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総合的な学習の時間へのアブロ-チ
国立教育研究所主任研究官
奈須 正裕 氏
総合的な学習の時間へのアプローチ
国立教育研究所
奈須 正裕
<レジメ>
1 総合的な学習の性格
・教育課程上,生活科の発展・延長という位置づけ
・生活科は教科か? 教科とは何か? 文化遺産との対決を通しての文化創造を担う教科学習
・では,生活科・総合的な学習は何を担うのか? 生活現実との対決を通しての生活創造を担う生活科・総合的な学習
2 書物教育と生活教育(表1)(本文では後ろのほうに掲載)
・教育(学習)の原理としての書物教育(学習)と生活教育(学習)
・教師は書物教育のプロ
・書物教育の発想で生活教育を考えてはいけない
3 子ども中心と大人中心(表2)(本文では後ろのほうに掲載)
・生活科・総合的な拳習は子ども中心,教科は大人中心でいいか?
・教科も総合も究極的には生き方を目指す
・子ども中心(主体的な問題解決学習)でなければ生き方につながらない
・大人中心の総合は危険(社会適応主義)
・教科の方が難しい?
・総合で経験を積んで勘どころをつかみ,教科も子ども中心に改革する
図1 拡散型教材研究の手法としてのウェビング〈題材;さつまいも)
(後ページで掲載)
先生方,こんにちは(拍手)。
じつは私は前に神奈川大学におりまして,いまでも神奈川県がフイールドですので,こういう機会をいただいて,非常に光栄に思っております。きょうは総合的な学習の時間ということについて私なりの考えを申しあげて,ご参考にしていただくなりご批判をいただければと思います。
1 総合的な学習の性格
学校は何をするところか
此の間,ある私立小学校の先生とお話ししていて,「小学校って何をするところだと思ってる?」と訊いたんです。「そんなこと,わかってるじゃない。小学校って学問をするところよ」とおっしゃるんですね。一年生の担任の先生ですよ。私はびっくりしました。
でも考えてみますと,小学校は確かに学問をするところでもあるんですね。だって,教科って学問です。小学校一年生から系統的,段階的に教えて,先へいって学問や科学や文化や芸術の本質に触れていくように,ぼくらは子どもを育ててきたわけです。その意味,小学校では確かに学問をします。そこが幼稚園や保育園との大きな違いでしょう。いま幼稚園や保育園でも学問をさせようというところがあっで,早期教育ということでむしろ問題になってさえいますね。
ただ,生活科が発足したこと,あるいは総合的な学習の時間が創設されたことは,小学校において学問をするということはどういうことか,そのことの問い直しだったのかな,という気がします。
総合的な学習のことを考えることは,裏返して言えば教科を考えることですから,きょうは総合的な学習と同時に,教科って何だろうということも考えていきたいと思います。
総合的な学習と教科はお子さん方が健全に全人的に育っていくときに必要な二つの領域だと言ってもいい。よく「車の両輪」と言われますが,どういう意味で車の両輪であり得,またそうしたいのかということもお話ししようと思います。つまり,ぼくらがずっとやってきた教科ということを見直し,その本来の姿を考えるのに,生活科や総合的な学習というのはすごくいい機会だと思うんです。きょうはそのあたりのことを考え,それを通して総合的な学習の姿を明らかにしたいと思っております。
ある不登校のお子さんが,こんな言葉を残したといいます。
「あそこ(学校のことです)には,やらなきゃいけないことと,やっちゃいけないことしかない」
この子は,学校にはぼくがやりたいことをやる場所がない,と言いたいんでしょうね。
いま,学校は学問をするところだと言いましたが,その学問〜具体的には教科ですが〜の多くが「やらなきゃいけないことと,やっちゃいけないこと」として,かなりの数のお子さんには映っているのかもしれません。子どもたちは日々生活をしていくなかで”やりたいこと”がたくさんあるんじゃないでしょうか。”やりたいこと”というのは,享楽的なことにうつつを抜かすという意味ではなくて,”もっとこんなことかできると嬉しいなあ”という夢や願いをもったり,”自分がこんなふうになれると,もっと自分が好きになれるなあ”という憧れを抱いたり,あるいは世の中のことを見回して”このことはどうなんだろう。これでいいのかしら”と気がかりに思ったり不安に感じたり,そういうことがたくさんあるんだろうと思います。
ぼくは年間80日ぐらい小学校に行っているんですが,このあいだ,埼玉県のある小学校へ行ったら,2年生.の女の子がぼくのところへ來て「先生,ダイオキシンとキングギドラはどっちが強いですか」と訊くんですよ。小学校二年生って,けなげですねえ。埼玉のどこかは言わすと明らかだと思いますが,もちろんあの町です。それは気がかりでしょう,7歳でも。キングギドラと一緒になるところが可愛い。すごくいいセンスしていますね。空を飛んでくる得体の知れない,怖いもの。やっぱり子どもは天才です。さっき紹介した不登校の子が言っていることも,そういう暮らしのなかでの切実な疑問を考える場所が学校にない,という訴えじゃないでしょうか。
そういうお子さんの声を,ぼくらも取りあげたいですよね。でも時間がない,教科しかないこれまでの学校のなかで,どう扱えたでしょうか。典型的には,こんなふうにしてきたんじゃないでしょうか。「なるほど,ダイオキシンの問題,いま深刻ですね。でもね,あなたたちが悩むようなことじゃない。そういうのは先生たち大人に任せておきなさい。君らにいま大事なのは何かな? 算数ですね。ハイ,じゃあ算数」(笑い)。
算数も大事です。学校は学問をするところでもあります。でも,子どもたちが毎日暮らしているなかで,こんなことをしてみたいと思ったり,気がかりだったり不安に思っていたりすることを,考えたり実践したり追求する場がもう一つあってもいいんじゃないでしょうか。
兵庫県のトライやる・ウィークという実践をご存じだと思います。全県で去年やって,今年二年目です。中学二年生のお予さんが一週間,学校へ来ないで,地域の事業所に行って働くという実践です。これはあてがい扶持の職場体験ではありません。子どもたちが自分の生き方という問題意識から出発して,自分が求めるような,あるいは気がかりになっているような職場に行き,その現場で一週間暮らしてみて,そのなかでいろんなことを考えるという学習の場です。まだいろいろ問題はありますが,ずいぶん成果が挙がっています。
不登校のお子さんもかなり参加されました。そこに参加した不登校のお予さんの学校への復帰率は70%を趨えています。70%というのは全県ですが,ある市町村にかぎっていうともっと高い割合のお子さんが学校へ帰ってきています。ほんとうに子どもたちに任せて,子どもたちの求める職業体験を自分で探して切り開くような実践がやれたところでは,非常に成果が挙がっています。
よく「いまの中学生は無気力で無関心で,世の中にかかわりたがらない。汗をかくのが嫌いだ」と言われますが,それは間違いでした。中学生は汗をかくのが大好きです。中学生は人とかかわるのが大好きです。もっとかかわりたい。汗をかきたい。ところがそういう機会がなかったんです。機会がないのがわかっているから,学校という場でそれを教師に訴えても何も返ってこないとわかっているから,あえてそういう素振りを見せなかったんじゃないかと,兵庫県のある先生はおっしゃっていました。そうかもしれない。学校は学問をする場でもありますが,学校にはもう一つ場があってもいいんじゃないか。つまり,子どもたちが日々の生活のなかでやってみたいと思っていること,夢や願い,気がかりなこと,不安に感じていること,そういうことに取り組む場所が,もう一つ学校にあってもいいんじゃないでしょうか。生活科あるいは総合的な学習の時間は,まさにそれを担うべく発足したんじゃないかと思っております。
考えてみると学校というところは,学問を通して自己の生き方を考えていくところであると同時に,自分自身のこの町での生活現実と向かい合って,自分の生き方・在り方を考えていくところでもあるんじゃないでしょうか。ですから総合的な学習の時間や生活科は,教科の学習を否定するものではありません。
生活教育
これはなにも子どもだけじゃなくて,人間が学び,成長するには二つの場が必要なんじゃないかと思うんです。先生方ご自身も毎日学んでいらっしゃいますね。きょうも学びの機会でしょうし,学問的な本をお読みになったりもします。
でもどうでしょう,皆さん方が新任のころからの何十年間を振り返ってごらんになると,そこにはさまざまな飛躍があり成長があったと思うんですが,どういう場で,どういう筋道で先生方は教師としての力量を高め,見識を高めてこられたのでしょうか。それは書物や講義が多いですか。「いや,そんなことない。じつを言うと,そんなのはほとんど役に立っておらん」と言うかたが多いのではないでしょうか。「夏期研にも行ったけれど,つい寝ちゃって」(笑い)〜きょうはそちらのお立場のかたも多いので,申しわけありませんが〜ということになりますし,本もなかなか読めない。ベテランの先生方がお若いときはずいぶん本を読まれたけれども,いまの若い教師はあまり読まなくなっていますね。
本や講義じゃなくて,つまり学問ではなくて,むしろ日々の生活の実践のなかで教師として成長してみえたのではないでしょうか。もちろん先生方の職業人としての日々の実践の場は教室です。教室で授業をしながらいろんなことを考え,悩み,学び,成長してこられたんじゃないですか。生活のなかで,”もっとこんな自分になれると嬉しいなあ””もっとこんなふうに授業ができると,教師として嬉しいなあ”と。さっきのお子さんと同じじゃないですか。そして毎日の授業を振り返り,自分がいまどんな授業をしているかを自覚する。そこから出発する。そのために,授業記録などもよくおやりになったんじゃないですか。いまの若い人はあまりやらないので困るんですね。先生方の学校で,特に若い方にはぜひやらせてください。授業をテープにとって,起こして,自分がどんな授業をしているかを自覚する。そこからすべて始まるんですね。自分の生活実践を自覚する。
自覚したら,次は吟味しますね。自分だけで吟味することもなさったでしょうし,校内研や授業研で同僚や先輩に吟味してもらう,相互吟味をするということもおやりになったと思います。自覚して吟味する。そして,わかったら更新するんですね。改革して変化させていく。しかし,すぐには更新できない。ここが悪いということはわかっても,どうしていいかわからない。そのときに,先輩に聞いたり自分で工夫したりして実はこれが学び,学習なんですね。そして,そういうときにこそ本を手にとるんじゃないでしょうか。
私たちは具体的な問題があるときに,問題解決的に本を開くんですね。たとえば”今年のクラスにはどういうわけか,落ちつかない子が3人いる”となったら,慌てて横浜へ本を買いに行くでしょう。”いや,今年はいい子ばかりで何も問題はない”というんだったら,本なんか買いに行きませんよね。生活実践のなかの切実な問題をどう解決するかというときに,本を買う。しかもその生徒指導の本を,1ぺージからずっと読むでしょうか。「生徒指導の歴史」「生徒指導の基本的立場」「生徒指導の方法」・・・と系統的に読んでいくでしょうか,そうじゃないですね。うちのクラスの子はどうも多動らしい,となったら「第九章 多動」というところだけ読む。これは通常の学問とはずいぶん違います。学問というのは,ちゃんとした本を1ぺ-ジから系統的・体系的に段階を追って身につけていくというやり方をします。基礎からちゃんと積み上げていく。これは学校の教科と同じですね。ぼくらはそういうふうに指導されてきたし,それは大事なことです。
しかし,今考えてきたように,ぼくらが教師として成長し,学び,深まっていく場は,むしろ生活の中なんですね。生活の中で学ぶ。実践をとおして学ぶ。実践がうまくいかないとき,切実な問題があって,いまもっている知識や技能や見通しだけではその問題を解決できないというときに,外に情報をとりに行くんじゃないですか。しかもそれは,本を1ぺ-ジから300ぺ-ジに向かってそれ自体を目的に,段階的に読んでいくようなやり方ではなくて,きわめて手段的で虫食い的です。必要なところを必要に応じて読みとって,自分の実践に意味づけていくような学び方をされます。
生活のなかで学ぶ。生活をとおして学ぶ。これを大人は自分でやりますから「生活学習」と言ってもいいと思うんですが,子どもは一人だけではできませんし,やはり大人が導いてやる必要があると思いますので,「生活教育」という言い方をしてきたわけです。
生活科や総合的な学習でイメージしているのはそっちのほうじゃないかと思います。学校は学問をするところでもありますが,もう一つ,彼らが日々の暮らしの実践のなかで”もっとこうなると嬉しいなあ””こんなことをしたいなあ””こんなことが気になるなあ”ということに取り組み,深め,学び,成長する。いまの彼らの毎日の生活の現実を自覚し,”これでいいんだろうか”と吟味し,自分自身,より納得のいくあり方を求めて学び,そして自分の生き方や生活を更新していく,という学びと実践の場だと考えてはいかがでしょうか。そうすると,教科とは違うもう一つの領域だということがわかってきますし,教科をわざわざ3割減らしてまでやることの意味がわかってきます。教科を減らしてやるんですから,教科を何か複合しててできるような,合科でできるような質のものをやるという話じゃないんですね。
最近「クロス・カリキュラム」という言葉はあまり聞かないでしょう。あれは教科を合科して総合のようなものをつくるという思想なんですね。生活科の発足を思い出してくださればいいんですが,生活科のごく初期に,社会科と理科の合科で考えるという思想がありましたけど,消えましたね。文部省ははっきり廃止だと言っています。生活科は理科と社会科の合科じゃないんです。生活ですから,そのなかには社会現実とか自然現象が当然入り込んできますけど,それは理科と社会科ではないんです。
逆に言えば,理科や社会科とは何かということが大事なことです。つまり,教科とは何か。今度はそっちを考えてみましょう。
教科とは何か
教科って何でしょうか。自然を扱うから理科でしょうか。社会を扱うから社会科でしょうか。違います。国語で考えてみましょう。
確かに国語は言語を扱います。でも,社会科でも算数でも理科でも言語を扱いますよ。ただ扱うだけじゃない。社会科で話し合いをして,話し合いの仕方も上手になるでしょうし,算数でも,論理的に説明できるようになることを要求してきたでしょう。理科でも,科学的で分析的な言語の運用ということに気をつけて指導されてきましたね。だってぼくらは日本語を通じて考えるんですから,ぼくらの認識活動や実践活動にはすべて日本語がついて回るんですね。
じゃ,国語は何をするんでしょうか。国語は,単なる日常の言語運用を扱うのではないんだと思います。だって,そうでしょう。毎日の暮らしのなかで説明文を,10回も読む人いますか。新しいファックス電話機を買ってきて,マーカーで線を引いたり段落を分けたりしてマニュアルを読むという人,いますか? そんなことをやる人は一人もいませんね。あるいは皆さんが小説を楽しもうというときに,何十回も読んだり,そのあとぺープサードで劇をやってみようなんていう人,いますか? そんな人はいません。
つまり,国語でやるのは日常の言語運用じゃないんです。むしろ,日常の言語との付き合いでは出会えないような言語運用,もっと洗練された,文化と呼びうるほどに高度で洗練された言語運用の側面を扱っているんだと思います。ですから説明文でも,意味や情報が伝わればいいというのではなくて,文体とかレトリックとか形式とかいうことにまで配慮し,そのことと出会い,そういう世界があるんだなあということに驚き,それによって子どもたちの言語の文化性を高めるということをしているんじゃないですか。国語はそういう意味があると私は思うんです。
国語教育では,いままではどちらかというと丁寧に読み過ぎていた,もっとコミュニケーション重視という方向に行こう,という動きがあるように思います。それも大事でしょうけど,丁寧に読むということの本来の意味を考え直す必要があるんじゃないでしょうか。国語はただ言語を扱う教科というふうに考えちゃいかんのじゃないかと思います。日常生活をしているだけでは出会えないような,もっと洗練された言語,文化と呼びうるほどに高度な言語運用を学ぶ。それによって子どもの文化性を高める。それが教養というものでしょう。
もちろん,それが日常生活と遊離するのではいけません。今の教科批判はそのあたりに集中しています。それはもっともなんですが,だからといって,ただなんとか日常生活をしていくのに必要な力がつけばいいというのでもないでしょう。それプラスその子の内側をもっと豊かにしていくような力。もっと豊かに,文化的に,教養を深くしていく,それをぼくらは教科に託し,教科はそれを担ってきたんじゃないかと思います。
理科もそうじゃないですか。ただ自然とかかわるだけではないはずです。それを科学的に見つめ,分析的にとらえ,原理的に考えていくということをしてきたんじゃないでしょうか。それは,ただ日常生活のなかで草木や動物とかかわっていくだけでは出会えないような洞察や世界観を導くはずです。
理科は,ただ自然に関する知識の詰め込みではありません。そこに,ある体系があり,構造があり,世界観があります。むしろ方法論があります。それが理科の本質でしょう。理科的な知識の要素をただ束にしても理科にはなりません。算数も同じですね。足し算だけでやってきた算数が掛け算へと進むとき,それは,ただ計算が手速くできるということではなくて,一次元で考えていた世界が二次元になるという,いわば世界観の拡張でしょう。そんなことを考えなくても掛け算はできます。ただ,そういう新たな世界観の導入が,その子どもの数理的な文化観を高めるんですね。だから教科というのは学問なんです。学問って,そういうものです。
つまり教科というのは,単に日常生活をしているだけでは出会えないような世界との出会い,それをもたらすような,したがってある種の非日常性の導入なんですね。それは家庭じゃ無理でしょう。地域じゃ無理でしょう。だから学校で意図的にやってきたんじゃないでしょうか。
必要な2つの学びの場
そういう学びは,大人も含めて人間にとって重要なんです。先生方もそうでしょう。先生方も教師としての力量は確かに日常の生活実践〜つまり授業〜をとおして,”もっとこうなりたい””このことが気になる”ということを通して身につけてきたと思いますが,それと同時に,たとえば系統的に本を読むことによって,自分の学校の授業実践だけでは出会えない,いろいろな世界と出会い,その側面においても教師としての力量を高めてきたはずです。
ただ横浜の学校で教育実践をやっているだけでは出会えないものと出会うというのは,実践そのものとそんなにべったりは対応していないでしょう。ある種遊離している部分もあります。それはある種の非日常性ですね。しかし,ある書物と出会って,「目からウロコが落ちた」「井の中の蛙だったということがわかった」といった経験をお持ちではないでしょうか。これが書物による学習の最大の特徴であり効用です。
そういうことも一方で大事だろうと思うんです。ぼくらは,生活のなかでの学習と書物をとおしての学習と,その二つをやっているんです。どっちがレベルが高いとか低いとか,そんなことはありません。二つともぼくらには大事です。
日常的な,ベタベタの生活実践,”いま,ここ”での生活実践をとおして,”もっとこうなりたい””このことはどうなんだろう”という学びと,もう一つ,ある種日常と離れた書物や学問をとおして,日常だけでは出会えない認識の深まりや世界観の拡張をはかるような学習。その二つがぼくらには必要だし,皆さんが教師として成長するときに,必ずその二つをやってみえたはずです。
ところが振り返ると,学校には書物をとおして学問をすることしかなかったかもしれない。もちろん,特別活動や道徳などはどちらかといえば生活教育に近かったと思いますし,そうして実践してみえた先生方も多いと思います。神奈川県では,学級文化活動に関する取り組みが昭和40年代に非常に華やかにありましたし,あの動きは生活教育と言っていいものだと思います。
けれども,十分な時間と制度的な保障をもって生活教育が学校のなかにあったということは,そう多くなかったと思いますね。今回,生活科が発足し,3年から上に総合的な学習の時間ができることで,生活教育の部面をしっかりとやっていけるのではないでしようか。
私は,生活教育の部面,つまり子どもたちが日常の暮らしのなかでやってみたいことや気になることに思いっきり取り組み,それをとおしてまず直裁に日々の生活実践を自覚し,吟味し,更新するという動きが出ることを期待しておりますし,それによって,市民として,生活者として生きていく基本が学ばれていくことを期待したいと思っています。
それができれば,子どもたちは次にどこに行くかというと,明らかに教科に向かうんです。日常だけでは出会えないいろんな深まりや高まりを,子どもたちは自然に求めるでしょう。ですから生活科や総合的な学習をちゃんとやり込むことをとおして,子どもたちが教科の学習〜学問や科学や文化,非日常の学び〜の意味を感じ,そっちに向かっτ素直に歩んでいける筋が出てくるのではないかと思いますし,実際に総合的な学習を一緒に実践してきた学校では,子どもたちは教科が好きになります。また,先生方も教科にカを入れることができるようになります。これまでとは違った意味でできるようになります。つまり総合的な学習をとおして子どもたちの日常の生活を知ることで返って,非日常とは何か,この子どもたちに出会わすべき文化とは何か,が見えてくると思います。
ですからむしろ今回の指導要領によって,本来人間がもつべき二つの学びの場,生活の中での学びの場と書物をとおしての学びの場がバランスよく形成されるんじゃないかな。その意味で教科も,もっと本来的なあり方を思い切ってやれるようになるんじゃないかな,と思うわけです。
2 書物教育と生活教育
ここで二つの学びの場,すなわち教科と生活科や総合的な学習,あるいは書物教育と生活教育とを対比して見てみたいと思います。
生活科や総合的な学習がぼくらにとって難しいのは,ぼくらが長年,書物教育のプロとして養成され,仕事をしてきたという現実があるからです。従来,学校は学問をするところしたし,教科学習を中心に動いてきました。学校というのはそれをやる主要な場だと,いまでも思っています。
しかし,生活教育である生活科や総合的な学習の時間についても書物教育の発想でやろうとすると,それはうまくいかない。生活のなかでの学びと書物をとおしての学びは,かなり違います。さっき,体系的か虫食い的かという話をしましたが,かなり違います。そのあたりをきょうはまず整理したいと思います。
じつは,総合的な学習を実践していてなかなかうまくいかない,ちぐはぐな感じがするという学校の多くは,生活教育である総合的な学習を書物教育の論理でやっているんです。そうするとおかしくなるんですね。
お配りしたレジメ(後頁)に,書物教育と生活教育との対比を私なりにつくってみました。5つの項目で対比しながらそれぞれの特色を明らかにしたいと思います。
対決する領域
まず書物教育(教科)において,対決する領域というのは何だろうか。子どもが向かい合っていく領域です。教科・書物教育ではこれは明らかに文化遺産です。人類が文化創造の過程でつくり出してきた所産の選りすぐりが,教科の内容です。文化遺産と子どもたちが向かい合うことで,文化とは何か,文化創造の営みとは何かということを学び,自分自身も文化を継承し発展させていく担い手になっていく,それが教科というものでしょう。あるいは学問・文化・芸術というものの本質でしょう。それに対して生活教育では,子どもたちは生活の現実と向かい合います。”いま,ここ”での暮らしと向かい合っていく。
文化遺産は当然,普遍性をもっています。物理学は横浜と東京で変わりません。ところが生活の現実はもっと特殊です。東京と横浜では微妙な違いがあるでしょう。同じ神奈川県でも横浜と小田原では微妙な違いがあります。生活現実はきわめて特殊的でローカリティがあります。だから「地域に根ざした教育」なんですね。
逆に教科は普遍性をめざしています。だから社会科や理科では地域教材を扱いますが,それはただ地域のことがわかればいいという話ではないんです。地域のことを身近な例として引きながら,最終的にはその奥にある原理的なことに行きたいわけです。地域から出発しながら,その奥にある普遍な原理に行き着くことを当然めざすはずです。ですから教科は普遍性をめざすはずですし,子どもはそれを求めてさえいます。
また,それぞれにおいて誰と対話するのか,と考えるのもおもしろいと思います。生活現実と向かい合う総合的な学習では,目の前にいる人と対話をします。近所のおじさん,市役所のおばさんと対話をします。”いま,ここ”での対話になります。一般的なというのはありません。いま目の前にいる人,いま目の前にある問題と向かい合っています。
それに対して教科は,時空を超えた対話をします。力学の勉強をしているとき,子どもたちはニュートンと対話をしているんです。「ごんぎつね」を勉強しているときには,子どもたちは新美南吉と対話をしているはずです。それは時空を超えた対話です。非日常性です。それでいいんです。日常生活をするだけではニュートンや新美南吉とは出会えません。しかしニュートンや新美南吉と出会えば,子どもたちはそこに,自分の内側を深め,高めていくいろんなものを発見し,学びとっていくのではないでしょうか。だからぼくらはそういうものを意図的に提出するわけです。ぼくらが文化遺産の選りすぐりを子どもたちにぶつけ,子どもたちにそれと対話させることで,彼らの文化性や教養を高めようという営みをするのは,そういうことではないかと思います。だから時空を超えた対話になるし,普遍性をもちますし,非日常性をもちます。だからこそそれはぼくらが意図的に,組織的に,公教育としてやるべきことですし,それは何の問題もありません。
それに対して生活教育のほうでは,いま,この横浜の町の,私の日常の生活をあらためて振り返って,自覚し,吟味し,”これでいいのだろうか”と考え,”もっとこういう生活ができたほうが私も嬉しいし,みんなとも仲良く暮らせる”,そういう方向に生活を自力で更新していくという動きをとるのではないでしようか。
そして,ポーッと暮らさなくなる。それが「生き方が強くなる」ということです。じつを言うと,意外とぼくらは毎日ポーツと生活しているんですね。子どもだけではありません。そのぼくらの暮らしぶりの一挙手一投足に意識を向け,それをいちいち吟味し,これでいいのだろうかと考え,より納得のいく方向に更新していく。日々自分を新たにしていく動きを自分の中につくることが,生き方が強くなるということではないでしょうか。
「生きる力」ということはいろんな意味で言われますが,私はいまそういうイメージをもっています。ポーツと暮らさない。低学年の子どもには「ていねいに暮らす」という言い方をしたらいいかと思います。粗雑に暮らすのではなくて,ポーツと暮らすのではなくて,丁寧に暮らす。中・高学年の子どもには「誠実に暮らす」「思慮深く暮らす」という言い方もいいかもしれません。
また,生活科や総合的な学習をやり込んでいけばそうならないといけません。子どもたちが丁寧に,誠実で思慮深くなってくる。誠実であるということは,自分自身をごまかさず,他人を手段としてではなく目的として扱い,モノを大切にするということです。思慮深くというのは,自分の思いこみだけで考えない。手前勝手な主張をしない。いろんな立場からものを考え,これでいいのだろうかと問い続けるような生き方ですね。日常生活をあらためて省み,”いま,ここ”での対話を行ない,自覚し,更新していこうとすると,自ずからそういうふうになっていきます。
内容系統
次に,内容系統があるかどうかということで考えてみたいと思います。
教科は内容系統があります。文化遺産,学問,書物ですから,当然ですね。内容系統こそが教科の本質とすら言っていいと思います。先ほど言いましたように,理科は自然に関する要素的知識の束ではありません。それを体系化・構造化したものが理科です。いや,構造こそが理科と言っていいと思います。学問というのはそういうものです。ですから教科には系統性があります。むしろそれが生命線と言ってもいい。
では,生活には系統があるでしょうか。系統的に暮らしている人,いますか ? そんなバカなことはない。暮らしというのは混沌です。それでいいんです。ですから,生活科や総合的な学習に系統性を求めるのはナンセンスです。書物教育の発想で生活教育を考えると,何か系統性があるんじゃないか,要るんじゃないかと思われるかもしれませんが,そんなことありません。先生方がこれまで生活のなかで教師として成長してこられて,何か支障がございましたか。ないでしょう。ですから系統的でなくて結構です。それは生活だからです。
ですからここでの学びは,先ほど申しあげたように虫食い的になります。系統的・体系的に段階を追って,本を1ぺ-ジから300ぺ-ジに向かって進めるようには学びません。生活の中の学びですからあっちこっち飛びます。それでいいんです。何の問題もありません。このあたりの感覚がすごく大事です。
「国際理解,情報,環境,福祉・健康」をやるのか,ということがよく言われますが,「国際理解,情報,環境,福祉・健康」は例示ですから,やらなくてもいい。それは指導要領の総則の解説書にちゃんと書いてあります。やってもいいし,やらなくてもいい。ただ私は,やることになるだろうと思います。なぜならそれは生活のなかにあるからです。神奈川県の,横浜の生活のなかに国際問題も環境問題も福祉の問題も健康の問題も情報の問題もありますから,子どもが生活現実と対決し,自覚,吟味,更新していこうとすれば,結果的にやることになるだろうとは思います。系統だててやるわけじゃないけれども結果的にはけっこうやるだろうと思います。
ところが,ぼくらは書物教育のプロで,長年,系統的に扱ってきたもんだから,ついついこんなことをやってしまいがちです。
子どもが「先生,インターネット使いたい」と言ってきますと,「そうか。コンピュータを使うには基礎が大切ですから,まずフロッピー・ディスクの使い方からやりましょう。フロッピー・ディスクというのはこうなっていて,ここにシャッターがあって,この中にセクターというのがあって・・・・」と延延と説明する。「先生,それが終わったらインターネット使っていい?」「いやいや,コンピュータを使うときにはブラインド・タイプができると便利です。ほら,ここにウサギさんが出てくるおもしろいソフトがあるから,これで1時間一所懸命練習しましょう」「先生,そろそろ使っていい?」「いやいや,今度は回線接続の仕方を・・・」(笑い)。
いつまでも使わせてくれない。インターネットは応用だから,基礎から積みあげて系統的にやらなければ……と思っているからなんですね。でも生活の中では普通はそうしないんです。先生だってそうでしょう,職員室で同僚に「先生,ぼく,インターネット使いたいから教えて」と言って「そう,じゃあまダブラインド・タイプの仕方を…」(笑い)なんて言われたら怒りますよね。ご自身は怒るのに,なんで子どもたちにはやらせるんですか。基礎から積みあげて系統的にしないといけない,という書物教育の思想なんですね。そんなことありません。虫食い的です。そこだけできればいい。だから小学校の学習領域を超えることもよくあります。命の学習なんかやっていくと,中学・高校の内容に入ることがよくありますよ。いいんです,どんどんやってください。虫食い的ですから。系統的・体系的に学問としてカッチリやっているわけじゃないんですから。先生方もそうでしょう。テレビの科学番組なんか見ていると,ブラックホールがどうしたとか,磁場がどうなって重力場がどうなってとかでてきますが,だいたいの感じはつかめる。基礎から積みあげて理解なんか全然していなくても,だいたいわかる。なんとなくわかる。それで困らないでしょう。虫食い的な学びってそんなもんなんです。生活のなかでの学びというのはそれでいいんです。さっきのダイオキシンもそうですね。「それをやるにはダイオキシンの化学組成からやらんといかん」と言ったって,それは二年生には無理です。だったら扱わないのかというと,そうじゃなくて,自分たちが埼玉のその町で安寧に暮らしていくために必要な知識だけを,虫食い的に学べばいいんです。そのあたりが書物教育と生活教育の違いです。
その意味で,書物教科では知識が目的です。認識こそが目的です。日常生活では出会えないような科学的認識の深まりをめざすのが教科です。それでいいんです。もちろん認識で終わるのでは今一歩弱いです。認識を経て,最後は生き方にいきたいわけです。教科も究極的には生き方の教育です。ただ,基礎から学問や科学を認識として積みあげていって,”あ,なるほど”という認識を経て,そこから生き方にいくわけです。ある意味で非日常的な学問的,科学的認識が子どもたちの生き方・在り方を考え直すのに役に立つ,という流れになります。
それに対して生活教育では,まず先に応用すべき問題があり,その解決に向かって手段的に学ぶんです。ですから知識は手段です。指導要領にも書いてありますね。知識を教えることが目標ではない。認識が目標ではない。それは手段だということです。知識が手段だと言うと,知識をバカにしているというふうに感じられるかもしれませんが,そんなことはありません。手段だということは即実践に使うということですから,生半可な知識では役に立たないんです。怪我をします。ですからちゃんとわかり,ちゃんと身につけなければなりません。だから教科の学習よりも却って定着が強くなり,理解が深くなるということは,よくあることです。ただそれはあくまでも虫食い的です。
それは「教科的な知識」であって「教科」ではありません。総合的な学習をやっていくと,たとえば環境の問題を問いつめていくなかで,理科的な知識や社会科的な知識がたくさん要るようになります。小学生が中学や高校の水準の理科的な知識を学ぶこと〜要素的にですが〜はたくさんあります。でもそれは理科的な要素であって理科ではありません。系統的・体系的な認識がちゃんと成立しているわけではありません。だからそれは後で学問としてちゃんとやっていく必要があります。
また,系統的にやったことで虫食い的に学んだ内容の位置がよくわかり,深まるということもあると思います。先生方もこんなご経験があるんじゃないでしょうか。クラスに困った子が三人いて,生徒指導に悩んで,大慌てで本を買いに行って「多動」のところを読んで対応して,そのあと,夏の研修とか大学院などに行かれて系統的に学んで,あ,なるほど,多動というのは生徒指導全体でこういう位置づけなんだなと,もっと深まるということがあると思います。
虫食い的に学ぶ・系統的に学ぶ,両者はやはり相互補完的な関係にあるんだろうと思います。そう考えていくと,題材・内容の扱い方も自ずから変わってきます。例示されている「国際理解,情報,環境,福祉・健康」で考えるとわかりいいと思います。
これらは,子どもたちが自分の生活現実をちゃんと自覚し,吟味し,更新しようとするならば必ず出会う問題ですね。
ただ,扱い方を気をつけないといけないだろうと思います。生活科や総合的な学習で「国際理解,情報,環境,福祉・健康」を扱うのは,生活実践上の問題として扱うということですね。じゃ,もう一つの扱い方は何か。それは学問的・理論的な扱い方です。たとえばさっきの例で,子どもが生活実践のなかでどうしてもコンピュータを使いたいというときには,系統的に基礎からやらなくていい,とりあえず虫食い的に使うようにすればいい,と申しました。
じゃ,系統的に基礎からやるというのはどういう扱い方か。それが学問的・系統的な扱い,理論課題としての扱いです。
環境問題でも同じだと思うんです。たとえば環境という問題を環境科学の基礎コースとして指導することも可能です。いま大学の理学部や工学部に環境科学科という学科があったりしますね。これは重要な新しい学際科学ですが,その大学の環境科学の基礎コースを小学校でやることも可能です。情報科学の基礎コースをやることも可能です。福祉学科の基礎コースをやることも可能です。それらを学問的・理論的にやることは可能ですし,それも意味があると思いますよ。でも,それだと新教科ですから,新しい教科が増えるだけですし,彼らの日々の暮らしとはちょっと距離がありすぎます。やはり,生活実践課題として,つまり横浜の町の生活実践上の問題として扱うというのが基本なんじゃないかと思います。
たとえばこういうことです。スーパーやコンビニヘ行ってジュースを買おうとします。同じオレンジ・ジュースが,ビンと缶とペットボトルで並んでいます。どれを買いますか。これは環境問題です。だけどこんなことは環境科学の本に書いてありません。だって学問じゃないんですから。生活実践ですから。生活実践課題として環境問題を考えるというのは,明日の朝,ゴミ出しをどうするかということなんです。オゾン層に穴が開いてどうしたというのは確かに重要な問題ですが,横浜で明日生きていくうえで切実な問題としてはちょっとリアリティが遠すぎる。たとえば同じジュースを買うのにビンと缶とペットボトルのどれを買うか,というのがたとえば生活実践課題です。そういう水準で扱っていく。それは子どもたちが毎日の暮らしのなかで気になっていることですし,あるいは自覚されていないとしても,自覚することで自分の生活が更新されていくきっかけになることです。
これは子どもだけの話じゃないですね。ぼくらもポーツと暮らしているんです。先生方はジュース売場に立ってそんなことを考えたこと,あります ? ないでしょう。それがいけないと言っているんじゃないんです。ぼくらもボーツと暮らしているという事実を認識することが大事です。
生活者としては子どもと教師は同じです。ときには子どものほうが強いことすらあります。うちの5歳の子どもはゴミを持っていくときに「お父ちゃん,どっちに捨てるの ?」と必ず訊きますよ。躾けたことはないんですよ。彼が生まれたときからすでに家の中にゴミ箱が二つあったからです。そういう生活現実のなかで彼は育ったから,それがあたりまえなんです。ぼくらにはなかなかできません。ぼくらが育ったころはゴミ箱は一個で,何でもそこへ放り込みました。
私は昭和30年代の生まれで池田勇人内閣の世代ですから,高度経済成長の申し子のようなものです。「消費は美徳」で育ちましたから,まだまだ体がそう反応していますね。だめです。彼らよりもぼくらのほうが優れているとはかぎりません。ぼくらのほうがボーツと暮らしていたり劣っていたりすることがあります。ですから彼らと共に生活現実を,この暮らしを自覚し,吟味し,更新しようという動きをつくっていくことが大事だろうと思います。
生活実践課題だというと,「なんだ,そんなことなら簡単だ」と言われるかたがあります。簡単でしょうか。学問的にやるよりも生活実践課題のほうが簡単でしょうか。生活実践課題のほうがグッと難しいですよね。ビンと缶とペットボトルのどれを買うか,本をひっくり返したって書いてありません。どれがいいかを知るためには,それぞれのリサイクル率やリユース率やリサイクル・コストを知らないといけない。ぼくらも知らないですから,学習しないといけない。学習して,ぼくらの生活を更新しなければいけない。それが生活が強くなること,生活が丁寧になること,思慮深くなることじゃないでしょうか。
アルミ缶は電気分解しますからエネルギー・コストがすごいし,ビンはいいですけど,あれは輸送コストが高いですね。いろんなことを考えると意外と難しい。ちなみに,これら結果的に学ばれるそれぞれの要素的な知識は教科的な知識ですけど,しっかりと系統的,構造的な位置づけを伴って学ばれるわけではありませんから,教科ではありません。そういうふうにお考えくだされば見えてくるかなと思います。
この間,兵庫県のある学校に行きましたら,環境の学習をしていました。あるグループの子どもたちが日本でいま絶滅しかけている動物について調べて,その原因を探求し,「開発が急激に進んだからだ。山の木をどんどん切り開いて開発をしたからだ。これからはそんなことをしちゃいけないんだ」と訴えていました。たしかに,追究それ自体としては,それこそ学問的な視点からすればとても深いものであったと思います。ただ,ふと学校の外を見て,あれ,と思いました。それは六甲山の裏の学校で,山を切り開いてつくった町にできた学校なんです(笑い)。もちろん子どもたちに責任はないんですけど,自分の生活を引き受けていないんです。自分の生活現実を見つめての追求になってないんですね。つまり自分のことは棚にあげて,ひとごとのように,第三者として〜学問としてやるとついそうなりがちですね〜追求している。それでは明日からの生活は更新されないだろうと思います。それでは今一つ弱いんです。
ある子が先生にインタビューしていました。「先生,環境のことを考えるともっと車を減らさなきゃいけないですね。どう思いますか」「そうですね。私もできるだけ車に乗らないようにしようと思います」
”ほんとにそうするんですか。言うだけでしょう。それならやめてください”と言いたくなりますね。指導する教師も自分の生活を引き受けていない。それでは,子どもの追究が第三者的になるのも,無理がない気がします。”いい子ちゃん”はだめです。生活現実は矛盾に満ちたものです。その矛盾を引き受けて一歩を踏み出すためにはどうすればいいかということを考えなきゃ,弱いんです。
では,生活科や総合学習では何をやるか。私は「選挙に行く子と税金を払う子を育てる」なんて言っています。つまり自分の生活現実を自覚し,吟味し,穏当なやり方でちゃんと更新していこう,そのために人とつながっていこう,という子どもたちです。それは市民として,生活者として強いということじゃないでしようか。
逆に言えば,いまの青年たちは残念なことに多くが社会の動きに無関心です。穏当な形で政治に参加しようとしない。「環境問題なんて知らない」「私のせいじゃない」「知ったこっちゃない」,自分のことしか考えない。それは生活が自覚できていないからです。吟味できていないから,日々自分の生活を新たにしようという動きが弱いんです。
もう一つのタイプは,自分のことは棚にあげてヒステリックな市民運動をする人たちでしょう(笑い)。
その二つしかない,そうじゃなくて,もっと穏当なやり方で人々とつながって,自分たちの生活のあり方を日々,更新していこうとする子ども。「生きる力」ってそういうことじゃないでしょうか。そういう子どもたちを育てるには"いま,ここ”での自分たちの生活現実を自覚し,吟味し,更新していくという営みを,小学生でもやらなきゃいけない。6歳であれ,もう市民ですから。7歳児がダイオキシンのことに気をもんでいるんですから。ならば,そこからやるしかないんじゃないでしょうか。だから書物を教えるということと別に,生活実践課題として現代社会の問題も扱っていくんだと思います。
もちろん,子どもたちだけでは自覚できないこともたくさんあります。だから先生が場づくりをし,投げかけをし,「このことはどうだろう」と問題提起をして考えさせていく時間があっていいと思います。彼らが潜在的に気がかりに思っていることを盛り立てていけばいいんじゃないでしょうか。たとえば阪神淡路大震災のときに,先生方の学校でも朝の会でそのことが話題になったと思います。子どもたちの意識には,ボランティアのことや防災のことや福祉のことがあって,そういう話題が出たはずです。そこを見とって盛りたてて,そのことを追究活動にまで仕立てていく力が,ぼくらに要求されている力じゃないかと思うんです。
でも多くの教師はこうしたはずです。「なるほど。立派な人がいますね。皆さんも将来大きくなったらそういう立派な人になってほしいと,先生は願ってますよ。じゃ,いまは何が大事かな。ハイ,国語」(笑い)。
そういうときにはたとえば「うん,ボランティアねえ。そういうことなら先生も行きたいと思うけど,先生は君らの授業があるからなかなか神戸まで行けないなあ。神戸に行っている人たちは仕事はどうしているのかな」と,一つおたずねを出してみるといいですね。「そうだ。どうしているんだろう。じゃあ先生,ぼくあした調べてくるね」。翌日になって「先生,わかった。ボランティア休暇というのがあるんですよ。公務員もあるみたいだから,先生も神戸へ行けるよ」(笑い)。「駅の前を掃除しているおぱさんに聞いたら,あれもボランティアだって。先生,明日から駅の前を掃除するといいよ」(笑い)。こんなお節介な子どもも出てきます。そのうちに必ず,「先生,ぼくたちも自分たちで何かボランティアができないかなあ」と言う子どもが出てくるものです。「そうか。じゃあ総合の時間にそれやろうか」
似たような流れで成立した実践がありますね。横浜の日枝小だったと思いますが,五年生が一年間ボランティアをしたという実践がありました。そういう,子どもの生活のなかでのちょっとした気がかりや潜在的な求めがあるはずです。子どもだけでは自覚できないかもしれません。それを先生が盛り立てて刺激し,誘発して,活動にしていく。そういうことをしてくださればいいんじゃないですか。
いずれにしても,子どもたちが暮らしのなかで気になること,やってみたいと思っていることからスタートして,それを生活実践課題として扱っていくということでしょう。
単元の構成原理
次に,単元の構成ということを考えてみましょう。単元をどうつくるか。これも生活の教育と書物の教育ではずいぶん違ってきます。書物の教育では基礎から応用に向かいます。基礎を積みあげていっていつか応用,いつか実践というふうになっていく。それで何の問題もありません。学問ってそういうものです。よくわからないけどとにかくやっていく,やっていくなかでわかってきて,むしろ学び終えたときにようやく応用できるというのが,学問の特質でしょう。
それに対して生活教育は逆です。応用や実践が先にある。先生方もそうですね。教師としての実践が先にあって,そのなかで”もっとこうしたい””これがうまくいかない“というので基礎に戻りますね。生徒指導の問題があって実践が行き詰まったときに,本を買うに行って基礎を学ぶ。応用や実践が先にあって基礎に戻るという筋道をとります。このへんが教科と違います。だから基礎から積みあげたりはしないんです。
もう一つ大事なのが活動と内容の区別です。教科は書物ですし学問ですし文化遺産ですから,内容が先にあります。あるいは「この内容をやって,次にこの内容をやるべきだ」というのが,内容系統の構造によってあらかじめ決まってきます。それは厳然たるもので,守るべきものでもあります。それをゆるがせにしてしまうと,教科としての意味がなくなってしまう。だから内容が先にあって何の問題もありません。
しかしその内容は,子どもたちが端からやりたいわけではありません。意味を感じているわけではありません。子どもたちがもともと意味を感じていない内容を意味があるものにするところに,教師の力量が問われていたし,そのために発問や教材の研究に心を砕いてきたはずです。内容から活動や教材を生み出す。内容というのは,この場合は指導要領の内容ですよ。教科書は活動,教材ですから。
それに対して,生活教育では活動が先にあります。子どもたちにとって意味のある生活の実践があります。”やりたいこと””"気になること”があります。それが活動ですね。活動をやっていくうちにそれが内容に結びついてくる。
先生方の教師としての実践もそうですね。実践が先にあります。生徒指導の内容を学ぼうと思って多動の子を三人引き受けるわけじゃない。多動の子が三人,人っちゃったから生徒指導のことについて学ぶんですね。内容を学ぶ。これは生活ですからあたりまえなんです。単元もそういうふうに構成しなければいけません。子どもたちにとって意味がある活動をやっていく中で,結果的に内容が入ってくるように,という発想です。すると教材研究のやり方も全然変わってくる,ということがおわかりになるはずです。ぼくらは,先に内容があってそれに向かって意味のある活動を組織する,というふうに教材や発問の研究をしてきました。だから収束するはずです。それでいいんです。それに対して活動から内容を生み出そうとすると,収束しません。一つの活動をやっていくなかで出会う可能性のある内容は多岐にわたります。だから拡散的になります。教材研究を拡散的にするんですから,いままでとは別な手法が必要になります。
そういう手法として開発されたものにウェビンヴというのがあります。レジメ(後頁参照)の下にその一つの例を示しました。これは1年生の,サツマイモを育てるという場合のウェビングです。真ん中に題材の「さつまいも」があります。子どもたちがサツマイモをめぐってやるであろう活動,あるいは,それをやっていく末に気づいたり学んだりするんじゃないかと予測される内容が,どんどん外に向かって拡散的に書かれています。サツマイモひとつ育てるにしてもいろんな活動が展開可能であり,いろんな内容につながる可能性があるということがわかります。一年生がサツマイモを育てるのに教師はこのぐらいのことを考えて材研究をしているだろうか,ということです。”サツマイモを育てればいい“んじゃないんです。サツマイモを育てるというのは活動です。それは学びじゃない。活動のなかで,自分たちがいまサツマイモを育てているという学校生活の現実についていろんな自覚が生まれ,吟味が行なわれて,”こうしていこう“という更新が起こってくる。そのなかでいろんな学びが生じるので,教師はそこを教材研究で予測しなきゃだめです。

総合学習をやるときに,こういうウェビングがすごく大事です。サツマイモを育てていくなかで,バイオ技術の問題とかいろんな保存法の問題とか,サツマイモの伝来から「青木昆陽」とか「ラテン・アメリカ」まで出てきますね。「おじいちゃん・おばあちゃんに手伝ってもらう」という活動をとおして,日本の歴史や戦争時代の話,そしておやつの問題から食品添加物の問題,安全な食品ということも出てきます。ここに例示された「国際理解,情報,環境,福祉・健康」のいくつもが入っているということがおわかりになると思います。
もっとも,「国際理解,情報,環境,福祉・健康」をやるためにこういう活動をしているんじゃないですよ。そうじゃなくて,子どもたちがやりたがっているサツマイモづくりという活動から,子どもたちの生き方・在り方がより強くなるようにと願って,教師はこういう教材研究をしているんです。
もちろん,これを全部やるんじゃないんですよ。これは地図みたいなものです。そして,この上を子どもたちが歩いていくんです。いろんな求めや願いをもってこの中の活動をいろいろやっていく子どもたちを追いながら,ときにその子どもたちを後押しするんですね。一年生で青木昆陽やラテン.アメリカやバイオ技術にまではいかないだろう。ぼくもそう思います。だけど教材研究としてはこのぐらいやっておいたほうがいいです。どこに行くかわからないんですから,万に一つでも行く可能性があれば書いておくべきです。これは地図ですから。地図は大きくて詳細なほうがいいでしょう。こういう地図を持たずにサツマイモを育てても,なかなか学びは生じません。それは「はい回る経験主義」です。そういうことをしちゃいけない。だから教材研究が何よりも大事になります。
一つの例をお話ししましょう。
台東区の小学校5年生が伝統工芸の学習で埼玉県の小川町に見学に行って,帰って来て「ぼくらも紙をつくりたい」と言い出しました。牛乳パックからの紙づくりという活動を通してどんな内容が展開されてほしいと先生方はお考えになるか。それは決まっていますね。環境問題,リサイクルのほうに行きたいな,ということでしょう。ただ紙をつくっても仕方がない。そういうのをウェビングしなきゃいけない。そっちにもっていくための手だて,刺激する手だてを考える。
ところが,いくら投げかけても子どもがのってこないということがよくあります。だからといって強要しちゃいけません。生活ですから,あくまでも子どもたちの動きのなかでやっていく。子どもたちが何をしたがっているかをよく見ていた担任が,あることに気がついたんです。子どもたちはどうも,紙をたくさんつくりたがっているようだ。紙をたくさんつくるということから,生産とか労働とか流通とか,そっちのほうへ行くかもしれない。それもまた大事な内容ですね。そこで,その方向へと子どもたちを後押しするある手だてを担任は考えました。その学校では毎年,6年生の子どもたちが芸術祭で短冊に習字をするんです。6年生の担任とも話し合って,先生は5年生にこんな話をしました。
「6年生たちがね,5年生が紙をつくっているというのを聞いて,芸術祭で書く短冊を五年生がつくってくれないかなあって言ってるんだって。先生は無理だと思うけど,どうかな」「できるよ,先生。ぼくらやる,やる」と,子どもたちは大喜びです。
「いや,あんたたち,できないんじゃないの? 安請け合いして,あとで面倒なことになっても知らないよ」
「なに言ってるの,先生。ぼくらこれだけやってきたんだから,やれるよ」
「じゃあ,6年生のところへ行って相談していらっしやい」
子どもが6年生のところへ行って契約してくる。ところが,試作品をつくってみたら,でこぼこで字が書けない。品質をもっと高めなきゃいけないという問題がにわかにもち上がります。また,10ぐらいの工房に分かれて活動していましたけど,工房によって製品がばらばらではいけない。いちばん習字が書きやすい大きさを調べて規格をつくらなきやいけない。品質を向上させるための技術革新をして,品質管理をして規格をつくって,そのための道具も揃える。これは設備投資ですね。”いつまでに何百校“と決まっていますから,それに間に合わないといけない。「日産何枚」と決めて計画生産をやります。そうこうしているうちに原料の牛乳パックが足りなくなるんです。「どうしようか」「6年生に集めてもらおう」ということになりました。6年生に集めてもらった牛乳パックが,5年生たちの技術と労働を経て新たな価値として創出されて返っていくという経験ですから,これは生産の現場そのものです。実際に労働による価値の創出という経験をするわけです。最終的には芸術祭に間に合うように納められて,芸術祭のときには五年生の子どもたちは「立派な習字だなあ」と見ているんですが,誰も字なんか見ていないく笑い)。紙ばっかり見ています。
いまの実践も,先生の手だて一発なんです。先生が教材研究をして,紙づくりからどんな内容,教育的極値が実現されるか,それによって彼らの生活がどう強くなっていくかということを見通して,適切な手を講じていったんですね。このあたりが,勘どころになってきます。それをしないでただ子どもたちがやりたいことをやらせるだけではだめです。それは「はい回る経験主義」です。
単元の構成原理として「応用から基礎へ」「活動から内容へ」というのが厳然としてあり,そこでは教材研究や教師の出ということが大事だ,ということを申しあげてきました。その文脈にそって「初めに内容ありき」「初めに子どもありき」という言葉がよく使われます。これは東京学芸大学の平野先生が最初に定式化された言葉ですが,最近いろんな意味で使われていて,先生自身「困っている」とおっしゃっていましたが,こう考えればよくわかるんですね。
教科は学問,科学,文化ですから,初めに内容があるんです。「はじめに内容ありき」ですね。それは教科の本質です。それに対して生活教育の文脈では「はじめに子どもありき」。つまり子どもにとって意味のある活動や,子どもの願いや,子どもの気がかりがまずあるんです。そこから出発するんです。「はじめに」ということが大事ですね。どっちから行くかということであって,子どもか,内容かという対峠ではありません。
教科でも,内容があるからといって子どもを無視するわけじゃないですね。その内容が子どもにとって意味のある活動になるように,ぼくらは教材・発問の工夫をしてきたはずです。それと同じで,はじめに子どもから入って,より深く,高い内容に結びつくように,生活科や総合学習ではそこを工夫するんです。生活教育でも,教師の指導性や意図性は大事です。ただそれは,先生が価値があると思う内容に子どもを引っぱって行くのではなくて,子どもにとって意味のある活動から教師から見ても十分に価値のある内容をつくり出していくという筋道で進まなきゃいけないというわけです。
こう例えればいいかもしれません。教科ではぼくたちは,これだけの栄養素を摂らせなければいけないというリストを先に持っていました。そのリストをクリアするように献立や味付けを工夫していったわけです。時に無理がありました。
生活教育では,子どもが好む味付けからスタートするんです。子ゼもが食べたがるものからスタートする。しかし子どもが食べたがるものだからといって,栄養に偏りがあったり体に悪いものではいけません。結果的に,子どもたちにとってより栄養になるものをつくっていく。そこに教師の力量が出てきます。「子どもから」あるいは「応用・実践から」というのはそういうことです。
カリキュラム
さて,カリキュラムのことも考える必要があるでしょう。計画性の問題です。
これまでお話ししてきたように,生活教育ではきわめて柔軟なカリキュラムをつくることが要求されるというのが見えてきます。書物教育の場合は,カリキュラムは計画したとおりに進みます。それで何の問題もありません。なぜなら書物だからです。書物は1ぺージから300ぺ-ジに向かって,日課,日課に分けて段階的に進むという学び方をするものです。だからぼくらは,カリキュラムというのはあらかじめつくられるものであり,その通りこなしていくものだと思ってきました。予定が遅れることは悪いことだと思ってきました。それは正しいのです。書物を教えるんだからそうなります。
生活教育はそうではありません。たとえばぼくの5歳の子どもが,「お父ちゃん,今度の日曜日,どこ行くの?」と訊いたとしましよう。
「そうだね。動物園へ行こうか」
「暑いから,ぼくはプールヘ行きたい」
「そうか。ちょっと待ってね。お母さんと一緒につくっておいた君の5歳のカリキュラムを見てみよう。毎日毎日このとおりにやっていくと君は立派な6歳児になって,問題なく小学校に入学できる。ちょっと待ってね。ええと,7月の第1週の日曜日は・・・,あ,動物園となってますよ。プールは2週目からとなってますね。残念でした」(笑い)。
雨が降っても矢が降ってもカリキュラムどおり,動物園。そんなお父さんがいますか? 生活ですから,子どもと相談すればいいんですよ。このカリキュラムというのは生活の勉強をするカリキュラムですから。生活は混沌です。本を1ぺ-ジから300ぺージに向かって学ぶのではありませんから,相談しながらやれぱいいんです。
相談するということは迎合することではありません。「プールヘ行きたい」「動物園へ行きたい」という子どもに振り回されることではないのです。子育ては普通そうでしょう。3歳のころにはこんなことを経験させたい,この季節にはこんなことに出会わせたいという,子育ての方針,願い,親なりの考え方をちゃんともっていなきゃいけません。そして相談するんです。子どもを無視して親が決めたことをやっても子どもはまともに育ちませんし,子どもが言うことに迎合しても子どもはまともに育ちません。子育ての方針をもって,現実にその場,その場で相談しながら進めていくんです。
学校のカリキュラムも生活教育である,生活科や総合学習では,同様に考えればいいでしょう。教師として,あるいは教師集団として「○年生の子どもにはこんな経験をさせたい。△年生の子どもにはこんなことを考えさせたい」,それは計画としてぜひおもちください。4月当初の計画のカリキュラム〜ぼくらは「計画カリキュラム」と呼びますが〜はもっていてください。ただ,それがそのまま毎日実行されるのではありません。生活ですから,それは相談しながら修正されていきます。進みながら変わっていくんです。
生活教育ではむしろ,3月31日のカリキュラム,つまり実施した結果いわゆる「実施カリキュラム」が大事です。「学習履歴」という言葉が最近よく言われますが,それは3月31日の実施結果としてのカリキュラムということです。そちらのほうがむしろ中心になります。これは計画カリキュラムがないということではありません。計画カリキュラムをもちながら,修正してきた結果を全部記録に残すということです。なぜなら,それがほんとうに子どもが経験したものだからです。そして,翌年の計画カリキュラムはその実施カリキュラムを基につくります。これは予算と決算です。予算は立てます。しかし現実を無視して予算どおりにやろうとすると,2月と3月は,大した意味もないのに,あちこちの道路をほりかえすことになるでしょう。お役所仕事ですね。学校も役所なのかなあと思ってしまうのですが,やめましょう,そんなことは。もっとも教科は予定通りきちんきちんと進んでいくことでいいんです。書物ですから納得できます。しかし,生活教育でそれをやるのはナンセンスです。実態に合わせて決算をやっていってください。決算が予算とずれることはなんら構わないんです。翌年の予算は決算でつくる。それをしないで先生方だけで予算を立てて,子どもを無視してお進めになって,その予算を前年どおり繰り返すということをするから,その先生方のカリキュラムはいつまでたっても子どもの現実から離れたものになるんです。手どもの現実を見て相談しながらお進めになり,決算をし,その決算を基に翌年の予算を立てる。決算,予算を繰り返していくと,そのうちに予算のなかに子どもの現実が入り込んできますから,その予算は子どもからずれないですね。そうすると修正する部分が減るんです。いいカリキュラムをおもちの学校は,そうやってつくってきたんです。
たとえば,国大の藤岡先生がご指導になった静岡大の浜松小学校は,いいカリキュラムをもっていますが,あれは長年,予算・決算を繰り返してできてきたんです。先生方もぜひそうおやりください。ご自分の学校で子どもたちに考えてほしいこと,伝えたいこと,ぜひ学んでほしいことを,教師集団でお考えになってください。もちろん,子どもたちにとって意味のある活動,子どもたちがやりたがっていることや気がかりなことを考えながら。で,子どもたちに投げかけて,子どもと相談しながらお進めください。そうすると,3月には全然違った結果になるでしょう。それでいいんです。予算,決算を何年か繰り返してください。3年繰り返せばいいカリキュラムができます。いまからやれば間に合います。先生方が職員室でつくったカリキュラムがそのまま教室で展開されるとは,ゆめゆめ思わないでください。なぜか。生活だから。書物じゃないから。教科のカリキュラムとのコントラストでお考えになると,よくわかると思います。
評 価
評価についても同じだろうと思います。教科は内容があるんですから,その評価は内容や目標に照らした評価が基本になります。何の問題もありません。もちろん,あらかじめ想定したもの以外の部分が子どもに育ったならば,それも見とって評価したいですね。いわゆるゴール・フリー評価。目標にとらわれない評価です。
生活教育では,学習履歴が中心になります。子どもが何を経験したのか,何を学んだのか,どう育ったのか。それを事後的に記録に残していく。そうやってできた子どもの学びの履歴そのものが評価になります。いま「ポートフォリオ評価」と言われていますが,あのポートフォリオというのはそれを子ども自身がつくるんですね。子ども自身が,自分の学びの履歴を自力でつくっていく。なんのことはない,日記みたいなものです。自分の日記やアルバムを自分でつくるようなものです。そんな難しい話じゃないんですが,ただ,従来の評価のイメージを変えなきゃできません。生活の評価ですから,生活の記録,成長の記録が評価になるんです。そう考えれば評価ということは難しくありません。
ずっと見てきましたように,書物教育と生活教育は違います。そして書物教育には書物教育の論理があり,生活教育には生活教育の論理があり,両方とも必要なんです。ただ,ぼくらは書物教育のプロとして養成されてきましたから,生活教育についてもつい書物教育で考えるわけです。そこをもう一度見直していただきたいと思います。そうすると,ぼくたちは生活教育のプロじゃないんだ,と思われるかもしれません。でも生活教育というのはごく普通に市民がやっていることです。皆さん方の多くが,自分の子育てのなかでやってみえたことです。それを学校でもやってくれ,というだけのことです。なにも難しいことではありません。と同時に,ぼくらが書物教育のプロとしてやってきたこと(教科)については,そのことをむしろはっきり意味づけて,従来以上にちゃんとやっていくことが大事だろうと思います。その意味でこの二つはなんら対立しないということです。
3 子ども中心と大人中心
大人中心の総合的な学習最後にもう一つ,子ども中心と大人中心ということを考えたいと思います。
書物教育と生活教育とを対比して考えてきますと,こんな誤解をされるかたがあります。「なるほど,生活科や総合的な学習は子ども中心。しかし教科は大人中心でいいんだ」,つまり教科は教え込んでいいんだ,と。それでいいんでしょうか。それでほんとうに教科の力がつくのでしょうか。.教科か総合かということと,大人中心か子ども中心かということは,別の次元だと考えたらどうでしょう。つまり文化遺産と対決する,生活現実と対決する,それが教科であり総合学習だ,対決する領域が違うんだ,と。授業を大人を中心にやるか、子ども中心にやるかというのは,それとは別の次元じゃないかということです。
42ページに表2(本文では構成を変えたので別ページ)というのをつけましたが,2×2で4つの実践の姿が考えられるわけです。つまり,教科についても大人中心の教科と子ども中心の教科とが考えられるんじゃないだろうか。そして総合的な学習についても,いまは当然のように子ども中心で考えてきましたが,分科しない生活の現実を何かの形で学ぶということでは,大人中心でやることも可能なんですね。これは空恐ろしいことですが。
たとえば,何年か前にはこんな実践がよくありました。
「さあ,きょうは環境の学習です。みんな,牛乳パックを持ってきたかな ?」
「はい,先生に言われたから,何だかよくわからないけど持ってきました」
「じゃあ,それでハガキをつくってみよう」
「はい」
はがきをつくります。
「先生,はがきが2枚もできました」
「そうだね。普通だったらゴミになっていたものから,はがきが2枚もできました。これをリサイクルと言います」
「はあ」
「大事なことです。こうすればゴミにならないで資源が有効活用できます」
「はい」
「だからこれからは皆さん,リサイクルに取り組んでいきましょう。これで皆さんの21世紀はバラ色。ハイ,終わり」(笑い)。
こういう授業をしちゃいけません。つまり,生活のあるべき姿を教師があらかじめ固定化し,正解として教え込もうというやり方。生活を正解として教え込もうというのは,すごく危険ですよ。だって,教育勅語と同じですもの。
「国際理解,情報,環境,福祉・健康」は現代的な新しい課題だとお思いでしょうが,論理が教え込みであるかぎり,その構想は戦前の教育と同じです。すごく気をつけなきゃいけないことです。「社会とはこういうものだから,あなたたちはその社会に適応しなさい」と,あるべき生活を大人が決めて教え込むやり方,それは可能ですが,そういうのを教育学の言葉で「社会適応主義」といいます。社会というものを固定化し,子どもたちにはそれに従属的に適応することが求められる,という考え方です。これは非常に危険な考え方じゃないでしょうか。「国際理解,情報,環境,福祉・健康」をはじめとした生活の学習というのは,ややもすれば社会適応主義に陥る可能性があるんです。ぼくらが教え込みをすればそうなります。しかし,生活に答えなんかありません。生き方に唯一絶対の真実なんかありません。生活の主体である子どもたち自身が悩んで求めていくものです。
もちろん「ぼくがこう生きようと思うんだから,それでいいじゃないか」というのではだめです。だからこそ科学や学問が要るんです。教科で学んだ知識がそこに使われるんですね。知が総合化される。自分の生活実践課題を考えるうえでどうすればいいか,そのよりどころはやはり科学や学問,あるいは民主的な討論でしょう。だから学校でやるんですね。仲間がいて,学問や科学があり,それを指導してくれる先生がいる学校で,生活の問題を考えるんだろうと思うんです。いずれにしても,大人が正解を決めて教え込んでいくような総合的な学習というのは,きわめて危険です。それは大人中心の総合学習です。子ども中心ではありません。しかし,そういう形でやる先生はそう多くないと思いますね。生活科や総合的な学習というのは非常に素朴に考えても子ども中心になりやすい。子どもの”いま,ここ“での生活現実から立ちあがりやすいでしょう。
教科のほうが難しい
ただ,やっていくとこういうジレンマが起こってくるんです。生活科や総合的な学習の時間は子ども中心で,子どもの声を聞きながら,相談しながら進めていく。先生もニコニコしています。ところが教科の時間が始まった途端に目の色が変わっちゃって,「ハイッ! 算数!」と,指示命令です。ほとんど二重人格(笑い)。さっきは「いい」と言ったのに,今度は「だめ」と言う。子どもはどうしていいかわからない。生活科でやってきたように,あるいは,これから総合学習でやっていくように,子どもの願いや気がかりや活動を大事にしながら教科をやることはできないでしょうか。できますよね。というより,教科のいい授業って全部そうなんです。子どもにとって意味のある活動として,子どもの願いや気がかりを原点として,しかも系統的な学習をし,学問的な深まりが出るような授業。それが,教科のいい授業だったはずです。いままで見た教科のいい授業を思い出してみてください。全部そうです。それは子ども中心の教科です。十分に可能です。ただ,すごく難しいです。子どもにとって意味がある活動で,なおかつ系統的に学問をやるんですから,とんでもなく難しいことです。総合のほうが簡単なんです。いまは先生方は総合的な学習は難しいと思っておられるでしょう。とんでもない。教科を子ども中心でやるほうが何倍も難しいんです。総合的な学習を子ども中心でやるのは簡単。もちろん,子ども中心でやりながら深まりをつくるのは難しいですね。でもそれは今日,お話ししたやり方で,2,3年進めてくだされば,次第に勘どころがつかめてきます。
これまではややもすれば,大人中心の教科学習が学校では支配的でした。だから子どもたちは「学校には,やっちゃいけないこととやらなきゃいけないことしかない」と言うんですね。今度,生活現実と向かい合う総合的な学習や生活科が生まれました。それは多くの先生がかなり素直に子ども中心でおやりになれるはずです。すると,天下り的な教科学習と生活創造としての総合的な学習という,それこそ大人中心と子ども中心と,その両方が入り込んできます。そのときに先生たちは,自分のなかに矛盾を感じるはずです。その矛盾を,教科をさらに改革する方向で解消していってほしいと思います。
つまり,教科も子どもに返していくということです。それは系統性をないがしろにするということでは決してありません。系統性は教科の本質です。それを維持しながら,子どもにとって意味のある,楽しい活動で授業を構成していく。それは先生方がこれまでやってこられたことですが,そのことをもう一度確認したい。
ただ多くの先生にとって,教科をいきなり子ども中心に返すのは途方もなく難しい作業です。むしろ,生活科や総合学習でそれを練習してください。生活科や総合学習は比較的容易に子ども中心になります。そちらで練習されて,「子どもというのは任せればちゃんとやるもんだ」と,子どもと相談しながらカリキュラムをつくる感覚をおつかみになってください。その勘どころをつかまれてもう一度教科に戻ってほしいんです。各先生方の研究教科からで結構です。そのとき,学校という場所はどういう場所になるでしよう。生活科や総合的な学習の時間は,子どもたちが生活のなかでの気がかりや,やりたいことを追究する場ですね。そして教科も子どもたちに返してくださると,教科も子どもたちにとって,”やりたいこと”になります。すると子どもたちは「学校には,やりたいことしかない」と言うかもしれません。そのとき,いまの教育改革が完成するんだろうと思います。ぜひ,総合的な学習の時間や生活科を一つのステップにして,そこを実験場にされて,一度練習してください。なんたって教科書がないんですから,むしろいい実験場なんです。子どもたちにとっても学校という場の空気のとらえが変わってくるでしょう。そしてさらに教科へ進みましょう。そして教科も総合と同じ原理,つまり子ども中心に返していきましょう。繰り返しますが,子ども中心というのは,子どもに迎合するわけでも甘やかすわけでも系統性を無視するわけでもありません。彼らが学びの主体になる,彼らの問題解決を柱にすえるということです。でも,いままでだって教科のいい授業というのはそうだったんですね。そういうふうにお考えになれば,生活科や総合的な学習の,先生方の学校経営における意味もはっきりしてくるように思いますし,同時に教科も改革していくんだということも見えてくると思います。あるいは,総合的な学習の時間をつくることは教科を否定することでも何でもないということも,見えてくると思います。子どもたちにとって必要な2つの学びの場,書物あるいは文化遺産をとおして生き方を学ぶ場と,生活現実と対決しながら,生活実践をとおして生き方を学ぶ場という二つの学びの場を,学校のなかに調和的に形成して,学校という場を子どもにとってもっといい場にしていこうということを目ざしているわけですし,総合酌な学習の時間というのはそのいいきっかけなんだ,ととらえてくださればいいなと思います。
長くなりましたが,終わります。(拍手)
(出典 不明)
2000/5/26/金