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現代しつけ考


現代しつけ考1

「好きなことは一生懸命やるが、いやなことは絶対しない」「口は達者だが食事や着替えが一人ではできない」「入学直前というのにイスに座っていられない」、最近、特にそうした子供が目につく。
身の回りのこと(食事、トイレ、着脱衣、片づけ、あいさつなど)をする、必要最小限のきまりを守る、この二つは、当たり前の、基本的な生活習慣である。そして、このような基本的なことは、幼児期に身に付けなければならないことである。それなのにわが国では、「基本的生活習慣を身に付け自らの意思と社会規範を守る態度を育てること」が中学校学習指導要領の第一の目標に挙げられてい る。ここにわが国の教育の悲劇があるといえないだろうか。
なぜ、このような基本的なことが中学生でもできないのか。答えは簡単である。幼少期にしつけがきちんとされていないからである。
いま子供たちが荒れている。無気力、キレる、ナイフなどによる殺害事件、不登校、援助交際、麻薬など、いままでとは様相の異なる現象が多発している。そうなったのはなぜか。教育制度、受験体制、価値観の多様化、生きがいの喪失、大人社会の反映……それらすべてが関係しているのであろう。だから、それらの問題の解決は急務である。しかし、それらの解決の前にすべきことがある。それは、人間にとって「当たり前の、最も基本的なこと」を子供たちに身に付けさせることである。ナイフ持参防止のための持ち物検査のような、モグラたたき的対応では問題の真の解決はできない。 「心の教育」とか「幼児期からの家庭教育の重要性」が文部省中央教育審議会でも取りあげられることとなった。「いまさら」「ようやく」の感もなくはないが、モグラたたき的対応から一歩踏み込んでいると評価はできる。しかし、具体的にどうするかが問題である。「思いやりのこころをもちましょう」というようなお説教ではダメである。当たり前の、基本的なことをいかに身に付けさせるか、それが問題解決の始まりである。
(筑波大学敦授  杉原 一昭)1998/4/3/金 夕刊

しつけ2

ある市の幼稚園の園長先生たちの研究会で、園長さんの一人が「最近の子供たちは幼稚園ではきまりを守れるのに、迎えにきたお母さんのもとに行ったとたん、無法状態になる」ことを話題とした。
子供たちが母親のもとに行くと、大声で叫ぷ、母親を打つ、塀に登るなど、幼稚園でのきまりや約束ごとを守らなくなるという。他の園長さんたちも全員、「そうそう」とうなずいていた。
また、最近あるカウンセラーの方から聞いた語であるが、小学校入学直前の子供のことで母親が相談に見えた。
相談内容は「落ち着きがなく、イスに座っていられない。どうしたらいいのでしょうか」であった。事実、何か話そう としても、じっと座っていることができず、チョロチョロ歩き回る。そこで、無理に座らせようとしたら、「そのような強制は子供の個性をゆがめるからやめてください」といわれたそうである。座るべきときに座るようにいったり、させたりすることは当たり前のことで、強制という大げさなことではない。親は「個性」といっているが、ただ野放図な”野生”としか思えない場合が多い。
「伸び伸びと育てたい」とよく聞くが、わがままや野放図でいいということではない。自分の行動をきちんと律することや約束ごとを守ることができ、その上で自由に振る舞える。これが真の「伸び伸びと」ではないだろうか。このように子供が育っていない理由の一つは、適切なしつけがなされていないことにある。
しつけは押し付けだから子供の個性をゆがめるという考えはかなり一般的にある。これはとんでもない誤解、曲解である。しつけは「躾」という和字が当てられるように、身を美しくするものである。もともと日常生活での行儀作法や生活習慣の型を身に付けさせることをしつけというのだ。
机にきちんと座る、静かに待つ、すべて型である。現代はスタイル(型)喪失時代だという。子育てでも型を見直すべきときがきたといえそうである。
(筑波大学教授  杉原 一昭)
1998/4/10/金 夕刊

しつけ考3

幼稚園で長年、教頭という立場で幼児とその母親たちとかかわってきたが、ここ十年ぐらいで幼児や母親が質的に大きく変化してきたと実感している。
私が幼稚園の先生になりたてのころは、「お母さん」といえば、落ち着いた、やさしい、温かい、地味といった印象であった。しかし最近は、活発で、派手やかなお母さん方が目立つようになってきた。同様に、活発で、利発そうな子供が多くなってきている。その背景には、情報化社会の進展、高学歴化、女性の社会進出、物質的豊かさなどさまざまな要因があると思われる。
このようなお母さんや子供の質的変化に伴い、以前には見られなかったような問題も多く出てきた。そこで、現在の幼児の家庭での生活やしつけの実態を把握し、保育に役立てるために「幼児生活調査」を実施したことがあった。その結果、一つの大きな特徴が見いだされた。お母さん方が「手抜き派」と「手作り派」の二つのタイブに分かれたのである。
手抜き派の特徴は、おやつは主にスナック菓子、絵本の読み聞かせはしない、遅寝遅起き、などである。手作り派は、おやつは栄養のバランスを考えて手作りのクッキーやケーキ、絵本の読み聞かせは毎日、生活を厳格にコントロールする、などが特徴であった。
そして、手抜き派の母親の子供たちは、落ち着きがなく、粗暴なタイプが多く、手作り派の子供たちは、神経質で、なんでも聞いてからでないと行動に移せない依存的なタイプが多かった。
一見すると、手抜き派が悪く、手作り派がよいようにみえるが、そうとも簡単には言い切れない。手抜き派は、親の生活が中心で、子供に目を向けていない「放任タイプ」である。手作り派は、逆に子供の一挙手一投足に口出しする「過保護・過干渉タイプ」である。どちらも極端すぎるのである。
ものの豊かさや情報過多の中で、お母さんたちはしつけに必要なことは何かがわからなくなっているのではないかという気がする。子供もお母さんも、もっとバランスよく生きていくことはできないのだろうか。(元幼稚園教頭  冨田 ひさえ)1998/3/17/金

しつけ考4

ある夏のキャンプでのこと。体重が百キロもあろうかという学生が、野菜が食べられない食事中の幼稚園児を前にして、根気強く「食べなさい」「がんばれ」と励ましていた。食事ごとにそうするので、なぜそんなに食べさせようとしているのか尋ねたところ、「自分の幼稚園時代の姿をみているようで、ぼくの苦労を味わわせたくないので、いま、この子を食べられる子にしてあげたいのです」と言っていた。自分は小学校時代、ずっと偏食に苦しんで、「なぜちゃんと食べられるようにしてくれなかったのか」1なぜきちんとしつけてくれなかったのか」と、親を恨んだそうだ。
この言葉は家庭内暴力児がよく口にする叫びー「てめえらの育て方が悪かったんだ!」と同じだ。この学生は六年生のとき「このままではダメな人間になってしまう」と一念発起して、何でも食べるように死に物狂いの努力をした。彼の場合はそれだけのパワーがあったからうまくいったが、普通は「ぼくには食べられないものがある」「できないことがある」という気持ちを抱きながら年を重ねていく。
そうなると、アイデンティティー理論の創始者、エリクソンのいう、自分の言動や感情を自ら律することができるという「自律性」が育たず、自分にはできないことがあるという「恥」や、。そのような能力がないのではないかという「疑惑」が漸成されてしまう。そして、自分自身を価値ある重要なものと感じる「自尊心」や、やればなんとかできるという「有能感」が身につかないまま成長することになる。
わが国の子供たちの最大の問題は何かといえば、人間にとって最も重要な資質である自尊心や有能感が育っていないことにある。これらの資質は子供のいろいろな生活場面で身につくものだが、しつけによる生活習慣の自立から始まるのだ。
しつけは親や先生などの大人のためにするのではない。子供目身がこれからの人生で胸を張って生きていけるようにするためにしつけるのである。(筑波大学教授 杉原 一昭)1998/4/24/金

しつけ考980501

最悪の状態で出産した母親がいた。娃娠中に夫との離婚騒動があり、早期破水で月を満たずに出産した。母子とも一命は取り留めたが子供に少し障書が残った。
一年ぐらいたってから電話があった。そのお母さんの声は明るく、いきいきとしていた。「毎日が楽しくてしょうがないんです。この子がきょうはなにができるようになるかを考えると毎朝ワクワクするんです。この子は神様が私にくださった贈り物だと感謝しています」と話していた。子育てを心から楽しんでいるようだった。
最近の研究によると、母親の気持ちが赤ちゃんに伝わり、母親の精神状態が子供に強い影響を与えていることが明らかにされている。生後すぐに母親のにおいや声を識別し、母親から受け入れられているかどうかも赤ちゃんには分かるようだ。親に心からいとおしく思われ、心から受け入れられて愛されている安心感に包まれている。こういうとき子供は母親に(エリクソンのいう)基本的信頼をおくことができるのだ。これが基礎になければしつけはうまくいかない。
そのためには第一に母親が子育てを楽しめるようにすることが重要になる。子育てを楽しむには、子供の成長を楽しむことである。まだうちの子はあれができない、これができないとマイナス点を列挙するのではなく、これができるようになった、こんなしぐさをしたとプラスのことを取り上げるようにすればよい。
他の子供と比較したり育児書の標準と比べ一喜一憂するのではなく、まず子供のすべてを受け止めることから始まる。先の母親の素晴らしいところはそこにある。障害のある子の場合は特に他者との比較は全く意味がない。その子が進歩していればいいのだ。でもこの見方は障害のない子でも、もっと年長の子供でも大切である。他人との比較をする個人間評価ではなく、一人一人がどれだけ伸びたかを正当に評価する個人内評価が重要なのだ。母親が生活に疲れ、いきいきとしていなけれぱ子供もいきいきしない。そして母親が充実した生活を送るためには夫のサポートがなによりも必要になる。
(筑波大学教授  杉原 一昭)
1998/5/1/金

しつけ考980508

一般的に、幼児期にみられるアンバランスな育ちは、身体運動的・知的・情緒的な発達上の問題や障害が絡んでいることが多い。例えば、身体的な発達や運動能力はおおむね同年代の子供と変わらないのに、ことばが全く話せないという、言語に問題や障害をもっている子、他の面では普通なのに他の人と感情交流ができないという情緒に問題や障害のある子、などである。
ところが、最近になってそのような明確な問題や障害がないのに、当然その年齢でできてよいこどができない子供に出会うことが多くなった。
三歳児のA子は三年保育で入園してきた。とても活発で、跳んだり走ったりといった運動が大好きで、五−六歳並みのことばを使い、知的にも順調に発達しているようにみえる。しかし、いつも紙おむつをして登園し、ぬれると自分で替えの紙おむつを先生に差し出したりする。また、六歳児のB男は他の面では普通の六歳児と同じようにできるのに、箸(はし)が全く使えない、いや使おうとさえしない。このように、今の子供の中にはある能力やスキルがストーンと欠落している子がいる。とても不思議で、「この子がどうして?」と思わず言ってしまう。
このようなアンバランスな自立はなぜ起こるのか。明確な発達上の問題や障害がなければ、多少の個人差はあるものの、このように極端な偏った発達はしないのが普通だ。子供は自分が生きていく上で必要な能力やスキルを極めて自然に身に付けていくからである。つまり、これらの極端にアンバランスな自立は子供の不自然な生活環境、とりわけ親のしつけ状況に起因していると思われる。個性尊重の美名のもとに手を抜いたり、親の都合を最優先させていないだろうか。いつまでも紙おむつを使っていれば面倒なトイレットトレーニングをしなくていいし、やっかいな箸ではなくスプーンで食べさせていればこぼすことも少なく好都合だ。
しつけには時間と手間がかかるものだ。それを省くことは親にはよくても、社会に出て実際に困っているのは子供たちなのである。
(元幼稚園教頭 冨田ひさえ)98/05/08/金

しつけ考7

「友だちから”鬼のような母親だ”といわれたが、私は間連っていたのでしょうか」とある母親が腑(ふ)に落ちない様子で聞いてきた。
話はこうだ。あるレストランで幼児を連れた友だち数人と食事をした。その母親はレストランでは静かにして、席を立ったり走り回ったりしないようにと子供に約束させた。ところが、食事の途中で走り始め、そのお母さんの五歳の子が転んで、テーブルで頭を打った。「それごらんなさい。走ってはいけないといったでしょう!」と叱(しか)ったところ、他のお母さんたちから「何ていうことをいうのか。こういうときは子供を抱きしめて”痛かったでしょう”と慰めてやるべきよ。あなたは鬼のようだ」といわれたという。
「私は間連っていたのでしょうか」の問いに、私は「あなたのやり方が正しい」と彼女を励ました。
やってはいけないと注意されていたことをやったために、またはやりなさいといわれたのにやらなかったために本人が被った困難の責任は、重大な結果にならない限り、本人(子供)に負わせるべきである。傘を持っていくことを忠告された小学生が「いいもん」と持っていかず、下校時に雨が降ってきたらぬれて帰させるべきだ。
ただし、責任を取るべきだと叱って、それで母子関係が壊れてしまう恐れがあるときにはしっかりと抱きしめて慰めることが必要かもしれない。そういう母子間にはしっかりとした心のきずな(アタッチメント)ができていない、あるいはその自信がなかったのであろう。
鬼みたいといわれたお母さんは、叱っても子供とのきずなが揺るぐことはないという確信があったのだ。他のお母さんたちも抱きしめただけで終わってはならない。「痛かったでしょう。でもここで走っではいけない」と、きちんと禁(いさ)めるべきだ。そうでないと、泣けば許されることが身に付くだけで、「わざと泣き」をする子になってしまう。いま、そういう子がいかに多いことか。
抱きしめるべきか叱るべきか、正しい道の選択を誤ると子供は正しく育たない。子供へのへつらいやご機嫌取りには子供は敏感であり、道理をわきまえない親から道理のある子は育たない。
(筑波大学教授  杉原 一昭)1998/5/15/金

しつけ考8

ある四歳男児の描いた一枚の家族画がある。「家にだれがいるか、思い出して描いてごらん」といって描いてもらったものだ。たいていは母親を中心に、自分をその隣へ、きょうだいがいると余白に描く。次に父親は黒丸二つで片付けられることもある。表に描けないと裏に描いてあったりする。
ところが先ほどの子の絵にはどこにも父親が見あたらない。母子家庭だったらと思いながら、「パパは?」と小声で聞くと、その子はびっくりしたように「あっ、パパも家の人か!」と叫んだ。
なぜ家族画から父親が消えたのか。朝、子供の寝ている間に出勤し、子供の就寝後に帰宅するような生活で、父子の接触時間の少ないことも影響しているであろう。それと同時に、日曜日にゴルフから疲れて帰ってきたパパの姿しか印象にない子が「パパの仕事は?」との問いに「ゴルフ」と答えていたが、父親の働く姿をイメージできない存在感のなさにも問題がある。父親自身が自分の仕事について具体的に子供に知らせる工夫をすべきで、文部省やある会社で実施しているように、年一回親の職場へ子供を招待する試みなどは最も効果的なやり方かもしれない。
接触時間が少ないというだけの問題ではなく、子供に映った父親像の中身が問題なのだ。しつけには、子供を包み込む母性(愛)だけではなく、時には断ち切ることもある父性(規律)の両方が必要だ。しかし、その両方の役割をいまはほとんど母親が担っている。父親が子供の前に立ちはだかり、正義とは何かを諭したり、ややもすると感情に流されやすい母親の非を糺(ただ)したり、生き生きと人生を楽しんでいる姿を示したりしなければ、子供に強力な父親像は形成されない。
ドイツの精神分析学者、A・ミッチャーリヒが父親像の喪失した現代社会を「父親なき社会」と特徴づけたのは一九七二年であった。それから四半世紀がたって、母親以上に優しいパパはいても、あるべき行動の原理・原則を体現する1父親」は少なくなったようだ。
(筑波大学教授  杉原 一昭)1998/5/22/金


現代しつけ考9

幼稚園の入園式からもうすぐニカ月が経過しようとしている。新入園児たちも、ようやく落ち着いて幼稚園生活を楽しめるようになる時期だ。しかし、中にはなかなか園の生活になじめない子もいる。それは、生活習慣が自立できていない子供に多い。入園時の親の心構えや具体的な準備については、入園前に幼権園側添ら説明されるのが普通である。子供側の準備として、「人でトイレに行ける」「自分で衣服が着脱できる」「自分で食事ができる」などの基本的な生活習慣を身に付けておくように指導している。しかし、いざ入園してくると、自分だけでは衣服の着脱ができない子がほとんどだし、幼稚園のトイレに行けない子がクラスに一人以上はいる。四歳児でも、ボタンを一人ではめられない子供が圧倒的に多い。そのうえ、いくら家庭でしつけてくれるようにお願いしても、改善されることはあまりない。自分でやろうとせず、先生がやってくれるのを待っている子供が、年々増えている。
どうして、自立していない、あるいは自分でやろうとしない子供たちが、増えてしまったのか。最近の子供たちの着でいる服は実におしゃれで、大人顔負けである。でも、子供自身で脱いだり着たりするするのはかなり難しいデザイン、(うしろにボタンなど)のものも少なくない。
子供におしゃれをさせることは別に悪いことではない。しかし、幼児期には幼児に必要な成長・発達をさせることの方がずっと重要である。この時期の子供たちは何でも自分でやってみたがる。自分で服を着る、自分で食事をする、一人でトイレに行くなどという、具体的な生活体験を通して、試行錯誤を繰り返しながら、自分でできたどいう成就感・成功感を味わい、次第に自立していく。だからこそ、幼児期はしつけに絶好の時期なのだ。
親がこの時期にすべきことは、子供におしゃれな服を着せることではない。親の趣味や好みで子育てをするのではなく、子供の立場に立って、子供自身でできそうな環境を準備して、整備し、子供の自立を促していく。これが育児・しつけで大切なことである。
(元幼稚園教頭 冨田ひさえ)1998/5/29/金


現代しつけ考10

電車の中で、五歳くらいの男の子が電車の窓ガラスをペロリとなめるのを目撃した。その母親は「ダメ!そのガラス、消毒液が残っているかもしれないから」といっていた。子供の行動を禁止したり促したり、しかったり褒めたりするとき、その理由を説明しなければならないと思っている人が多い。そう書いてある育児書もある。
しかし、いちいち理由なんかいう必要がない、あるいはいうべきではないことも結構ある。食事のとき「栄養があるから」「病気にならないように」「お母さんがうれしいから」食べなさいという必要はない。「食べ物だから食べなさい」でいい。年少であればあるほど理由などいう必要はない。
なぜか。まず、子供に理由がよく理解できないということがある。食事と栄養・健康の関係の理解には医学的知識が必要かもしれない。ましてや誤った、あるいは不適切な理由をいうべきではない。「消毒液が残っている」から窓ガラスをなめてはいけないのではなく「ガラスが不潔になり他人に不快な思いをさせる」からそうしてはいけないはずだ。「お母さんがうれしい」から食事をするのだとしたら、お母さんのために食べてあげるということになる。ひいては宿題も勉強もお母さんのためにやってあげると考えるようになるかもしれない。誤った、あるいは不適切な理由をいうことの弊害がここにある。
子育ての日米比較研究によると、日本の親の方が子供に理由を述べることが多く、しかもしばしば情緒的理由(うれしい、悲しい)をいうことが多いようだ。「ダメはダメ」ということをストレートに子供に伝えさえすればいいことがたくさんある。世の中には、理由などわからなくてもやらなければならないことや、やってはいけないことがあることを、大人は自信を持って子供たちに示すべきだ。人間には自分の性や家族や親などのように自分で選択できないこともある。生きていくためには、このような実存的矛盾とでも呼ぶべき「しょうがないこと」があることを人生の早い時期に刻み込んでおくことは大切なことであると思う。
(筑波大学教授  杉原 一昭)
1998/6/5/金

現代しつけ考11

ある親子のサークルのハイキングで、幼児十五人くらいと父親五人の綱引きが行われた。お母さんたちや、ほかの子供たちの応援もむなしく、父親組が勝ってしまった。子供たちはがっかりしたが、その中の一人の男児が父親に「どうして負けてくれなかったのか」といつまでも泣きながら、抗議していた。それに対し父親は「ごめんごめん」となだめ、しきりに謝っていた、負けて悔しがるまでは分かる。でも「なぜ負けてくれなかったか」という子供の大泣きと、「ごめん」という父親の謝罪は理解に苦しむ。
父親の方が子供たちより力持ちで、たとえハンディをつけても子供が負けたのは事実である。やる気や興味をもたせるために、戦略的にわざと子供が勝つようにすることはあっていい。でも、それを子供から要求される筋合いはないし、ましてや親が謝るなど言語道断だ。これは文字通りの綱引きであるが、三歳ごろには「あれ買って=ダメ」「食べなさい=いやだ」などと、親子間で心理的な綱引きをすることがよくある。
そのとき、ある決定的なことで、少なくとも一度は親が勝つことがなければならない。「パパがいったんダメといったらダメなんだ」ということを体験させることが必要だからだ。
赤ちゃんのときから子供は、自分はなんでもできるし、思い通りにことが運ぶと思っている。そういう感覚を子供の全能感というが、それをある時点でぶち壌すことが必要である。全能感の破壌がないと、子供は世の中なんでも自分の思い通りになると考える「小皇帝」になってしまう。
中国の一人っ子政策の結果、わがまま・自分勝手・傲慢(こうまん)さをもった子供たちが増えたといわれる。そういう子供たちを「小皇帝」と呼んだのであるが、自我が芽生え始める三歳ころの子供との綱引きで親が勝ち、全能感を崩しておかないと、子供は小皇帝のまま大きくなってしまう。だから、三歳児のころ、親は子供と綱引きをやり、子供に勝つことも必要なのだ。
(筑波大学教授  杉原 一昭)
1998/6/15/月

私的な考えであるが、日本では十年前よりこの状態にあり、最近とみに顕著になっている。渡しは、これを「小さな王様」と呼んできた。いまや、教室中、小さな王様でいっぱいになっている。1998/6/17/水 TK


現代しつけ考12

私には二人の息子がいる。彼らが保育園に通っていたころ、「男の子なんだから転んだくらいで泣かないの」などと、転んで痛がっている子を前に「男らしさ」のしつけをしていたことを思い出す。
男らしさ、女らしさといった性差を強調するしつけは好ましくないといわれてしまうかもしれないが、性差はともかくとして、たくましく生きていけるようになってほしいというのは親心というものであろう。当時、転んだくらいの時はちょっと待って、子供が自分で起き上がるのを周りの大人は見守っていたものだ。
しかし、最近の幼稚園児の多くは生活力がないというかひ弱というか、転んでもただ泣くだけで、自分で起き上がろうともしない。擦りむいても薬をつけるほどではなく、少し白っぽく皮膚の色が変化しただけなのに、大騒ぎをする。
私が勤務していた幼稚園は職員室が保健室を兼ねていたので、子供たちの傷の手当ではほとんど私が担当していた。一日に何人くるかわからないほど大勢の子供がやってきて、薬をつけてほしいと要求していた。小さなささくれひとつでも傷バンソウコウ、ちょっと目にごみが入っただけで目薬というように、ささいなことでも薬を要求するのである。
確かに薬の進歩で人間は様々な病気から逃れられるようになった。しかし、今の子供たちのように薬に依存しすぎると、人間が本来持っている自然治癒力を低下させる危険性がある。薬好きな子供たちの増加は薬依存の大人社会の反映ではないだろうか。
転べば確かに痛いし、ケガをすればなおさら痛い。しかし、その痛さや傷にすぐふたをするように薬に頼っていると、薬なしには生きていけない人間になってしまう恐れがある。だから、すぐに薬に頼るのではなく、放っておいて自然に治る力を甦(よみがえ)らせることも必要になるのである。
子供に手をかけて育てることは大切だが、手をかけすぎ過保護になっては子供の成長の芽を摘むことになる。生きる力を育てることとは、成長の芽を育(はぐく)み、生きる知恵を身につけさせていくことだと思う。
(元幼稚園教頭  冨田 ひさえ)
1998/6/19/金 夕刊

しつけ考13

その五歳の女児は自分の家のトイレしか使えないので、今まで幼稚園で一慶もトイレを使ったことがなかった。その子は一人っ子で、教育熱心な專業主婦の母親によって、幼権園に入るまではほとんど家庭の中だけで育てられた。
最近、小学生の中には友達の家に遊びに行ってもその家のトイレを使えないし、誘われても食事を食べることもその家のふろに入ることもできない子供が増えているという。また、学校給食は食べるが、林間学校で食事をとることができないので、行った日の夕食は母親が作った弁当で食事をとり、次の日の朝食、昼食は菓子類で済ます子供もいるようだ。
よそのトイレよりわが家のトイレの方が快適で安心できるし、食事やふろも自分の家が一番と感じるのはだれでも同じであろう。でも、多少の不潔感があってもよそのトイレが使える、最適ではなくても友達の家で食事や入浴ができるようになることは重要だ。それらができないというのは子供に生命力やたくましさが不足している証(あかし)となるのではないだろうか。
なぜそうなるのか。おそらく自分の家という密室の母子二人だけの環境の中で、家が一番という母親の価値観のもとで子育てが行われているためではと思われる。社会化されていない中で育てられると、子供の社会化も進まないようだ。
ここで挙げた例は、トイレ・食事・入浴という最も基本的な生活習慣が社会化の第一歩の形でさえ行われていないという点で、今の子供たちの特徴を象徴的に示しているといえるかも知れない。
そうならないためのやり方は簡単である。子育てを家庭という密室の中だけで行うのではなく、社会化すればよい。例えば、恐怖症の行動修正の技法である行動療法の系統的脱感作(だっかんさ)というやり方を用い、抵抗の少ないところから徐々に慣れさせていく。トイレの例では、親せきの家、ホテル、デバート、幼稚園のトイレというように進めていくのである。
このようにして、子育てを社会化して、自分の家の中でしか生活できない子供ではなく、社会の中で生きていける、たくましい子供に育てることが大切だ。
(筑波大学教授  杉原 一昭)
1998/6/26/金

しつけ考14

海外赴任の夫を追ってロンドンにいく母親の相談を受けた。海外生活に不安を特っていたその母親はあと十日に迫った渡英が心配でたまらないという。母親自身の生活上の心配もあるが、四歳の息子の子育てがうまくできるか自信がない。子供は向こうの幼権園でうまくできるか、帰国して入る学校はあるか、いじめにあったらどうしようか、と心配の種は尽きないようだ。ことごとくネガティブに考えるこの母親は体調を崩し、午後には発熱して毎日寝込んでいる状態であった。
そこで、ものごとは大体はうまくいくもので、特に子供は幼稚園ですぐに慣れるであろうし、ことばの面も親より早く適応できることを具体的に話した。また、帰国後のことなどは何とかなるので今は考える必要がないこと、帰国してから日本語での苦労を少なくするために日本の絵本を持参すること、などをアドバイスした。最後は元気になり、「よく分かりました」と帰っていった。その日から体調も良くなり寝込むこともなくなったと後日連絡が来た。
「それでも人は楽天的な方がいい」の著者のアメリカの心理学者、S・E・テイラーは、ポジティブ・イリュージョン(前向きの幻想)を持った人は心身ともに健康で、創造的、生産的で、自己成長し、思いやりの心を特つといっている。そういう人に育てられた子供も同じようになり、自分への自信や自尊感情を持てるようになるようだ。
先ほどの心配性のママの影響を強く受けた四歳の子は、何かやる前に失敗を恐れ手を出さないところがあった。そうした子供への斌応では、失敗したときの注意の仕方に気をつけなければならないが、その前に母親がポジティブ・イリュージョンを持って子供に接することが大切で、そうすれば子供も失敗を恐れずいろいろなことに挑戦するようになる。
とかく子育てに熱心だと、何でもネガティブに考えがちになり、育児不安に陥ったりする。そうならないためには、ものごとはたいていうまくいくんだというポジティブ・イリュージョンを持つことが大切だ。
(筑波大学教授  杉原 一昭)1998/7/3/金

しつけ考15

幼稚園では、帰宅の時間が近づくと、年長組(五歳児)の子供たちのほとんどが「○○ちゃん、今日は一緒に遊べる?」「おうちに帰ってからお母さんに聞いて、電話するね!」といった具合に帰宅後の約束をしている。しかし、一緒に遊ぶ約束ならまだしも、最近は「今日はスイミング、一緒に行こうね」とか「私は今日、算数のお勉強の塾だから遊べないわ」など、おけいこ事を中心とした約束や予定の調整の会話を聞くことが多くなってきた。主なものはスイミングスクール、体操教室、空手、剣道といった運動を目的としたもの、英語・算数・習字教室などの勉強を目的としたものと、多種多様である。子供の中にはいくつかのおけいこ事を掛け持ちしている子もおり、結構忙しいようだ。
子供たちに「スイミング楽しい?」と聞くと、「スイミングに行くと、お友達たくさんいるんだもん」といった答えが返ってくる。どうも、ほとんどの友達がおけいこ事をしているので、そこに行かなければ友達とは一緒に遊べないという状況らしい。年長児になるとこの傾向が強まるようだ。
あと一年で小学校入学と思うと何かしないと遅れてしまう、せめてみんなと同じぐらいの能力は身に付けさせでおきたいという親心は理解できないわけではない。しかし、本来、家庭で見てあげなければならないことを各種の専門家に任せてそれで十分な子育てをしていると満足してはいけないと思う。体操教室に通っただけでは運動能力や体力は身に付かない。週一回一時間の間にやる運動などはごくわずかであろう。だから、それ以外の生活の仕方が問題になる。教室で身に付けたことを公園で遊ぴの中で試してみるとか、乗り物を控えて歩くとか、エレベーターではなく階段を上り下りするとかを心掛けることが大切だ。
さらに、おけいこ事と違って目的や成果が明確には見えない子供の遊びこそ、多くの能力を育てていることを忘れてはならない。遊ぴの中で子供は全身を使い、今までの経験や知識をフル回転させている。もっと子供の自然な遊びを大切にしてほしいものである。
(元幼稚園教頭 富田 ひさえ)1998/7/10/金

しつけ考16

幼稚園の年中組(四歳児クラス)でかくれんぼをすることになった。ルール(やり方)の簡単な説明の後、オニが決まり、みな思い思いのところに隠れたが、一人の男児がモタモタして隠れようとしない。そこで先生が「早く隠れたら」と促すと、その子は「どこへ隠れればいいの」と尋ねた。この子は「こうしなさい、ああしなさい」といわれると、たいていのことはできる。しかし、一人っ子のこの子は、過保護・過干渉の母親から「次に何をやればいいか」細かいところまでいちいちいわれ、そのとおりにしかできない子供になってしまったようだ。
実際、この子は幼稚園の自由遊びの時間では全く遊ぷことができずに、ただポツンと友だちの遊びをみていることが多い。「遊んだら」というと「どうやって遊べばいいの」と指示を仰ぐ。
少子化が進み、母親の目が子供に集中し、母親の要求どおりに育っている子供は結構多い。母親の望む理想の子供に育っているようにみえる。しかし、小学生になっても休み時間に「お手洗いにいってもいいですか」「遊んでもいいですか」といちいち許可をもらわないと行動できない子供になっている。その傾向が強いと、大人になっても「いわれたことはできるが、自分で仕事をみつけることができない」「自己決定ができない」人間になってしまう。
指示待ち族とかマニュアル人間と呼ばれる大人は、小さいときのこのような育ちからきているのかもしれない。このような人はルーティーン・ワークはじょうずにこなずが、そこをはずれた仕事だとうまくこなせない。自主、自立の精神が育っていないからだ。
指示待ち族、マニュアル人間にしないようにするにはどうしたらよいか。子供が小さいときから、年齢に応じて「ああしなさい、こうしなさい」という大人の口出しを少なくすることである。どうするのかを子供にまかせ、やらせてみる。そのとき、うまくいかなかったり、矢敗したりするかもしれないし、子供が親の思惑どおりに行動しないかもしれない。それでも、子供に口出しするのではなく温かく見守ることが大切なのだ。
(筑波犬学教授  杉原 一昭)
1998/7/17/金

しつけ考17

いままでは「これで遊ぼう」「この服を着ましょう」などといった母親のいうことをよくきいていて大変素直だった三歳の長男が、最近は「いや!」「これがいい」などと拒絶したり、母親のいうことと違うことを主張するようになったと嘆いている母親がいた。なんか育てにくくなったし、子供が素直じゃなくなったみたいで心配だという。実はこの年齢の子供を持つ親の心配の一つとしてこの類(たぐい)の悩みの相談を受けることが多い。でも、これは子供が順調に発達している証拠で、大いに喜ぶべきことなのだ。そのような拒絶や不従順は、子供が親への依存から脱し、自立・独立の第一歩を歩みだしたこと、親のいうことにはなんでも従う他律的であった子供がいまや自分で判断し行動する自律性を身に付けたこと、を示している。
この時期は思春期の第二反抗期と対比され、よく第一反抗期と呼ばれている。が、反抗というネガティブなとらえ方ではなく、ポジティブにとらえ、「第一じりつ(自立・自律)期」と呼んだ方がいい。この時期には子供の自我が芽生え、母親から独立した存在としての自分に気付く。つまり、子供の親離れの第一歩でもある。だから、この時期の子供の拒絶、反対、素直さの欠如、不従順などは困ったことではなく大いに祝うべきことなのである。
かつてアメリカの発達心理学者、ヘッツァーが見いだしたので「ヘッツァー現象」と呼ばれていることがある。それは、第一反抗期が明確にはみられなかった大学生は、激しい反抗期を経験した学生と比べ、自我は弱く、決断力がなく、欲求不満碓性も弱いというものである。
いま、さまざまな問題を抱えている子供たちに共通する一つの側面として「小さいときは素直でいい子だった」といわれることがある。
が、これは三歳ごろに親のいいなりになり、その子の自立性や自律性が育たなかったことを示しているのではないだろうか。だから、三歳ごろの子供の不従順や拒絶を貢めたりするのではなく、温かく見守って、子供の成長を喜ぶ余裕をもってほしいものである。
(筑波大学教授  杉原 一昭)
1997/7/24/金 夕刊連載

しつけ考18

今、若いお母さん方の間で「お砂場着」の人気が高いという。砂場遊びの時に、首からスッポリと体を包むお砂場着を着せると、子供は砂まみれになることもないし、水を混ぜたドロンコ遊びをさせても汚れは最小限ですむ。なにしろ洗濯が簡単にできるので、手間が省けるとお母さん方に重宝がられているらしい。しかし、砂の汚れから子供を守り、母親の手間を省くかもしれないが、そうすることによって失うことが多くあることを知ってほしいと思う。

砂場遊ぴやドロンコ遊ぴには子供の心身の発達にとって大切なことが多く含まれている。子供はだれでも砂遊びが好きだし、砂の感触は子供の感覚を研ぎすます。
また、砂遊びやドロンコ遊びには、カタルシスという、心のわだかまりを洗浄し、心を癒(いや)してくれる効果もある。遊戯療法の一つの技法であるフィンガーペインディング法では、指先から手のひら、手から体へと、絵の具を塗りたくることができるようになると、子供の問題(きつ音やチックなど)は解消する。砂遊びやドロンコ遊ぴにはこのような治療的価値もあるのだ。
確かに、砂場や泥は汚いし、雑菌も多いかもしれない。しかし、程度の問題はあるが、ある程度の菌は子供の体には必要なのである。常在菌と呼ばれるものは健康保持には必須(す)で、それが人の体を守っている。今は抗菌、除菌、殺菌ばやりで、いろいろな抗菌グッズがよく売れ、砂場にさえ抗菌砂が入れられている時代である。しかし、このような無菌状態では子供はひ弱に育ってしまう。そういう子供たちは抵抗力が身についていないので、ちょっとした菌に触れてもいとも簡単に菌に負け、病気になってしまうことさえあるという。
自然と直接触れ合うと心が豊かになるし、また傷ついた心が癒される。砂場では泥まみれになって砂と触れ合うから意味があるのだ。ただでさえ今の子供たちは自然とのかい離が進み、それが子供の心身の発達上の一つの問題点になっているのに、お砂場着はそれをさらに助長することになると思う。
(筑波大学教授 杉原 一昭)



しつけ考20
1998/8/14/金

ある母親が、四歳の女の子が五円玉ぐらいの円形脱毛症になったと相談にみえた。きゃしゃでどこかオドオドした感じの子供であった。この若いお母さんは子供の一挙手一投足が気になり、子供が何事でもきちんとしないと気がすまないところがあった。片付けでも身の回りのことでも、きちんと速くやることを子供に要求する。子供がその要求通りにしないと「あなたってどうしていつもそうなの!」と怖い顔でにらみつけ、叱(しか)っているようだった。お母さんがいないところでは結構元気にニコニコ遊んでいるのに、母親が目の前に現れるとその子は急に不安げになりオドオドする。
そこで母親へ、少なくとも一週間子供を叱るのをやめてみる、叱りたくなったらその場から離れ、絶対に叱らないようにとアドバイスした。
昔から「三つ叱って七つ褒め」といわれている。「叱るより褒めよ」で、しかも叱ったらその倍以上褒めなさいというのがこの言葉の意味である。「ダメじゃないか!」と叱るのはだれでも簡単にできるが、褒めることはなかなかできないものである。親でも先生でも上司でも、子供や部下を褒めて育てるのが基本だといわれるが、褒めると自分の権威が低下すると思ってしまう人もいる。こころから褒めることができるようになってはじめて一人前の親や教師や上司になったといえるのではないだろうか。
褒めるのがなぜいいのか。褒められればだれだってうれしい。気分がよくなる、だから二人の関係もよくなる。しかも、叱られたときはそれをやってはいけないことが分かっても、ではどうすればいいかは示されない。特に小さい子供にどっでは、叱られたときどうしたらよいかという情報は与えられない。褒められると、そうすればいいのだということが分かる。さらに、子供は親から「認められた」と感じ、自尊感情を高めることになる。
先ほどの子供の場合、お母さんが叱るのを一週間、二週間とやめ、代わりに褒めることが多くなったら円形脱毛症がいつの間にかすっかり消え、明るく元気な子になった。「三つ叱って七つ褒め」ということは人を育てる基本原則だと思う。
(筑波大学教授 杉原 一昭)1998/8/14/金 夕刊

親の心読む"有能"な乳児


零歳の赤ちゃんでもかなりの能力があることがわかってきた。従来は、新生児は目も見えず、外界を把握する能力などはほとんどないと考えられていた。でも、様々な研究のやり方が開発され、生まれてすぐの赤ちゃんでも母親を認知できるし、誕生時を記憶しているという報告もある。胎児にさえ母親の感情を察知する能力があるようで、出産を望まなかった夫の気持ちが変わって産んでもいいことになり、.母親が涙を流して喜んだ途端、それまで動きの鈍かった胎児がリズミカルに動き始めたという趨音波を使った映像もある。
望まれずに生まれた子供の心身の発達は望まれて生まれた子供に比べて悪く、その影響は少なくとも青年期まで続くようである。こうした影響のメカニズムは十分解明されているわけではないが、胎児や新生児が無能力者にみえたのはその能力を見いだす手段がなかったためかもしれない。胎児や新生児がそのように有能だとすれば、数カ月たった乳児にはもっといろいろな能力があるといえる。それを調べた研究を一つ紹介しよう。「社会内問い合わせ」と呼ばれている研究である。
生後十カ月前後の乳児に五個のおもちゃを与え、お母さんに「赤ちゃんがこのおもちゃ(五個の中の一つをランダムに指定する)で遊んだ時はニコニコして、それ以外の時は無表情にしていてください」とお願いする。すると子供は母親がニコニコしたおもちゃでしか遊ばないようになる。つまり、この年齢の子供は「このおもちゃで遊んでいいの?」と母親の気持ちを表情から読み取り(問い合わせ)、それに応じて母親の喜ぶように行動しているのである。
この研究では母親は意識して子供に信号を送っていたが、普段の母親は無意識のうちに様々な信号を送っており、子供は親の目をうかがいながら成長している。赤ちゃんがかまってほしいと近付いていったのに、母親が無表情に対応したり、子供の手を何げなく払いのけたりすると、子供は落胆し失望する。それが繰り返されれぱかまってもらおうとも思わなくなるし、近付くこともなくなる。母親にそのつもりがない場合でも、子供が相手にされないことを感じ取り、傷ついてしまう。神経質になる必要はないが、子供を慈しむ気持ちを持って誠実に付き合うことを心掛けるべきであろう。

(筑波大学教授 杉原 一昭)

1999年(平成11年)1月8日(金曜日)

現代躾考50

1999年(平成11年)3月26目(金曜日)


先日、ある幼稚園を訪れた。卒園を迎えた年長組の子供たちが壇上で式で歌う歌を練習し、年中組や年少組の子供たちがイスに座ってそれを聴いていた。ところが、イスに座らないで、会場のあちこちを走り回ったり、自分勝手に遊んだりしている子供たちが十人近くいた。先生方が追い掛けては席に着かせるが、すぐに席を立ってしまう。その繰り返しである。今までもそういう子供はいたが、年々その数が増えているという。
わがままいっぱいに育ったので気に入ったことしかしない子、きちんとしつけられていないためか「今何をしなければならないか」を全く意に介していないように見える子、耐える力が身についてないのでツッと座っていられない手、などいろいろな子供がいるようだ。.
その中には、ADHD(注意欠陥多動性障害)に入るのではないかと疑われる子供もいる。ADHDには次の三つの特徴がある(「カプラン臨床精神医学ハンドブック」医学書院)。注意を集中したり、持続することが苦手で、話しかけても聞いていないように見えたり、指示を理解はできるが従うことができない、などの「注意欠陥(不注意)」。手足をそわそわ動かし、よく席を離れて、ジッとしていられず、しゃべり過きることもある、などの「多動性」。質問が終わる前に出し抜けに答え始めてしまったり、順番を待つことができなかったり、よく他人の邪魔をする、などの「衝動性」の三つである。
ADHDのときは専門家に相談しなければならないが、それ以外の「座っていられない子」の場合は、身辺自立ができていないことが多いので、まず、食事、着脱衣、トイレ、あいさつなどの基本的な生活習慣を身に付けさせることが大切である。その上で、今何をしなけれぱならないかをきちんと話して実行させ、少しでもできるようになったらほめてあげる。それには、静かな環境でく根気強く繰り返し行うことが大切になる。
「席を立って動き回る」子供が何人か出ることからいわゆる学級崩壊は始まるようだ。幼稚園で席に座って歌を聴くとか紙芝居を見ることができない子供たちは、小学校に入ってから学級崩壊を引き起こす予備軍なのかもしれない。幼児の段階から家庭でも幼稚園でも適切に取り扱い、座っていられる子供にしておくことが必要だと思う。
(筑波大学教信 杉原 一昭)