【対 談】
学んだ内容よりも学び方を重視
――現在,「総合的な学習の時間」は,2002年からの導入を前に全国的に研究指定校で取り組まれ,各校の報告書も出てきています。そこで本日は山崎先生と平田先生に,それぞれ研究者と現場の教師という立場から,研究指定校の実践報告などをふまえてお話しいただければと思います。
ここに京都市の御所南小学校の研究紀要があります。これは「総合的な学習の時間」である「かがやき」を中心にした研究実践の報告書です。これを読んでの感想などからお話しいただけますでしょうか。
たとえば,六年生で歴史学習をしていますが,ここでは学び方や調べ方が重視されていますが,子どもたちは歴史学習として何を学んだかという点では,たとえば歴史上の人物の「よいところ」「生き方」など疑問をもたざるをえないのですが……。
山崎 この結論はちょっと……。ただ学習指導要領の「総合的な学習の時間」の「ねらい」に「自己の生き方を考えることができるようにすること」という文言があることもあって,歴史上の人物に限らず,地域の人たちやボランティなどに参加している人に学校で話をしてもらって安直に子どもの生き方に結び付ける例は,研究指定校などでままみられるパターンです。
平田 私は,すべてがそうなるのではないかと危惧しています。環境教育の例がよく出されますが,せっかく理科や社会の理解を踏まえながら環境教育をしていくのに,最後は「結局,自分たちは何をするか」というところにもってきます。典型だと思います。
――日常生活の経験的なレベルにとどまる,というか……。
平田 おそらく,そういう認識を持たせることが目的なのでしょう。つまり,そこでどういう体験をして,どういう調べ方・学び方を学んだのか,それを見つければいいというような……。
山崎 こうした結論で終わってしまった場合,中学にいったときにどうなるか心配になります。
平田 問題解決学習という方法が総合的な学習の時間に 正しく使われるか,ということではないでしょうか。歴史教育というのは,ある意味では事実を教えることです。調べるも,事実を一つひとつ並べていくことです。そのことからどういうことがわかったか,小学校は小学校なりに法則のようなものを学んだり,歴史的背景を学んだりします。
ところが,それを調べ学習とか問題解決学習というかたちで,子どもたちに好きなところを選ばせてやらせるのなら,何をそこでのねらいとするのか。そういう意味で単に総合学習で何を教えるかだけではなくて,どんな方法でやるのかという部分がかなりの意味をもってこざるをえないでしょう。ですから,そのあたりを突っ込んで研究しておかねばという気がしますね。
山崎 そうですね。この「かがやき」の場合,学んだ内容に少なからず問題があるのだから,これで学び方・調べ方が身についたと判断することも誤りだと思います。内容を抜きにして,とにかく子どもが動いていれば,それで学び方・調べ方を学んでいるという錯覚が一部にみられます。中学校以上においてはとくに学び方が強調され,やっていることは,ディベートをさせたりパソコンやOHPなど視聴覚機器を使って,調べたことをプレゼンテーションさせようというものです。
ただ,そこでは教師が内容的に充実させるような指導をしないと,道具を使って発表したりディベートしたりして子どもは動いているように見えても,学びにはなっていないことが起こるおそれがあります。
いい実践,悪い実践,簡単に判断できません。たしかに入口はいろいろあっていいと思います。入口はそれでいいと思います。しかし,体験がその学校や学級の子どもの教育的ニーズの観点から吟味されて組織されていないため,体験の結果が自然や社会の確かな認識にむすびついていない。
結局動いて終わり,あるいは卑近な「心がけ」のレベルで「自分にできること」をやったり,考えたりで終わっている気がします。
――文部省のいう「自ら学び,自ら考える」とか調べ方といったものは,小学生の段階で可能なのでしょうか。一定の知識と教師の指導があって初めてできるのでは……。
平田 本来は子どもたちのある程度の学習が前提になった話だと思います。そこで初めて「ぼくはこの課題をやりたい」となる。そうなってくると年齢的には,昔なら中学年の四年生あたりからやれないこともなかった。ところがいまの子どもたちの実態は,子どもの荒れとの関連もあるけれども,とても幼くなってきています。それに体験・経験もすごく不足していて,子どもの成長にブレーキがかかっています。だから,もっともっと年齢があがらないとできないのではないでしょうか。こういった学習方法・学び方は,子どもたちの現実とも合っていないと思います。
山崎 ただ,そこで少し気をつけなければならないのは,だからといって文部省がたんに見当はずれのことをしているとか,この「総合的な学習の時間」が「ゆとりの時間」のようにフェードアウトするなどと判断するのは早計だということです。「学校スリム化」「複線化」という昨今の「教育改革」の流れにあっては,「総合的な学習の時間」は一面,きわめてエリート主義的な色彩を帯びています。
つまり,全体としてある水準を維持するというよりは,一部の学校,一部の子どもが成果をあげてくれれば,それで文部省としての目標は達成されるという性質のものなのです
---御所南の場合は,「かがやき」に高学年で280時間,週8時間を配当していますが---。
平田 はい,一年生でも204時間とっていますね。それと御所南ではパターンが全部決まっています。「ふれる」「つかむ」「向かう」「生かす」という四つのパターンに分けています。一つの課題を学習していく過程で必ずその段階を踏むようにしています。しかも,そのなかで,集団・個人・グループの数になるように,すべてパターン化しています。そして,最後に表現をする,発表をする。それも決まって劇とかコンピュータとかビデオレターといったものです。
コンピュータでまとめるほうがよほど時間もかかるし,たいへんな作業です。情報教育を総合的な学習の時間のなかに採り入れないといけない,という一種の強迫観念があるのだと思います。私たちも子どもにやらせますが,コンピュータでワープロをやるのはたいへんです。
――「生かす」は,生活に生かすという意味でしょうか。
山崎 自分の生き方を考えましょう,ですね。
平田 だから,歴史を学んでも「人権意識がなかった」となる。環境を学んだら,「ごみを捨てるのはやめましょう,ごみを少なくしましょう,自分の身の回りはどうでしょう」となってくるわけです。これで歴史がくくられたら,たまりませんね。
――その意味では,歴史はいわゆる問題解決学習の有効範囲を越えてしまいますね。
山崎 問題解決という点で言えば,戦後初期の京都で,「西陣織」という実践がありました。1950年代,西陣織産業が群馬や福井の機械化された安価な絹織物に押されしんどくなってきたときに,どのように西陣の絹織物業を発展させるかを子どもたちが探究したものです。工場へ見学に行ったり他地域と比較したり,歴史的にみたりするなかで,あくまでも当時の西陣の抱えている問題に対して子どもたちなりの解決をまとめて実践はしめくくられます。
これと比較して,最近の「問題解決」なるものの質を典型的に示しているのは,たとえば北九州市のある学校です。生活創造科ということで,教科統合でかなり時間をとって総合的な学習をやっています。「アジアを食べる日本の猫」ということで,ネタ自体はよくあるものです。日本のキャットフードは東南アジアでつくられており,魚も現地で買うので現地の人の口に魚が入らなくなった。人間用の魚と猫用の魚を分けるために現地の人たちが非に安価な労働力として使われている。
子どもがそれを調べて,結局,リサイクルが大事だということになってみたり,エコカードを集めて東南アジアに送りましょうとなったり,一般的な経済的援助という話になってしまって,日本人のライフスタイルの問題や,売れるからと何でも輸入するといった,もともとの問題にはたどりつかない。結局,「私たちにできること」ということで,非常に矮小な,もともとの問題とははずれたことをやって自己満足に終わる,というパターンがすごく多い。問題解決とか学び方といった美辞麗句は使っているけれども,その辺りはなんとも羊頭狗肉というか……。
平田 本来の問題解決学習とは相当に違いますね。そこに焦点を合わせただけでも,この「時間」はずいぶん問題があるのではないでしょうか。
――そういう意味では文部省が「問題解決的な学習」と「的」をつけているのは的確かもしれませんね(笑い)。
平田 環境教育の問題でも最近,必ずケナフが出てきます。ケナフは植物で,木を使わずに紙がつくれます。木を切らずに紙ができるから環境によいということで,ケナフ栽培を総合的な学習の時間として授業で取り上げているところもあります。ケナフは,植物としても教材としても全然一般的ではありません。たしかにケナフから紙を作れないことはありません。そんなことを言えば,紙なんて植物でさえあれば何からでもできます。教材そのものも本来の教材ではなくて,わざわざとってつけたようなかたちで総合的な学習の時間に使われている。そういう点では,いままでこんなことはなかったのではないかと思います。
――環境教育では,消費社会そのものまで見てもらえると意味があるかなと思いますが。
山崎 そっちにはいかないような介入が,教育委員会からはあると思います。大阪市の先生たちの学習会に話しに行きました。西淀川のように公害問題を取り上げてやっているところもありますが,管理職はそうしたものを避けたがるという話が出ていましたね。
平田 私は理科教育にかかわっていますが,とくに小学校での環境教育はとても難しい。先ほども言いましたが,往々にして最後は心がけや美化運動になってしまう部分がある。それは小学生のレベルの問題があると思います。
――環境対策の認識の豊かさみたいなところでとどめないと……。
平田 小学校段階では結論が出せなくても,さまざまな環境に関わる事実の一つひとつをきちんと認識として子どもたちの身につけさせることが大事ではないでしょうか。生活科のときにも子どもたちに社会認識をどうもたすかという話がありましたが,環境教育についても小学校では,「環境に対する問題としてこういう事実がある」にとどめて「だから,あなたたちはこうしないといけない」というところまで入るのは難しいと思います。ですから,やはりまず事実認識をしっかりやっていけばいいと思います。
山崎 問題は,科学的な認識の形成に至るのか,それとも生き方で終わるか,ですね。
平田 ところが,「総合的な学習の時間」ではそうではなくて,「結果,あなたたちはどうするんですか?」ということで,そうじをさせたり道徳主義的にやるわけです。私はそれが,総合的な学習の時間の本当のねらいだと思います。「自己の生き方を考える」というのはそういう意味だと私は解釈しています。実際にやっている人たちも,「自己の生き方」と子どもたちを結びつけなければいけないということでやっている。でも,それでは問題は解決しない。
全国の実践から
――御所南の実践からいろいろな問題が出てきましたが,山崎さん,全国でやられているなかでいい例も悪い例も,どうでしょうか。
山崎 いい例は,昔からやっているところということになりますね。和光学園はよく取り上げられますが,ここは教科カリキュラムのなかに週2時間を,三年生以上に置いています。時間割表上は,今回の指導要領に近いかたちです。御所南の研究紀要ではある種の非常に浅薄な教科否定論がありましたが,和光はそうではなくて,教科は教科としてきちんとやりながら,総合学習とも関連づけています。六年生の沖縄学習では,秋に学習・修学旅行で実際に沖縄へ行きますが,それまでに国語で沖縄の表現や文学作を見たり,社会科でも戦争,とくに沖縄戦について学習しています。何年か前に見学に行ったときは,ちょうどガイドラインの話が出始めた頃で,それについて子どもたちが街頭インタビューをするというので,私たちも聞かれたりしました。
伝統的に積み上げてきたものをいかしながら,そのときどきの問題も上手に取り入れる組み立てになっています。もちろん,子どもたちがどういうことに関心をもつかによって,教師があらかじめ百パーセント計画するわけではありませんが,各学年ともテーマはあまり変えません。この学年になればだいたいこのテーマということで,下級生のときにある程度の見通しがもてています。そのこともあって,それなりに学習に深まりが出ます。
小学校なら小学校三年生以上の発達に即して,三年生なら蚕という,ライフサイクルが一か月程度で子どもの関心も持続し,えさの桑の葉を集めるために地域の自然や人々との出会いもあるという学習の発展が見込める動物を飼育する。四年生は,第二次性徴があらわれ始めるので,自分たちの身体の問題や性の問題……,というふうに,子どもたちにとって必然性のある課題を伝統的に絞ってきている。そこが,我々にとって学ぶべき点ではないかと思います。
いまの研究指定校はそうではなくて,文部省のいう国際理解,情報,環境,福祉・健康です。国際理解・情報は,政府としてこれから力を入れたい分野として,とくに今後の日本の経済的動向を考えると,アジア諸国との付き合いがクローズアップされ,国際理解のなかでもとくにアジアを重視するという話になっています。
情報では,コンピュータがさわれるようにということで,小学校から無理やり押し込む。このように,政策的に重視する分野を一つおくということです。そして福祉は,健康保険制度はどんどん改悪され,介護保険も問題が多いなかで,国としても福祉には責任をもたないから国民のほうでやってくれ,介護の仕方もこの時間を使って身につけてくださいということで,つまり,お上の発想でこれが必要だというのが入ってきています。先にあげたような伝統的にやってきたところとは非常に違いあります。
その意味では,子どもから出発すると言いながら,研究指定校では実際の課題が本当に子どもから出発しているのか,本当にいまの子どもにとって切実な課題が選ばれているのかどうか,大いに疑問のあるところですね。
平田 初めに政策ありき,初めに活動ありきなんですね。たいていは四領域に縛られています。
校長の多くが「総合的な学習の時間は,うちの学校でないとやれないものを」と言っているようです。「うちの学校でないとやれないもの」というのはたしかに「総合的な学習の時間」の中心的な考えですし,いい面でも悪い面でも使える部分はあります。しかし実際に,自分の学校だけがその地域で特色あるかたちで出せることなんて,現実に小学校のなかでは,対象地域が狭すぎて,とくに都市部ではなかなかありません。そうなると,やはり四領域の部分でワァーッとやり始めるのではないでしょうか。
子どもにとって何が必要なのか
――京都市教育委員会は今年度から15時間,全国的には来年から可能なかぎり,「総合的な学習の時間」を入れていいとなっています。そして2002年からは週3時間,年間105時間となるわけで,そのときに私たちはどういう観点からこれに取り組んでいくのか。また,いま出された問題点などをどう乗り越えていったらよいのでしょうか。
山崎 先導的試行から「反面教師」をもう一つ挙げましょう。
愛知県のある小学校では「国際人へのパスポート」というタイトルをつけて,海外で協力している人たちにいろんな話を聞いています。それはそれでいいのですが,最後に「国際人って,いったい何だろう」という形でまとめるわけです。それぞれの人に話を聞くなかで,いろいろ興味深いことがあったはずですが,共通点ということにまとめてしまうと「国際的に活躍して云々」ということになってしまう。その意味では,国際理解も扱われやすいテーマですが,その場合は,一つの国や人とじっくり付き合うようにすればいいのではないかと思います。
文部省が例示している課題にとらわれる必要はありません。もちろん管理職や教育委員会との関係では,そちらに引っ掛けたネーミングなどを工夫する必要はあるでしょうが,内容的には,われわれとしてはやはり「子どもにとって何が必要なのか」をこそ第一に重視すべきです。たとえば現行学習指導要領は週六日制を前提として作成されながら途中から月2回五日制になり,時間の余裕がなくなっています。だから,もう少し時間があれば子どもにこういう追求をさせたい,ということがいままでだってあっただろうと思います。そこを,この時間を使ってどうするか。
あるいは行事をもっと発展させる。修学旅行の事前学習でもう少し時間を使えば,もっと実りあるものになるというように,あくまでもいままでやってきた教育活動の延長線上でそれを再構成していくなかで,何が必要なのかを探っていく。これが大事ではないかと思います。とってつけたような国際理解では,一般的には実りのある学習になりにくいのではないでしょうか。もちろん,そこでやりたいという先生がたまたまおられるということなら別ですが……。
基本的なことですが,学校がきちんとわかる授業をするとか,子ども一人ひとりを集団づくりのなかで見ていくということがやはり大切だと思います。今度の学習指導要領はますます,それができにくい構造になっているので,それをくい止めるという発想で,この時間の使い方も考えてほしいと思いますね。
平田 とくにこの時間では理科・社会の分野が多くなるだろうと思いますが,いままでのいろいろな実践のなかでもっと膨らませたい部分があったので,現実的にはそれをやっていくのがイメージとしてもいちばん湧きますし,四つの領域と結びつけやすい部分もあります。
もう一つは,教科教育は今度の学習指導要領でずいぶん後退したので,その分をどうするかを考えざるをえないと思います。この時間でなにか体験をさせるとしてどういう体験をさせるのか,教科の要素とのつながりを考えて選んでいくこともできるでしょう。教科教育の面で心配なことがたくさんあるなかで,それもこの時間のなかに取り入れられないか,そういうことを考えてみたらどうでしょうか。
子どもの体験をたかめる
――文部省は調べ学習や体験・経験をかなり強調していますし,今後,そういうものを組み入れながら「総合的な学習の時間」は展開されていくと思います。では,先ほどから問題になっていた,そうした体験・経験をもう少し高めるということになれば,教師はどうかかわっていったらよいのでしょう。
平田 実際,いまの学校では,五年生がちょっと隣の田んぼへ田植えを見にいくというだけで,事前に書類を提出しなければならない。そんな状況で百何時間も,どこかへ連れていったり,何かをさせたりするのは,到底できる話ではありません。そうなると構成としては,授業というかたちで調べ学習のまとめをしたり,
それをどう位置づけるか,子どもたちにいろいろな活動をさせる部分も出てくるだろうと思います。
そして,あまり無理せずに,いままでやれているものや,やれていないものをまとめていく。ただ,「総合的な学習の時間」にしても,年間の時間数のなかでやっていくものであって,行事のように単発でやるものではありません。私は生活科のイメージが大事だと思っているのですが,テーマとしては一定期間を設けてやるほうが内容的にいいものができるでしょう。そうなると,事前に相当準備をして年間計画を立てておかないと,取り組みは難しいです。
――いままでのような,管理職が「こうしなさい。ああしなさい」というやり方ではできませんね。
平田 できませんね。
山崎 よく聞くのは,教務主任ががんばって,机の上でプランづくりをするという話です。それをやっていくのはしんどいだろうなと思いますね。
平田 そう。机上のプランはうまくいかないと思います。
――いままでやってきた実践をもう一回点検して,そこからつなげられるのではないかという話でしたが,子どもの発想を大切にするということとはどう関連させていけばいいのでしょうか。
山崎 大きなテーマは教師が出していきながら,そのなかでとくにどの部分をというのは,ある程度子どもに任せていくということはありうると思います。
平田 大部分はそうなると思います。いま学校で,すべて子どもの発想でやろうと言えば,現場は「そんなの無理」と言いますよ。いくつかの大きなテーマ(大単元)は,やはり教師がつくっていかなければなりません。子どもの発想を導入するとしたら,その後になりますね。
(構成/文・矢田智子)
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