教育改革論議が活発になってきた。日本再生の切り札ともいわれるこの改革の、あるべき方向について、識者に論じてもらった。
@戦後教育を抜本的に見直すうえで、国民を教育行政の対象として管理する発想を改め、教育サービスの消費者として認識することも重要である。
A雇用の流動化にも対応できる真に多様な内容の教育を実現するには、設立認可など大学経営の参入規制を原則撤廃し、競争を促すことが不可欠だ。
B政府に求められるのは、財務・教育内容を巡る各校の情報公開や学校評価の制度確立など、国民の多様な選択を保証する事後監視的な役割である。
2001年(平成13年)1月18日(木曜日)
国民は管理の対象ではない
戦後教育の抜本的な見直しを目的とした教育改革国民会議の最終報告が昨年末に公表された。報告書は、一律主義の教育を見直して創造性を重視する教育への転換をうたっている。しかし、真に多様な内容の教育を充実させるには、国家主体の教育政策を全国的に実施するという発想自体の見直しが必要ではないか。
初等中等教育は国民共通の価値観の形成という大きな役割を担うが、それは現行のような教育内容の細部に至る国の規制を正当化するものではない。国民の義務という明治以来の画一的な教育を強いるのではなく、多様な教育を受ける権利を保障するのが二十一世紀の課題となる。それには国民を教育行政の対象ではなく、創造性のかん養を含めた教育サービスの消費者として認識することが重要だ。
国民の間で教育のあり方に関する意見が大きく割れているいまこそ、教育内容に関する国の統制を(実質的にその規制下にある地方教育委員会も含めて)大幅に緩和し、都道府県に教育の具体的内容の決定権限を移譲する必要がある。そうすれば、各地域の多様な試みの結果から、より良い手法を選別するという「社会的実験」が可能となる。
国民の大事な教育に「実験」は論外だ、という批判が予想されるが、大事な教育であればこそ、国民の多様なニーズに対して、単一の教育方針を国が定めて失敗することのリスクも大きいのではないか。
例えば、今回報告書の争点のひとつであった学生の奉仕活動についても、全国一律に実施する前に、個々の地域での試行の成果を踏まえた検討が、本来、必要ではないだろうか。政府が教育分野に全面的に関与してきたことは、「教育の特殊性」をその最大の根拠としてきた。確かに、教育は医療と並んで供給側と需要側で「情報の非対称性(相手に関してもつ情報の不均等さ)」の大きな分野だが、それは今のような供給者本位の内容で良いことを意味しない。
従来の大学を頂点とした教育への需要は、親が学資を負担し子供が労働を提供、その成果を企業が利用するという複雑な仕組みとなっていた。定年までの長期雇用保障を前提とし、企業内でもっぱら新卒者の熟練化を進める雇用慣行の下では、企業の求める潜在的に優れた労働者を選別する手段としての学歴がもっぱら重視される。大企業の恵まれた就業機会が、新卒採用時にほぼ限定される以上、それに有利な学歴を得られる大学への入学需要が強まるのは当然である。大学生の「学力不足」が懸念されているが、ゆとり教育の是非だけが問題なのではない。若年者が受験勉強だけに明け暮れる結果、入試科目とそれ以外の科目の間での知識の過剰と不足とが生じる教育システムの非効率性が、より大きな問題なのである。
この意味では、現在の学校教育問題の多くは、企業の雇用に対する需要の特性から派生している面が大きい。しかし、その企業の雇用システム自体がようやく変化し始めており、雇用の流動化とあいまって、学歴よりも学力を求める時代へと向かっている。これに対応した、大学をはじめとする教育機関の改革が迫られているのである。
設立時に厳しく事後は甘い欠陥
雇用が流動化するなか、学歴だけでなく市場価値を高める専門的な内容の教育を求める需要は高まっている。それと、若年人口が急減し始めたいま、若年者依存の経営からの脱却を図る大学のニーズとは、多様な・教育サービスの充実という方向で一致している。しかし、これを阻むものがある。大学の新規参入や既存の学部・学科内容の弾力的な改革への規制である。
大学の設置基準に一定の教育内容の保証は必要である。しかし、設立時には厳しく制限するが、事後的な質の維持のチェックが少ない現行の認可制では、市場で淘汰(とうた)されるべき大学も温存される。
また、消費者の二-ズに合わせた学部・学科の改編や定員の増減にも必要な個々の認可制や、設置基準として、校舎面積の三倍の検地を要し、その半分以上を所有する義務などの「土地信仰」が自律的な大学運営の制約となる(教育分野の規制の実態は「規制改革委員会ホームページ
http://www.soumu.go.jp)。
こうした、教育内容と無関係な不動産基準を含め、国が消費者に代わって大学の質を管理するという発想が、都市部に新たな大学を開設する際の障害となり、外国の一流大学の日本分校が学校法人として認可されない理由ともなっている。
これは以前の護送船団方式の金融機関規制と同じで、結果的に既存校を競争から守っている。これから生じる大学経営者の危機意識の乏しさは、例えば民間労働者には本来、強制適用されるべき雇用保険を、私学教員だけは失業リスクがないとして拒否していることにも象徴される。金融改革で、預金保険により預金者の利益を守りつつ銀行破たんを可能としたように、社会的ニーズに対応した大学が発展し、そうでない大学が円滑に退出できるルールの整備が求められる。
そのためには、大学間での単位互換や学生の流動化を促す体制が必要である。大学を一方的に保護するのではなく、対等な条件の下、消費者に選択されるための競争の促進に重点をおき、大学の財務・教育内容についての情報公開を進める制度や官製でない教育評価システムを整えることが政府の役割である。
伝統だけに頼る大学が本格的な市場競争にさらされて初めて、消費者主体の教育サービスを提供し、それにふさわしい質の教職員をもつ意欲が高まる。さもないと、雇用の安定や年功序列的な人事を至上とする傾向は変わらない。
教育サービスのすべてを市場にゆだねるべきでないのは明らかだが、それは参入規制ではなく、社会的価値の高い教育・研究への公的助成を重視することで可能となる。社会的価値をもつ財の供給は政府固有の役割であり、市場原理とは矛盾しない。
消費者本位へ選択肢を拡大
学級崩壊などの混乱に関連し、家庭教育の重要性が指摘されている。しかし同時に、上からの規律だけに依存した集団教育体制がもはや維持できない現実を認めれば、四十人学級など、経済的に貧しかった時代の公的教育サービスを質的に改善すべきときである。そのための追加的な費用の調達方法について、国だけではなく地方の議会でも議論すべきではないか。
個人の多様性を尊重する社会では、個々人の能力水準にかかわらず、その付加価値の向上に重点がおかれる。個性・習熟度の違いにかかわらず、個人の年齢だけで学年が決められる全国一律の国民教育は、見かけ上の平等性を追求するあまり、学力に応じた教育を受ける権利を侵害している。個人への強制だけでなく、その選択肢の拡大が「消費者本位」の意味である。
また、教員については、新卒採用に過度に依存するのではなく、多様な社会経験をもつ人材が、教職免許なしに試験だけで採用されるような道を可能にし、終身雇用の教員との競争を促すことも必要である。「国民の義務として教育を公的制度だけで供給する」という思想の見直しも重要だ。既存の学校に適応できない生徒には、独立学習や職業教育も含めた多様な選択肢を用意するのが望ましい。
他の社会的分野で、国・地方・民間との間の役割分担の見直しが進んでいるのに、教育分野については、相変わらず過去の欧米へのキャッチアップ時代の、国主導の体制が堅持されていることに問題の根がある。
政府は国民に対し、財政面から教育を受ける権利を保障する一方で、学校の設立認可などの事前的規制を原則廃止し、教育政策における地方自治体や消費者の選択肢を拡大する。それこそが、国民会議で強調された多様な教育サービス実現の基本だろう。そして、保護より情報公開を含めた事後的チェック体制の強化が政府本来の役割である。
@日本が技術立国という目標を達成するには、大学改革が不可欠だ。理数系の学力低下などからみて、「ゆとり教育」の再考が必要ではないか。
A改革のキーワードは「多様性」で「顔」のみえる大学を目指すべきだ。それはニ-ズ多様化への対応を迫られている産業界との連携にも役立つ。
B米国などの例をみれば産学連携を進める上で特に重要なのは、大学院の活性化だ。企業人などにも大学院を本格的に開放していく必要があろう。
2001年(平成13年)1月19日(金曜日)
ひ弱な土台に 城は建たない
最近、日本の大学生の基礎学力、とりわけ理数系科目に関する学力の低下についての議論がかまびすしい。なかには、分数の足し算が満足にできないというような、にわかには信じがたい指摘すらある。ついこの間までは、「独創性では一歩譲るにしても、応用力では優れている」、というのが自他共に認める日本人の学力についてのイメージであった。しかし昨今の実情を考えると、その応用力さえも心もとない水準になりかねないと危ぐされる。ただでさえ、少子化の影響で若い優秀な技術者の不足が予測されているのに、最高学府の学生が義務教育レベルの学力すら備えていないとなっては、技術立国日本の将来は大いに危ぶまれる。
大学での理数系離れの原因を探ると、授業が「難しいから」「わからないから」という答えが返ってくる。大学の授業を理解するのに必要な基礎学力を、その大学の「合格生」が備えていないのだ。となると、大学教育の問題は大学個別のものではない。高校卒業までに習得すべきことが習得されていないことにも、もっと関心を向けるべきである。
これを思うとき筆者は、「ゆとり教育」ということについて再考が必要なのではないかと考える。「ゆとり」とは何なのか。過当な受験「狂騒」をあおるつもりはないが、一生を通じての学問の基礎部分は、たとえ少々厳しくとも、しっかりと次代を担う者たちに教えていくのが、真の教育であるように思う。
そもそもゆとり教育などということが言われたのは、知識偏重のつめこみ教育への批判がその根本にあったはずである。だからといって、カリキュラムを軽くするだけでは、何の解決にもならない。時間的なゆとりが増えた分、いわゆる教育熱心な家庭の子供たちが予備校や塾に通い、受験のテクニックを身につける。その結果、最近流行の言葉でいえば、教育に関するデバイド(格差)が発生、加速する。
本来教育が教えねばならないのは、知識やテクニックではない。真理を探究することの苦労と感動を教えるのである。例えば、欧州の中高生は、夏休みの理科の宿題ひとつにしても、連日の観察、実験、リポート作成に没頭し、研究者さながらの論文に仕上げると聞く。このような地道な訓練を通じて、学問への意欲と、あくなき真理への探究心が培われるのだ。
大学入学までに学問についての力強い土台を構築しておくことが、日本の大学改革の第一歩である。その上ではじめて本当の意味での産学連携、ひいては二十一世紀のあるべき大学像が実効的に検討されるのではないか。
多様性もとに「輝く個人」を
結論から先に述べると、大学教育の行き詰まりを解決するキーワードは「多様性」だと考えられる。言い換えれば、画一性の呪縛(じゅばく)を離れれば、日本の教育は一気に蘇(よみがえ)るのではないか。例えば一九九〇年代後半、日本の半導体産業は積極的に産学連携を進めた。その過程で痛感したのは、極論すれば、企業側から見て日本の大学には「顔」がないことであった。すべてを欧米と比較することにはためらいがあるが、同じ程度に著名な日米の大学の専門履修科目を比べると、米国のカリキュラムの細分化の程度、そして教授陣の充実ぶりに驚かされる。
分野を問わず産業界は、グローバル化の進展の結果、スピードとニ-ズ発掘が重視される時代にある。産業界そのものが多様化、専業化の流れにあり、その変化に大学教育も同調しない限り、有効な産学連携は望みようもない。半導体に関していえば、新しい理論の創出だけでなく、電子回路を設計し、実際にシリコン上で動作を確認することまでを「学」の領域で分担する必要がある。
この趣旨から九六年に発足したVDEC(大規模集積システム設計教育研究センター)は、大きな成果をあげ、半導体産業に貢献しているが、米国における同様の産学連携機関「MOSIS」は八○年には発足していた。大学が多様性を発揮し、各校の顔を持つようになれば、必ずそれを高く評価する企業が現れ、産学連携が自然に発展していく。米国の例では、スタンフォード大学とシリコンバレーのハイテク各社のように極めて実践的な産学連携の例を多数見いだすことができる。
特に大学院については、企業への開放などの面で大いに多様化が期待できる。例えば社会人大学院の活性化である。半年から二年の期間を大学院で過ごし、また企業に戻れるような制度を有効に活用できれば、企業にとっても大学院にとってもよい刺激になる。
留学によるMBA(経営学修士)だけが大学院ではない。さらに博士課程修了者の起業やビジネス界への転身も大いに歓迎されよう。米国で制度化されている大学教授の研究休暇(サバチイカル)制度の導入も、産学の実りある交流には強力な追い風となろう。環境の変化による刺激は、英知をより活性化するからである。
教育行政についていえば「予算内で何ができるか」の議論ではなく「個々の課題の実現に必要な施策は何か」を追求する発想への転換を期待したい。特に、世界の知性が日本を魅力的な国として認識してくれるような、教育・生活環境を早急に実現していく必要がある。これらが日常的に行われるようになれば、日本の大学教育は劇的に変ぼうを遂げるであろう。
産業界の立場から言えば、もはや企業が新卒学生を形式だけの試験で採用する時代ではない。確かにそういう時代も過去に存在し、その時の画一的文化が日本に奇跡的な復興、繁栄をもたらしたことも否めない。しかし、今後の日本経済・社会のみならず、世界の一員としての日本の将来を考えると、顔が見えず分数のできない大学生では困るのである。企業が欲しいのは、自信と意欲を備えた「輝く個人」である。
人間性の世紀を演出する教育を
これまでも個性の重視であるとか、創造力の重要性を説きながら教育論議は進められてきた。しかし、個性や創造性をいくら叫んでも、多様性を備えない土壌には個性も創造性も花開くことはない。多様性とは、「他者」「異質な者」を認めることである。他者を認めることで初めて自己が定義づけられる。人間の自我は、多様な個性の中で初めて安定し、健全な成長軌道に乗るのであって、同質画一的な環境下では、極めて不安定な状態におかれる。いじめもひきこもりも、画一性のストレスが引き起こす反応と思えてならない。
ではどうすればよいのか。一案として、経済学者レスター・サロー氏の提唱する「失敗に寛容な社会」の育成をあげたい。失敗を恥とする文化である限り、ベンチャー精神は育たず、産も学も停滞し続けよう。税制や金融、社会保障などの経済システムを、機会の平等の視点から総点検する必要があるのではなかろうか。当然ながら自己責任の原則は貫かれなければならないが、むしろ、これまでの当事者が責任を回避しつづけた結果、九〇年代の日本の停滞を招いたことを今後の糧とすべきであろう。
日本は今、情報技術(IT)を足がかりに新たな発展の道を模索しているが、多様性がIT社会に及ぼす影響は計り知れないものがある。ITがなぜ米国であれほど進展しているのか。それは米国文化が宿命的に多様性とともに歩んできたためではないかと思う。自分を伝え、賛成・反対はともかくも、相手を理解するというコミュニケーションの大原理が、米国文化の基底部にはある。
最高学府である大学・大学院は、このような多様性社会をみずみずしい感性と力強い英知で生き抜いていける、たくましい若者を輩出していただきたい。九〇年代の日本社会の停滞、混乱は、従来の画一性社会から人間性が開花する多様性社会への変節点であると確信したい。
教育の真の目的とは何であろうか。今こそこの問いかけに、誰(だれ)もが真摯(しんし)に取り組むべきではないだろうか。
36年生まれ。東大工学修士。主に半導体事業に従事
2001年(平成13年)1月22日(月曜日)
@日本再生の切り札は教育改革だ。まず、非効率的で必要でもない大学入試を数年以内に廃止し、より効果的なシステムに移行させる必要がある。
A新体制では、学費の値上げ(奨学ローンとセツト)を実施し、負担できる人すべてが入れるようにすれば、社会人にも門戸が開かれる。また各大学は自らの特徴を明示すべきだ。
B高校についても、入試を廃止、書類選考化し、卒業や大学受験の資格にもなる検定試験を導入すべきである。
負担の明確化と専門性が重要に
大学の入学試験は、効率的でなく、必要でもない。準備期間を数年おき、別のシステムに移行すべきだ。大学入試はなくならないと、多くの人びとが信じてきた。それは根拠がなく、事実にも反している。戦前の大学は、学部によるが、だいたい無試験で入学できた。アメリカの大学には、いまも入学試験などない。大学入試は戦後の産物であり、何の工夫もないまま現在まで続いてきたのだ。
戦後の日本社会は、なぜ大学入試を必要としたか。第一に、大学進学率がどんどん上昇したから。大学も次々に作られたが、志望者のほうが入学定員より多かった。そこでどの大学も、入試で選抜すればいいと考えた。
第二に、入試の難しさが大学の評価を決め、就職のパスポートとなったから。日本の大学は、現実とかけ離れた教育をし、実際的でない。そこで社会(とりわけ企業)はまるで大学を信用せず、かわりに入試成績(偏差値)を採用の目安とするようになった。
第三に、入試の難しい大学に入れば、大企業に就職でき生活も安定すると親も子どもも考え、入試が自己目的化したから。受験のための塾や予備校が繁盛し、教育全体がゆがめられた。
以上の三条件は、どれももう過去のものになっている。少子化が進んで志願者の数が減り、大学の入学定員とだいたい同じになった。企業も変わり、実力本位の人事や中途採用が増えた。有名大の新卒を奪い合う時代はもう終わった。多くの人びとが、入試に代わるもっとまともなシステムを待ち望んでいる。
大学入試をなくすには、それより効果的な制度を設計しなければならない。
制度が満たすべき条件をいくつかあげてみよう。
まず大学はあくまでも、一部の人びとが専門教育を受ける場である。いま高校進学率は九六%、事実上の義務教育である。それに対して大学進学率は四〇%ほど。どんな学生がどんな大学に進学するか、うまく決めるメカニズムが必要だ。
つぎにコスト。大学教育に学生一人当たり年間、私立で約百二十八万円、国立で約百八十万円かかる。学費収入はその半分かそれ以下にすぎない。負担の原則を明確にする必要がある。
さらに、平等の問題。大学で学ぶ機会が、所得の高い家庭など特定の層に偏るのは望ましくない。
また、教育にゆがみを与えないこと。学生がやる気を出し、大学が活性化し、高校以下の学校にも笑顔が戻るのが理想的だ。
社会人に開放し優秀者に奨学金
これらの条件を満足したければ、日本もさっさと、アメリカの大学のシステムをまねるといいと思う。アメリカには一流大学が約五十校ある。以下四流大学まで千校がひしめいている。そして二流ぐらいまでの大学は、けっこううまく行っている。
米国の大学にはアドミッション・オフィス(AO)というものがあって、専門の事務職員が、書類審査で入学を決める。高校生は暮れから正月にかけて書類を出しまくり、四月にはその返事が来て入学先が決まる。高校の成績や共通テスト(SAT)の成績、エッセー、クラブ活動や学外活動(ボランティアなど)が審査される。
日本でもAO入試なるものが増えているが、実態は推薦入試で、アメリカのシステムとは別ものだ。
では、具体的にどんな制度にすればいいか。まず第一に、学費を値上げして、実際の経費にみあったものにする(コストの自己負担)。そして、コストを負担するかぎり、原則として誰(だれ)でも大学に入れるようにする。入試が難しいからと、大学に入るのをあきらめる社会人が大勢いる。そうした人びとにも門戸を開こう。
第二に、それぞれの大学が、わが校はどんな教育をする大学か、卒業や入学時にどれくらいの学力を要求するのかを決めて、発表する。たとえば「理系研究者育成大学」なら、数学と物理は高三レベルが必要、「ビジネスマン養成大学」なら英語と国語と地理歴史は高ニレベルが必要、など。入学に必要な学力を認定するため、全国規模の資格試験(英語なら英検みたいなもの)がいくつもあるとよい。
第三に、学費を高めにするかわりに、徴収した一部を、成績優秀者に奨学金のかたちで還元する。また、学生全員が銀行から奨学ローンを受けられるようにする。こうすれば、親の所得と関係なく誰でも大学に行きやすくなる。
奨学金と奨学ローンの仕組みは、やや複雑になる(試算例を含めた詳しい説明は、堤・橋爪編「選択・責任・連帯の教育改革/完全版」=頸草書房=にあるので参考にしてほしい)。
このように改革すると、意欲さえあれば、誰でも大学に行けるようになる。その結果進学率は、高まるかもしれないし、負担が増すのでむしろ下がるかもしれない。
いずれにせよ、社会的にみて最適の水準に落ち着くと考えられる。現状では本人の負担が少なすぎるため、行かなくていい人まで大学に行っている。それを税金などで一般国民が負担し、本人は受験で苦しんでいる。愚かなことだ。
高校も書類での選考と学力検定
この改革で、高校や小中学校の教育はどう変わるだろうか。
中学から高校に進学するのに、高校入試がある。中学は偏差値輪切りの進路指導をするほかない。結果、大部分の生徒は不本意な入学となり、意欲をなくす。そのあと大学を目指すには、高校の勉強では不十分だから、塾や予備校に頼らなければならない。卒業するだけなら、まじめに勉強する必要はない。いずれにせよ高校は空洞化し、教育目標を見失っている。
高校を再生させるには、高校入試をやめて書類選考にし、誰でも受け入れるかわりに、卒業資格を明確にして、高等学校学力検定試験(略して高検)の制度を採り入れることだ。
高検の中身と役割について、もう少し説明する。高校を卒業すれば、社会人として必要な、主要教科の基礎学力や一般常識が身についているはず。ところが、現状では高校の差がありすぎて、それが期待できない。ゆゆしい問題だ。そこで学力証明のため、高検を義務づける。
高検は、十分にやさしい試験であることが必要だ。枝葉ではなく基本を出題する。自動車運転免許の学科試験みたいな、基礎学力をチェックするための資格試験(基準点以上は合格)を年に六回ほど実施、パスすれば高卒と大学入学の資格がえられるようにする。高校は、高検準備の場として再生するだろう。やさしいとはいえ外部試験だから、気が抜けない。教員と生徒が協力して、目標にいどむ。そのほか、進学・就職など個々人の能力や需要に応じて、多様なコースやクラスを開く。行く手に高検があれば、小中学校でも授業に身が入ることだろう。
入試はなぜ有害か。それは、すべての受験生に、高校以下の内容で一点を争う競争試験を課すからだ。医師、科学者、新聞記者、プログラマー、法律家。それぞれの資質は別のものだ。大学は、専門教育の場である。競争は将来の専門である得意分野ですればよい。模擬試験の偏差値で、進む学科を決めるなどばかげている。大学入試は、適材を適所に配分できないのだ。
しかも、入るのが難しくて出るのが簡単では、学生はモラール(やる気)がわかない。これではアメリカと差が開くばかりだ。日本を経済大国に押し上げた画一的な教育は、いまや我が国の足かせになっている。大学入試の廃止を含む教育の大改革をすぐ始めないと、日本はこのままずるずるとだめになる。入試を廃止し奨学ローンを全面的に採用すれば、世代間の負担の公平と、数兆円にのぼる有効需要の創出が見込まれる。若い世代の人びとに将来への希望を与え、自己責任と選択の自由を与えるのは、大人世代の義務である。
日本再生の切り札が、教育改革だ。教育改革国民会議の答申は、生ぬるい。大学入試をなくさない改革は改革でない、と言いたい。
2001年(平成13年)1月23日(火曜日)
@教育改革の根幹は、教員のやる気を高めることである。やる気をそいでいるのは学校内の意思決定(統治)機能、教員の余裕、インセンティブ(誘因)という三つ面での「欠如」だ。
A意思決定機能の改善には、校内で教育改革派を重用し彼らの権限を高めるような方法の確立が、余裕拡大には企業退職者による補佐などが有効だ。Bインセンティブを高めるには、第三者機関の設置など、小中高校も含めた学校の評価体制確立が求められる。
3つの欠如がやる気をそぐ
世間ではよく「大学教授は三日やったらやめられない」と言うが、その理由は「収入はたいしたことはないが、なんと言っても気楽だ」ということにある。たしかに、仕事に対して誰(だれ)もあれこれ注文を付けないし、厳しい評価を受けることもない、という意味では、これほど気楽な商売はないかもしれない。
こういった見方の是非はともかく、教育改革を進める上でもっとも厄介な課題は「教員のやる気をどうやって高めるか」。「そのためにどのような評価の仕組みが必要か」という問題であろう。これは大なり小なり、初等教育から高等教育にまで共通した問題である。
問題はかなり複雑だが、次に述べる「三つの欠如」が重要だと考えられる。第一は「ガバナンス(統治)の欠如」、第二は「余裕の欠如」、第三は「インセンティブの欠如」である。
第一の「ガバナンスの欠如」は、学校内に適切な意思決定のメカニズムがないために、誰も本気で改革に取り組まないという問題である。日本の学校では、一部を除いて、全員賛成でないと何も決められないという体制が恒常化している。このため、熱意を持って改善案を出しても、一人でも反対すると議論はそこでストップし、前に進まない。
例えば、国立大学の改革が進まないことの最大の障害は「学部自治」という「現状維持を正当化する統治構造」にある。現在のガバナンスの下では、「何もしないこと」が教授にとって一番楽だから、内部から大きな改革の流れを創(つく)り出すのは難しい。
このようなガバナンスの構造を変えないと、教員のやる気を引き出すことはおそらく不可能である。例えば、教育改革に情熱を燃やす人を校長や学長に選ぶ方法論の確立や、彼らに予算決定権や、やる気のない教員の任免権を与えるといった改革が不可欠だろう。
第二の「余裕の欠如」は、教師に余りに多くの雑用があり、じっくりと教育に取り組む時間的、精神的余裕がないという問題である。日本の大学では、教育や研究を専門に行うべき教官が実に些細(ささい)な雑事に多大の時間を費やさざるを得ない。入試の監督や採点は言うに及ばず、様々な学内の行政的雑務が多くの教官を忙殺している。これでは手間のかかる教育に専念することは難しい。
小中および高校の教員はそれ以上に大変である。職員会議や家庭訪間、校門での見張り、服装チェック、クラブ活動の監督など、教室で過ごす時間はすべての業務の中の十分の一くらいの割合しか占めていないという。日本の教育現場で一番欠けているのは生徒と先生の個人的な「対話」である。「対話」があれば、日本の教育は飛躍的に改善できることは確実だが、こういった雑務で多忙を極めている教師に、四十人の生徒がひしめく教室で生徒と中身のある「対話」をせよと言っても、しょせん無理な相談である。
企業退職者に来てもらえば
こういった教師の雑務を大幅に削減する方法を二つ提案したい。
第一は、徹底的な学校の情報技術(IT)化である。基礎科目については、衛星による授業を全国の学校で一斉に取り入れる。それぞれの分野で最高の先生、教材も最高のものを用意する。あるいは、インターネットを活用した、習得スピードの異なる生徒への個別指導も検討すべきだ。学校内の業務効率化のためにもITを徹底的に活用し、業務を大幅に効率化する。
もう一つの提案は、企業からの退職者がこれからどんどん増えるが、彼らの中の有識者にクラスに来てもらうことである。この人たちは、教員免許はないが、社会の仕組みを熟知し、人生経験も豊富だから、教師の仕事を補完するという意味では大きな助けになるはずだ。「給料は要らないから、何とか社会の役に立ちたい」と考える退職者はきわめて多いのである。
こういった改革で、教員を超多忙の状態から救い出し、教育の現場に先生と生徒の「対話」を生み出すことがきわめて重要である。
最後は、「インセンティブの欠如」という問題だ。頑張ってすばらしい業績を上げた研究者も、何もしないで長年論文を書いたこともない人も処遇は変わらない。教育に情熱を傾け、学生たちからも尊敬され、人気の高い先生も、十年来の講義ノートを棒読みし、生徒に見向きもされない先生も同じ待遇ということでは教育はよくならない。
もちろん、金銭的な処遇だけで教育者のモチベーションが決まるわけではない。現に、現在のシステムでも研究や教育に情熱を燃やしている人はいるが、残念ながら、それは全体のごく一部に過ぎない。だから、何らかの評価とそれに連動した処遇の仕組みが学校にも必要なのである。
ただし、正確な評価は、多くの場合、難しい。大学研究者のように、第三者がレフェリーを務める学会誌が存在する場合は、それほど難しくはないかも知れないが、小中学校や高等学校の教師の業績を判定する基準は何なのか、きわめて難しいと言わざるを得ない。しかし、だからといって処遇を一律にすればモラルハザード(倫理の欠如)がまん延するのはこれまでの経験でも明らかだ。
一つの提案として、例えば、教育の質を監査する機関を設け、日本全国の小中高校の教育設備・授業内容・生徒の満足度を調査する。監査員は教育者だけでなく、産業界、シンクタンク、役人などから広く集める。インターネットで国民に対してその評価結果を公表し、一定水準以下の教育機関は、すべての教員、選ばれた生徒、保護者、地元住民を集めた対策委員会を設け、改善案を監査機関に提出するのである。
評判の良い学校や教員をネット上で表彰すればよい。また、問題のある教員には、給与の削減などでペナルティーを科す、というのはどうだろうか(この案は三和総合研究所、森川有理氏の助言に基づく)。
大学の評価は予算に反映を
別の案もある。東京・品川区が最近、小学校就学児童に対して複数の学校の中から行きたい学校を選択できる制度を導入したが、これは注目に値する。現時点では、各学校に十分な自由裁量権がないため、大きな成果が上がっているとは言えないが、もし、各学校に学校運営やカリキュラム決定などについて、現在よりももっと大きな自由度が与えられれば、多様な学校が生まれてくるだろう。
さらに、様々な工夫によって生徒を多数集めることに成功した学校では予算が増額され、それに失敗した学校は予算が削られるといった制度が確立できれば、それぞれの学校は父母にアピールできる魅力ある学校づくりに遷進(まいしん)するにちがいない。
教育の場に競争原理を導入することには批判的な意見が多いが、学校を活性化する上で一定の成果を上げる可能性は十分にある。
大学については、昨春、組織改編で第三者評価機関の大学評価・学位授与機構が発足した。第三者による評価制度がスタートしたこと自体は大いに評価すべきだが、この組織を私立大学の評価も含めることができるよう、拡充することが必要である。現時点では、国立大学が評価の対象で、しかも細かい分野ごとの評価は五年に一度程度しかできないというが、それではいかにも中途半端である。
重要なのは、評価をインターネット上で公表することに加え、評価結果を予算配分に反映させるということである。今のところ、評価結果は予算配分には反映されないようだが、せっかく評価したのなら、それを予算配分に活用するのは当然のことではなかろうか。
そうすれば、評価を上げるために各大学は懸命の努力をするようになるだろう。予算が潤沢になった大学はますます発展できるが、評価の低い大学は予算が減っていく。このような競争原理が働けば、日本の大学もさらに活気が出てくるはずだ。
「教員改革」は教育改革の根幹をなすものである。問題はきわめて複雑だが、もう先送りは許されない。日本の教育機関が様々な可能性を大胆に試行すべき段階に来ていることだけは間違いない。
ハーバード大博士。大阪大、一橋大教授を経て現職。三和総合研究所理事長
2001年(平成13年)1月24日(水曜日)
@二十一世紀に日本が活力を高めるには、科学技術の発展が欠かせず、その振興のために教育は重要である。
A大学の教養課程を改善し、今後さらに重要性を増す生命科学を中心に、科学の基礎知識を高める工夫を重ねつつ、小人数教育などを通じて真に独創的な人材も輩出していく必要がある。
B大学院改革も大切で、院生の視野を広げるべきだし、研究成果を産業、社会の発展にもっと役立たせるための関係者全員の意識改革も求められる。
興味を失わせる無味乾燥の暗記
二十一世紀の日本が、一定の経済成長力を維持して国民生活を守りながら、国際社会に貢献するには、科学技術の推進が何より重要であることは言うまでもない。今世紀、それは二十世紀以上に科学技術が高度に進歩する世紀になると予測される。情報技術(IT)、生命科学(ライフサイエンス)、超微細技術(ナノテクノロジー)、宇宙科学など今後発展すると考えられる分野は、いずれも高度な先端科学技術分野で、それらが産業経済、社会のけん引車になると考えられる。
世界の各国が、競って国家の研究への投資を増やしているのも、これらの分野が、絶えざる技術革新を必要としているからである。そして技術革新のために何よりも求められるもの、それは人材である。人材の育成、すなわち教育こそは、国家の将来を決める最大の要因となると言ってもよいであろう。
今年発足した総合科学技術会議は、間もなく二〇〇一年度以降の五年間を見通した科学技術基本計画を最終的に策定する。その中で大学改革も含めた科学教育の改善が強く主張されているのも、科学技術における人材育成の重要性を認識し、しかも日本の教育の現状に深刻な危機感を抱いているためである。
科学教育を論じる場合、二つの柱を考えねばならない。一つは、国民の科学知識の平均レベルを高めることであり、もう一つは、科学技術の革新を先導する、創造性のある人材の育成である。両者は同時に進むのが望ましいが、従来日本では前者が重視されてきた。その結果、平均値の高い人材によって日本の産業競争力は著しく高まったにもかかわらず、真に独創的な技術は開発されず、ノーベル賞の受賞者も少ないという結果を招いたと言えよう。
科学教育の革新にあたっては、この点に留意すべきである。もちろん、科学的な創造性を育てることが果たしてできるか否かには疑問もあり、できるとしてもその方法は明らかでないが、クリエーティブな人材を見いだして、その能力を伸ばす環境をつくることは可能であろう。この点は、とくに大学以降の教育研究環境の改革において、重要な課題である。
日本の初等・中等教育の最大の問題は、上級の学校に入るための受験戦争と、それに備えた中、高等学校の受験シフトであろう。この点は、大学入試でとくに大きい問題となる。大学入試も現在ではかなり多様化しているが、まだ基本的には試験による学力の判定が中心となっている。従って、この「学力」を高めるため、理科教育は、無味乾燥な暗記物になりがちで、生徒の興味を失わせる一つの要因となっている。
また、高校では早い時期から文系、理科系コースが分けられる。文科系では理科教育が軽視されがちだし、理科系については試験に有利な物理、化学が選択されることが多い。従って日本の大学生は、理科系であっても生物学の知識が著しく不足している。学問の融合が進み、学際領域が急速に広がりつつある現在、このような知識の欠落は大変人きい問題となる。
教養課程で磨く科学リテラシー
これを改善する方法は、大学の入学者選抜法の改善以外にないであろう。大学は特定の、それも限られた科目での点数を問題にするのではなく、広い基礎知識の有無を評価する方向に変えるべきである。理科系の学部であれば、物理、化学、生物など理科の広い分野で、一定の基礎知識があることが望まれる。
大学教育の改革はより大きい課題である。まず、日本では入学時に、学部のみならず学科まで決められることが多いが、十八歳かそこらで、人生のかなりの程度が決まってしまうのは大きな問題である。従って、学部単位で選抜し、在学中にコース分けをするか、転部、転科をより容易にするような改革が望まれる。
これに関連して、日本の大学は専門教育重視に傾きがちである。しかし、大学院への進学者が増加した現在、学部教育では広い基礎知識の習得をめざすべきである。まず、文科系の学生でも自然科学の知識は必要であろう。
とくに科学技術が一層進むと考えられる今世紀には、どのような職業であっても、また社会で生活をしていく上にも、科学の基礎知識、いわば「科学リテラシー(読み書き能力)」が必要となる。このリテラシーを学ぶのは、大学の教養教育が最適であろう。科学への関心を待ち続ける基礎を大学の間に養ってほしい。
理科系の学生は、もちろんより広い科学の知識を学ばねばならない。私は、すべての学生が生命科学を学ぶべきであると考えている。二十一世紀は「生命科学の世紀」であるといわれるように、今後、生命科学が爆発的に進歩することは疑いがない。従って生命科学とは無縁と考えられる分野でも、様々な接点が生じ、新しい融合領域が生まれてくる。
例えば生命情報学(バイオインフォマテイクス)はゲノム(全遺伝情報)、たんぱく質などの研究によって生まれる膨大な情報を処理するだけでなく、生命体を一つの情報システムとして理解する新しい領域であり、情報学と生命科学の知識が必要である。また生命体の基本原理は、今後工学に様々な形で応用されると考えられる。工学や物理、数学などを専攻する学生が生命科学を学ぶ必要性は、今後一層強まるであろう。
従来の日本の大学教育の問題点は、知識の伝授が中心だったことである。そのために学生は、教えられたことをすべて鵜呑(うの)みにして真実と考え、疑問を持たなくなってしまう。それは独創性の芽を摘む教育法であると言わねばならない。
重要なのは、学生に自ら学び、自ら考えて知識を獲得する方法、すなわち学ぶ方法を学ばせることである。「自発自得」の教育と言ってよいであろう。そのためには、自習を大幅に取り入れた小人数教育を導入することが望ましいが、教員数から考えて直ちに実施しにくい面もあるかも知れない。しかし、様々な工夫によって学生に、自ら学ぶ技法を身につけさせることは可能であろう。創造性を育てる環境をつくる一つの方法である。
大学院は研究の成果を世の中に
大学院教育の改革も、もう一つの大きな課題である。日本の大学院、とくに博士課程は研究が中心で、そのために、知識の範囲が狭くなりがちである。学問の変化が極めて激しくなると予想される今世紀の研究者を育てるためには、研究能力に加えて、広い視野を持つことができるよう教育しなければならない。大学院学生を、単なる研究労働者としてはならないのであって、未来の日本を、あるいは世界を支える人材を育成するという気持ちを、大学教員は持つべきである。
加えて、大学院生に、他大学や他の研究機関で勉強する機会をできるだけ与えるべきである。他流試合によって学生は、新しい自己開発の機会を得、大きく成長することが期待される。
日本の大学院は、もともと研究者育成を目的としたものであった。しかし、時代の変化と進学者の増加によって、専門職業人の育成という要素も大きくなっている。個々の大学院は教育の目標を明確にし、それに従った課程を編成すべきである。研究の成果を、産業や社会に生かす人材の育成も、大学院の一つの課題とすべきであろう。
それによって応用、開発研究に興味を抱く人口が増加し、起業家も育成されるものと期待される。産学協力を推進するには、大学のシステムの改革と並行して、大学人の意識の変革を進めなければならない。
今世紀、グローバリゼーションが一層進むことは疑いがない。そうした世紀に日本が国際的な競争力を維持するためには、教育のレベルを向上し、研究開発力を増し、研究の成果を産業や社会に生かして行く努力をしなければならない。
そのすべてを支えるものは人材であり、人材の育成、すなわち教育こそは二十一世紀の初頭にあたって、何よりも重視しなければならないテーマである。
31年生まれ。京都大臣卒、同博士課程修了。91-97年京大学長。今月、政府の総合科学技術会議議員に
このシリーズおわり