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く疲れる学校>に疲れる子どもたち

教膏相談員 今辻 和典

夏休みが終わると、また教育相談のベルが鳴り始めた。受話器を取る一瞬に払ういささかの緊張と身構え、コードから伝わり始まる声に向かって、やがて同化していくべき思いを整えている。

日常を生きる、個の屈折した思いやさまざまな教育の悩みを運んでくるこの電話機は、複雑な現代の影と意味を増幅してくる小さく童い物体でもある。そこを通して、ためらいつつも投げかけられてくる切実なメッセージは、受け手のわたし自身がこの時代に等Lく内に抱えている暗部と、どこか重なり合うような痛みをも思い知らされる。

ここに届く見えない顔からの発信は、いうなれば時代相や見えない教育世界へのため息であり、現代社会での非力な個の難破信号のようにも思えてくる。気づくと自分たちの周りには、いつしかしたたかな暗礁が伏在しており、その暗礁に向かうべきしたたかな言葉など持ち合わせぬ不幸を、わたしは、常々省みさせられている。

さてこのところ偶然にか高校生の不登校のケースが重なっている。きょうもまた高校生を持つ母親からの相談であった。清々しいはずの学期の幕明けは、この家でも葛藤と苦悩のわびしい幕明けとなっている。すでにせり上がっていった舞台から離れて、苦く辛い台詞を孤独に呑みこんでいる生徒の姿がひそかに見えてくる。

「夏休みの終わり近くに、友人や先生に新学期は登校すると明るく約束していたので、わたしもついそんな期待を持ってしまいました。期侍はすまいと自分にはいい聞かせつつも、現実にやはり動かない子に気持ちが揺れてしまいます」

母親の切迫した思いには、予どもがもうこのままー生勤かないのかもしれないという果てのない不安がある。娘さんはどうやら成績も優れ、きわめて生真面目なタイプのようである。それだけに登校への自己決定のうねりと緊張、動けぬ悲しみに、彼女はなお自らを苛んでいることだろう。

「お母さん、あなたの悩みも分かりますが、本当はあなたよりも娘さんの方がもっと苦しんているのかもしれませんね」

わたしは母親白身の悩みの比童を、むしろ黙して耐えている娘の苦痛を理解することの方向に転じさせつつ、むしろ今後の対処に話題を進めることにした。受話器を置いてから、妙に胸に広がってくる母親の言葉があった。

「以前から娘は、学校にいると疲れてしまうといんですよ」、その高校生の繊細な感受には、恐らく対人関係への細かな気遣いや、友人との程よい距離を保つことの気疲れに発するものがあるかもしれない。またあるいはどこか身の置き場のない学校の雰囲気に圧されているのでもあろうか。

とはいえひとりの生徒にとって、やはり学校が疲れる場所であるということの不幸な意識は、決してささやかな問題ではあるまい。本来溌溂とした十代の集団社会のそこに、く疲れる学校>としての要索を放つものは何であろう。小・中学校の児童生徒にさえも疲れるというのをしぱしば聞くこともある。いきいきと個をあらしめないもの、体温や潤いやゆとりのない硬直したもの、そこから弾き出され疎外され、く疲れさせられた〉者たちのうずくまる姿は、痛ましいかぎりである。利害や系列に滴ちた大人たちのく疲れる社会>にも似て、く疲れる学校〉というイメージの向こうに、金属疲労した教育制度や社会のひずみの質を忠い描かざるを得ない。中教審のいう「生きる力の育成」の土壌とはとても程遠いところで。

(いまつじ かずのり)

1996/11/ 教文研だより よりの転載