。高等教育の場で「粗悪品」が出ることを、文部省は最も恐れていると思う。私たちも同じ気持ちだ。大学本来の姿を取り戻すためには、各大学での新しい試みが必要であり、そのためには大幅な規制緩和が不可欠だと思う。そして、今からポスト規制緩和を考えておかなければ、日本の高等教育そのものの存立基盤さえ、問われかねないことになるだろう。
1996/9/8/日曜


教育と規制緩和5/1

子供に「ゆとり」と「生きる力」をもたらそうという教育改革の着地点が、いまひとつ見えてこない。戦後教育を支えてきた行政の規制の枠組みをそのままにして、優れた理念と制度上の手直しを論じても、おのずから限界はある。公教育の自由化を通じて学校に競争原理の導入をうたった十年前の臨時教育審議会(臨教審)の論議を、今一度深める必要がある。
編集委員 柴崎 信三

週休2日に反対の声
日本PTA全国協議会が最近まとめた学校完全五白制を巡る父母のアンケート調査で、反対論(3%)が賛成論(28%)を上回ったことは、中教審をはじめ教育改革の現場にさまざまな反響を呼んでいる。
父母があげている反対の理由として「(家庭や地域など)社会の受け入れ態勢が不十分」「子供の生活のリズムが乱れる」などのほか、「塾通いが増え受験競争が激化する」という答えが、改革を受け止める側の本音として注目される。
現行の制度の枠組みの中で、授業時間の大幅削滅など「ゆとり」実現へむけた改革を進めれぱどうなるのか。理念の手前に広がる現実の末来図を、父母たちは的確に見披いている。
行政改革委員会の規制緩和小委がまとめた「論点公開」は、中教審など行政サイドで進められている改革論議が避けている新しい教育システムの「骨格」に触れている。すなわち、ユーザー側にたって通学先を自由に選べる「学校選択の弾力化」や教科書採択の自由化など、教育現場への競争原理の導入である。
高等教育レベルでは既に定着したと見える大学間の競争原理を、小学校から高校にいたる初等中等教育に導入するに当たっては、もちろん基礎教育の特殊性からの反論がある。しかし、中央集権的な「配給型」の戦後教育がもたらした画一主義の弊害や受験競争の過熱から学校を転換させるには、公私立を通じて多様な学校間の競争を可能にするための規制の援和と、消費者サイドに立った教育サービスの条件を探ることが不可欠だろう。

臨教審提起,契機に
中教審の一次答申が優れた理念をうたいながら、教育を取り巻く日本社会の構造的な課題をう回しているのに対し、行革委小委の「論点」は受益者側から教育サ−ビスの選択の幅を拡大するしくみを打ち出すことで、少なくとも改革の原理はリアルに提示している。
「教育自由化」を通じて義務教育に競争原理を導入する構想は八○年代半ぱの臨教審で提起され、当時の「小さな政府」論を背景に激しい論争にさらされた。「教育は国の歴史や風土に根差すもので、経済原則になじみにくい」という行政サイドの反対論に押されて、この論争自体は中途半端に終わったが、そのインパクトは現在の改革論議に大きな影響を与えている。しかし、こうした経緯もあって文部省周辺にはいまだに、正面から抜本的な「自由化」を論じることをタプ−とする空気さえある。
もとより「自由化論」はオールマイティーではないし、教育という領域への運用に伴うさまざまなリスクには留意すべきである。
多様な選択求める
だが、中央統制型の画一人材育成システムとしての学校がその伝統的役割を終え、むしろその弊害が深刻化している現在、人々が教育に求めるものが多様な選択的サービスに変わりつつある現実も、率直に認識しなくてはならない。そして「配給型」の学校システムの疲弊を打破するしくみとしての「自由化」が、改革の大きなポイントとなることは疑えない。
米国では八○年代から進んだ分権化や公立学校への自由競争原理の導入の動きを背景に、教育バウチャー(証券)制度や非営利組織が公立学校を運営するチャター・スクールを通じた学校選択の自由化が進んた。公立学校経営の私企業への委託も含め、こうした教育システムの自由化の実験の成果はもちろん一定ではなく、教育水準の全国標準化への要請など揺り返し現象も見られるようだ。
ともあれ、行き詰まった日本の「統制・画一型」教育モデルに代わるシステム形成にあたって、市場機能と消費者の自己責任という「自由化」教育モデルの原理を問うことは改革の避けられない道筋である。
国による自治体の教育長の承認制度から○(オー)157間題で浮かび上がった学校給食制度まで、戦後教育の枠組みの中で存続してきた多くの制度で時代とのミスマッチが指摘される規制は多い。それは戦後の教育システムが抱える既得権益の大きさの象徴でもあり、ドラスチックな規制援和にはそれだけの痛みを伴うが、学校現場の疲弊が理念や制度の各論部分の手直しで対応可能なレベルにないことも自明である。
改革で切実に求められているのは、家庭や社会の変化に対応した教育サービスを生みだす、供給サイドの新しいメカニズムの形成であり、この基盤を欠いた理念的啓蒙や制度上の見直しは、さまざまな矛盾を拡大する恐れもある。規制援和を通じて消費者の選択の自由の拡大を求める推進派委員と、教育の機会均等などの観点から規制の枠組みの維持を主張する反対派委員が激しく渡り合った臨教審の「教育自由化論争」を、いまこそ深める時である。
おわり
1996/9/15/日 掲載

これは,5週間にわたって掲載された記事を,統合したものである。