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総合的な学習の時間と基礎学力


〔財)日本教材文化研究財団平成10年度研究紀要(通巻28号)より


はじめに

総合的な学習の時間のねらいは
(1) 自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること
(2) 学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探究活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の生き方を考えることができるようにすること
であると新指導要領は述べている。
しかしながら、このねらいは総合的な学習の時間に限らず、教育そのものが本来目的とすべきものと思われる。
実は、最近の大学生の多くはこの二つの重要な力をほとんど身に付けずに大学へ入ってきており、大学での教育が極めて困難になってきている。
生徒が主体的に問題を探し、主体的に学習していく総合的な学習の時間は、今までの初等・中等教育ではなかった新しい試みである。生徒一人ひとりの個性を生かす学習形態を求めた一つの試みではあるが、問題点も大きい。特に、教科学習との関係については多くの考えが出され、議論が続けられている。新指導要領の総合的な学習のねらいの部分を読めば、総合的な学習の時間は教科学習の応用と読むことも可能である。
ただ、大切なことは総合的学習の時間が各学校の主体的な取り組みとされ、その内容に関しても各学校の主体性にまかされていることである。また、点数によらない評価も求められている。これまでになかった新しい試みであり、ここから初等・中等教育の新しい流れがでてくることが期待される。こうした点からも、総合的な学習の時間はぜひ成功させたいものである。しかし、そのためには学校と先生方の意識改革と、大変な努力が必要とされる。

本稿では、主として教科学習と総合的な学習の時間との関連をこうした観点から述べる。

新指導要領のジレンマ

大きな期待を抱かせる総合的な学習の時間であるが、実は大きな問題がある。「自ら学び、自ら考え、主体的に判断する」ことができるためには、基礎学力が必要である。自ら学ぼうと思っても、文章の読み書きができなければ学ぶことは不可能である。国語力の充実なくして「自ら学び、自ら考え、主体的に判断する」ことは不可能である。また、様々のデータから必要は情報を取り出すためには、グラフや表で表されたデータの読み方、あるいは、与えられた数値を表やグラフに直して必要な情報をはっきりさせる必要がでてくる。たとえば、環境問題では、ごくごく微量の化学物質が登場し、量的にきちんと把握する必要がある。こうした量の把握には算数・数学の力が不可欠である。また、化学物質の性質も知る必要がある。古人は「よみ・かき・そろばん」と言う言葉で基礎学力を表した。基礎学力をつけるのは教科学習である。「よみ・かき・そろばん」の充実があってはじめて総合的な学習が生きてくる。
しかしながら、事態は楽観を許さない。教科の内容が薄められ、かつ教科教育の時間が一律に削減されたからである。今回の指導要領の改訂の目玉の一つは教科内容の厳選によるゆとりの教育であるという。しかし、指導要領を素直に読めばそれは不可能であることが明らかになる。教科内容を厳選し、各教科割り当ての時間をそのままにしてあれば学習にゆとりがうまれ、教える方も様々の工夫が可能になる。しかし、内容を減らしても授業時間が減れば先生と生徒の負担は変わらず、ゆとりは生じない。教科時間を減らしてまでなぜ総合的な学習の時間を設けたのかと疑問を持ちたくもなる。

多くの先生方の心配は、基礎学力がないままに、総合的な学習の時間を導入しても成果があがらないのではという点であろう。それならば、総合的な学習の時間を基礎学力の充実の時間に使いたいと思う先生がいても不思議ではない。事実、そういう声を聞くことも多い。それを仕方がないことと認めてしまうか、それとは別の形で総合的な学習を進めながら基礎学力を充実させる道を探すか、苦しい選択が迫られている。

大変困難ではあるが、総合的な学習を進めながら基礎学力を充実させる道を皆で知恵を絞って見出していくべきであると私は考える。学校が主体的に授業を構築できる大切なチャンスを生かしたものである。そのためには、一つ一つの学校の経験を学び、生かすことのできる全国的なネットワークを構築する必要がある。
さらには、小学校から大学までの先生方の連帯も必要になって来よう。総合的学習の時間の導入は学校と先生方に根本的な意識の改革を迫っているといっても過言ではない。

教科教育初等・中等教育の目標は、生徒一人ひとりが成長して社会人として生活していく上での必要な基礎学力と「生きる力」を与えることである。その具体的な表現として冒頭で挙げた総合的な学習の時間のねらいをあげることができる。
基礎学力とは、生活をしていくとき出会う問題に自ら取り組んで解決することのできる基礎的な力の一つである。「よみ・かき・そろばん」という言葉がなによりもこのことを見事に表現している。そして、実社会での問題は総合的に考える必要があることは言うまでもない。このような点を考えれば、教科教育も本来はバラバラに存在するのではないことは明らかであろう。
しかしながら、研究者の学問分野の区分が初等・中等教育の教科の区分として厳然として存在することは紛れもない事実である。

また、現実の各教科の学習は本来は結びあっているものが多い。たとえば、英語の文章を正しく理解するには国語の読解力が必要とされる。算数・数学の文章題を理解するためにも国語の読解力が不可欠である。算数・数学の実力不足といわれているもの中には、実は国語の読解力の不足に起因するものがたくさんある。特に小学校低学年で国語の指導が丁寧に行われ、文章の読み書きがきちんとできるようになっていれば、高学年になったときに算数の学習で役に立つことが多い。学問領域の区分が初等・中等教育まで及び、各教科の有機的な結びつきが希薄なことは初等・中等教育で大きなマイナスの要因を作っている
ところで、現在の教育の荒廃を知育偏重に陥ったせいであるという論評をよく見かける。しかし、現在の教育の荒廃は知育がきちんと行われていないことに起因するように思われてならない。
知育とは事実を教え、暗記させ、テストで良い点をとらせる教育を行うことではなく、考え方の道筋を生徒一人ひとりが学び、自分のものとすることにある。事実の暗記もときには必要となるが、それはあくまで考えるための手段であって、考えることをなくした教育は教育の名に値しない。生徒達は、驚くほど本当の学問に飢えている。先生の知的営みが不十分であれば生徒は、たとえ小学生であっても、簡単に見破ってしまう。真の学問は、生徒一人ひとりの魂に語りかけ、興味を湧かせ、学問に対する畏敬の念さえ抱かせる力をもっている。教科の持つ真の学問的背景を忘れ、安易な教育が行われていることこそ教育の荒廃なのである。

まず隗より始めよ

昨年の12月、中教審答申が出され総合的学習の時間の導入が正式に決まったとき、NHKテレビの朝のニュースで、総合学習に長年取り組んできたある小学校の授業風景が放映された。環境問題を考える授業で、川を汚してもよいかというテーマで授業が進められていた。先生の意に反して、大多数の生徒が川を少しぐらい汚すのは仕方がないという結論に落ち着いた。すると、先生は突然授業を打ちきってしまった。ワーッという不満の声が生徒からあがった。自分の予想に反した結論を出した生徒たちに対して、なす術を知らない先生には正直驚いた。なぜ、先生は授業を続けることができなかったのか?「自ら学び、自ら考え、主体的に判断する」ことが不十分だったからである。川を少し汚すことがどのようなことか、それが10年続けばどうなるか、50年後にはどうなるか、川が汚れていることをどのように調べたらよいか、総合的な学習の時間に相応しい題材がそこから次々とでてくる。生徒達の答えをもとにして、そこから考えを深めることこそ、総合的な学習のに相応しいことであったはずである。

総合的な学習の時間の導入は、「自ら学び、自ら考え、主体的に判断する」先生であるか否かを生徒の前にはっきりと表させるリトマス試験紙の役割をするであろう。生徒は先生を恐ろしいほど冷静に見ている。「自ら学び、自ら考え、主体的に判断する」先生でないと生徒が判断すると学級は崩壊するであろう。生徒に「自ら学び、自ら考え、主体的に判断する」ことを要求する前に、先生が自らそのことを実行する必要がある。総合的な学習の時間は先生が生徒と共に考えることが必要になってくる。先生の基礎学力こそがまず必要とされているのである。それとともに、分からないことは分からないと生徒にはっきり言える先生でなければならない。学問に不誠実であることは教育に対しても不誠実であることである。私は、総合的な学習の時間は実は先生の学習の時間でもあると考えている。先生は、自己の専門を基礎にして、そこから生徒と共に、しかし生徒以上に深く広く学ぶ必要がある。

総合的な学習の時間と教科学習の連携を

総合的な学習の時間は、一方では基礎学力が必要であることを実感させる場になると思われる。総合的な学習の時間が、基礎学力の不足から、ともすればイベント的、お祭り的な話題に終わることが最も心配されることである。
たとえば、環境問題の学習と称して学校の近くのゴミ拾いをして、それでよしとすることなどがその最たるものである。ゴミを拾うことだけでは解決できない重大なことがあるからこそ環境問題なのである。上でのべたNHKで放映した例を取れば、近くの川を汚さざるを得ない現在の生活が今後続いていったらどのようなことになるのか、それを防ぐにはどうしたらよいのか、そうした身近な問題を手がかりに考えていかなければ環境問題への解決の道はない。
その際に、たくさんの事実を学習する必要があり、理科、社会の高度の知識さえ要求される。このとき、自分たちが関心を持ち、学びたいと思うときには、生徒は驚くほど高度の内容を理解してしまう。実際に必要になって学習するときは、その必要性がよく分かっているので理解しやすいからであろう。
こうした点で、総合的な学習の時間は教科学習の大切さを分からせるだけでなく、必要な教科の一部を深く学ぶ助けとなる。ただ、注意すべきことは、総合的な学習で得られる知識は断片的になる危険性があることである。そのような場合は、教科学習が体系的に知識を組み立てる役割を果たしてくれるであろう。このことを考えただけでも授業を行う上で両者の密接な関係が必要とされる。

ところで、総合的な学習の時間は生徒の興味に応じて様々の方向へと展開していくのが理想であろう。そのような意味では事前にプログラムをはっきりと決めてしまうことは難しいであろう。
しかし、その場合でも、教科学習と総合的な学習の時間で必要とされる知識に関してはある程度予測し、授業を組み立てていく必要がある。これは言うは易く行うは難いことであるが、皆で協力して解決していかなければならない。各学校の試みを互いに参考にしながら解決することが必要になろう。

幅広い交流を

総合的な学習の時間を実際に行う場合に、教科を主体にして行うか、教科を全く離れたところから始めるべきかという問題が議論されている。教科学習の時間がないから総合的な学習で補うというのでは困るが、先生が自分の特性を生かす形で総合的な学習を行う場合は、どちらからはじめても最終的には同じ地点に到達すると考えられる。本当に大切なことは、たくさんの未解決の大問題に直面する世代への教育として「自ら考え、主体的に判断する」ことの大切さを繰り返し教え、また先生自らもそれを実行することであるからである。
そこには統一的な教え方のマニュアルはない。自分の専門を生かし、互いに助け合う形で授業を行う必要があろう。そのためには多くの事例を、失敗した事例も含めて参考にする必要があろう。また、専門家との交流も必要となろう。日本総合学習学会は現場の先生方へのこうした援助と、小学校から大学の先生の交流の場として設立された。小さな学会であるが活用していただき、総合的な学習が新しい教育の道を切り開くことを願っている。
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上野健爾

日本総合学習学会会長

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