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2.「できることからはじめよう 総合活動・総合学習」

元横浜市立学校長 阪本 央


1.はじめに

  あせるな.あわてるな.本質の討議をおろそかにするな.

文部省では総合的扱いと言っているが、一方では総合学習.学習の総合化,クロスカリキュラム等いろいろな言葉が氾濫しており、そんな中で新指導要領に添って新しいことを進めていかなけれぱならないということから、悩んでいる先生方も多いことだろう。
総合という言葉は、今始まった言葉ではない。50年代の指導要績にはく教育課程の地方化>という言葉が用いられている。地方化とは、各学校の特色を生かして教育課程を作ること、それには、第一に地域の教育材を活用すること、次に他教科・他領域との関連を重視すること、三つ目として時間の弾力的運用を図ることが示されている。
即ち、rゆとりと充実」である。これは、受験戦争に伴う知識重視の教育や、系統学習(知識重視)の弊害から積み残し、取り残しの新幹線教育に対する反省から生まれた。その時に出てきたのが横浜の創意ある教育である。前面には「創意ある教育活動は創意ある教育ブランから生み出される」とうたっていたが、実際だはそうはならず、各字狡ではお祭り教育やイベント学習がはやってしまった。市の創意研ができたのはこの時である。
次に出てきたのが生活科である。「生活科という教科は、他教科・他領域との総合化を図ってやったほうがいい」、或いは「合科がいい」と言われながら、教科書が出されるようになってしまった。砒しても使い道がないのに。今度の目玉になっている総合的扱いについても似たようなことが.おきている。教科書会社がマニュアルを作って出す。現場では簡単だからそれに飛び付く。だが、マニュアルに従って授業を進めることなどは絶対にできるわけがない。
しかし、指導要領が変わって新しいことを進めていかなければならないということで、悩んでいる先生方が多くいることも事実。また、新指導要領について、現場で果たして本気で集団討議が行われているかということにも疑問が残る。そこで「あわてるな一あせるな,本質の討議をおろそかにするな」と言いたい。

2、私の考える総合学習

(1)なんのための轡会学習か

結合とほ何か・自校の教育課程をどうするか、どのように学習指導要領を展開するか,ということを1学期間かけて、或いは2学期に入ってもじっくり討議してもらいたい。校内の重点研だからといってすぐに研究授業の計画を立てる必要はない。研究授業後のお互いの傷のなめあいのようなことはやめにしよう。地域がこれほど変わってきている。子どもも変わってきている。そのことに対応しながら、研究会の時ち方にも発想の転換を図っていく必要がある。.講師を呼ぶにしても、何も分からない段階で呼んでもあまり意味がない。討論を重ね抜いて、尚且っ分からないから講師を呼ぼうというのであれぱ呼ぶことに必然性が認められる。
また、講師を一度に何人も呼ぷとお亙いに牽制し合うので、腹を割った話し合いがしにくい場合がある。講師は一人で十分である。
「総合学習って何だろう」「なぜ総合学習が必要なのだろう」「何のための総合学習なのか」。総合学習を行う上で先ず第一番目に必要なことは、目的と基本理念をはっきりさせておかなけれぱいけないということである。
目的とは,どういう子ともだ育てていくか、そのためにはどういう学校生活を子どもに送らせなければならないか。毎日子どもが目を暉かせて自分が生きる喜びを感じながら登校させるにはどうしたらよいかを、学校の規模や実態に合わせて明確な理念として踏まえておくことである。

(2)学校湿営の慣例・慣行を改めよ
総合化のめざすところは、子どもが「目を輝かせて生きる喜びを感じる(問題解決能力を身に付ける)』そういう学校を創っていくこと。従って、総合学習の第一点は、学校の経営改善である。これをやらなけれぱ、総合は完全に消滅していく。今の生活科と岡し道を辿っていくことになる。学校の質を変えていかなければならない。
どういう視点に立って学校の質を変えていくのか。先ず第一の視点は、必然性をもった学校経営が行われているかどうかということ。修学時健診、入学説明会、入学式の準備、1年生の給食の開始時期、春の遠足、家庭訪問、こういったものが本当に必然性をもって行われているかということを各字狡でどこまで討議したことがあるのだろうか。必要ならより教育効果を上げる方法も検討していかなければならない。
慣例/慣行に浸ってやっていけばいいという考え方では総合は位置づかない。
改善を加える例をして、「1年生を迎える会」を『OO公薗でスポーツフェスティバル』や、「1年生を迎えるOO公園'大集会』と題し、目当てをはっきりさせながら活動計繭を各学年におろして話し合わせる。どこへ何をしにいくのか、具体的に学級会で話し合わせる。野外活動なのだから、理科的な要素や社会科的な要素も含まれてくるし、歌を歌おう、歌う歌を作曲しようということで音楽酌な要素も加わる。また、親に向けて報告会を持とうということになれば、感想文や説明文を書くことも必要になり、色々な意味で総合化できる。
学校行事を完全に子供のものとしてとらえる。子どもがその場所へ行かされるのではなく.自分たちで行くのだという計画を作る。行った先でどういう会の持ち方をするのかということが、すべて学習内容として盛り込まれていく。このような実践を通しながら学級、学校の質が少しでも改善されることによって、子どもは必ず育つ。
教師が子どもの育ちを肌で感じることができるようになり、感動や喜びが生まれる。そうすると教科の学習ががらっと変わってきて、教える活動から学ぼせる活動へと変化してくる。いつの間にか「やらせは駄目だ」という雰囲気が職員間に生まれてくる。「あなたはやらせよ。やらせはだめよ」という雰囲気が学校中にみなぎってくる。結果的にその学校では、子どもが生きる喜びを感じ、輝きながら学校にくるようになる。いじめも登校拒否もなくなる。そして、授業の方法も変わってくる。更には、完全に市販テストも消える。なぜなら、一方では教科学習を教えてテストで点を付ける、一方では主体的な学習を促さなければならないとなると、こっちはやらせでこっちはやるということになり統一性がとれなくなる。子どもはそれほど器用ではないので、二重性を持った学校生活では、子どもは育たない。歴史博物館ヘグルーブで行く例がよく見られるが、形ばかりまねしたのでは駄目。子どもに一番必要なのは統一性である。教師ほそのへんを十分に覚悟しておく必要がある。
何のための総合化か。目的と理念をはっきりさせる。単元を作り直す。建前と本音を使い分けないで、本音で子どもの日常生活にかかわる一一これが自分の考える総合学習の勝負どころだと思っている.

3、実践にあたって
実践にあたってどうするか。単元構成の種類を4つに分けてみる。

(1)学級・学年・学校経営改善から生み出される単元構成
先ず、学級・学年・学校経営改善から生み出される単元機成。行事単元を単元化する。児童活動単元を1つ組んでみる。例えば「全校ゴミ大作戦」。児童活動として総合的に取り上げようということで、子どもの方から代表委員会や役員会を開き教師が問題提起をする、《ゴミ大作戦をやろう》と。地区別の縦割りで場所を決めてゴミを拾おう,1週間のスパンでゴミを拾ったら、4年生が天秤の学習をするから目方を測るのは4年生に任せようとか、地区別に校長先生に賞状を出してもらおうとか決めさせる。環境問題を取り上げなくてもゴミは完全になくなる。ゴミ捨いを通して感じたことを国語教育の一環として1年から6年まで感想文にまとめる等を加えると十分に総合化が図れる。大きな環境問題に取り組むための種を播くこともできるかもしれない。
運動会。今多くの学校では体育部が中心になって、あまり討論もせずに昨年通りにやっている学校が多いのではないか。これを子どもの手に任せてみたらどうだろう。「○○小学校秋季体育大会」でもいいし、子どものネーミングを使って「スポーツ○○フエスティバル」でもいい。地域に飛び込んでやるとすると変わる方向性を示さなければいけない。1年生なら学習内容として何を盛り込んでいくか。自分たちのプログラムを親に知らせるための招待状を書いてみるとか。6年生なら地域のお年寄りを全部ピックアップして手紙を出すとか。或いは、全学年3クラスであれば、『3クラス対抗○○争奪戦』という企画も考えられるし、全校児童が300人しかいないところだったらそれを4チームに分け、親も加えてそれに即応するようなプログラムを組んでみる。それを一つの学習とするならば、単元をきちんと作り上げる。そうすると、必然性のないやらせの応援団ではいけなくなってしまう。運動会の質を変えること、これは教師が提案していたのではできない。連動会をどうするかということで話し合うことが総合につながる。だから、すぐできる。できることから始めようということになる。

(2) 直接体験が継続的に実践できる単元構成
次に、直接体験が継続的に実践できる単元構成。畑があるところはそれにのめり込んで、ずうつとそれを核にしてやっていく。コアを栽培にし、1年中それを追いかけていく。ナスやキュウリを作ったという歴史から、食物の保存、食物の歴史という具合に一貫して食べ物を追求することで、社会科の歴史とも結び付げることができる。5年生だったら、赤米と黒米を栽培し、家庭科の時間にそれを炊いて、普通のご飯と食べくらべてみる。子どもが明確な目標をもってやるから、困難を乗り越えていくことができる。これが問題解決学習なのである。直接体験が継続的に実践できる単元構成はカレーライス型と呼ぶこともできる。カレーライスは子どもが大好きな食べ物であるが、カレーライスの要素は何かというとジャガイモ、ニンジン、タマネギ、肉の4つとスパイス。それぞれを子どもに別々に食べさせようとしても、好き鎌いが多く限界がある。これをごちゃまぜにしてしまうと食べられるようになる。それぞれの野菜が国語や算数だったら、これを全部吸収することができる。栽培活動によって、知識としてでなく知恵として子どもに与えることができるわげである。また、スパイスについてはコンピューターや図書館の利用も考えられ、多面的な活動も望める。
直接体験が継続的に行われる単元構成は、このように子どもたちが最も知恵を獲得できる重要なものである。初めの学級学年経営・学校経営の改善から生み出す単元構成と、次に挙ばる教科を中心とした単元構成=パイナップル型あたりが身に付いてくると、教師の力量も高まってくるので、必然的に直接体験が継続的に行える単元構成に移行してであろう。が、そこまで行くには時間がかかるので無理はしないほうがいい。

(3) 教科を中心とした単元構成=パイナップル型
次に、教科を中心とした単元構成:パイナップル型について。パイナップルには芯があるが、芯を抜きさえすれぱそこにいくらでも入れ替えができる。体育が得意な教師なら、そこへ体育のコアを入れ、「日本一周マラソン大会をやろう」ということを一つの目的に取り組ませれぱ、子どもは早朝や下校後も取り組むであろう。何キロ駆けたかを地図の上で確かめられるようにしてやれぱ、社会科との関連にもなる。
国語をコアにした実践例はすでにたくさんある。例えば、物語文をどう理解させるかという場合。「『人造じいさんとガン』を紙芝属に作り替えて低学年に見てもらおう」と単元構成をすると、場面をいくつにするか、文意もしっかり掴まなければ、読み方もきちんとできなけれぱ、ということで取り組みが活発になる。指導書からはなれ、一回子どもの生活に返して子どもの自己実現の成就感をうんと与えてやる。そうすると、今度はもっと心情の深いものを劇化してみようという方向に発展していくであろう。
理科の自分自身の実践例。「酸とアルカリ」の学習で、<酸>と〈アルカリ>を的確に個ませるにはどうしたらよいか。学校にある梅を採り、足りない分はグルーブごとに買ってきて、各班2キロぐらいずつ用意した。「明日清けるので、塩の量、漬物の容器、漬け方等についてどこででもいいから調ぺてくるように」と伝えた。子どもたちはとにかく調べてきた。すぐ漬けようとすると、「先生、一日水に浸けた方がいいらしいですよ」。さらに教師が用意した容器に対しては一目で拒否。子どもたちはプラスチックの容器を用意していた。「君たちはどうして缶を持って来なかったの」「先生、そんなことをしたら、梅が漬かるころには穴があいちやうよ」「どうしてそんなことを知ってるの」「お母さんが、梅は酸だから缶を溶かしてしまうって」。こんなやりとりから、酸とは何か実際に缶が溶けてしまうのかどうかを科学的に証明するための実験装置を作って調べることにした。色々な金属で試し、すべてを科学的に証明することができ、発表会をもつことができた。事後の評価でも100パーセントの子が理解できていた。理科においても、やり方によっては総合化が図れるわけである。

(4)基礎的・基本的なことを定着させるためのドリル単元
次に、基礎的・基本的なことを定着させるためのドリル単元について。総合にかかわって、今一番心配されているのが基礎的・基本的事項が定着していないということである。これは大変な問題で、受験のときに微分・積分を解く東大生が、小学校の分数の問題が解けなかった事例もある。いかに日本の子どもたち、着い人たちの学力が落ちているかということである。なぜなのか。それは、知識としてしか吸収していないからである。知識はあっても知恵がない。また、知恵は知識によって裏付けられるものであり、より高度な知恵を持っにはより高度な知識を吸収しておかなければならない。ということは基礎的・基本的事項をおろそかにしてはいけないということで、これをおろそかにすれぱ世の批判を浴びるであろう。文部省があせって学習内容を3割削減してしまったが、これは恐ろしいことでもある。小学1年で分数から割り算までできる子がいてもいいし、6年で中学の問題ができる子がいてもいい。特に歴史については、「僕は歴史博士」という子がいてもかまわない。小学生がやっている環境問題も、大学生がやるようなことをやっているわけだから。どうして剛滅してしまうのか、腹立たしさを感じているところである。
学力とは何なのか。具体的な例を、地域のゴミの探検調査にとってみよう。地域の実情を訴えるために新聞を作ろうとする。それを担任教師が見て、「あなたがたは3年の1学期だから、漢字もあまり覚えていない。地域の人に配るには漢字も書けなきゃみっともないでしょう」ということから、毎朝漢字の練習が始まる。子どもたちには、新聞を作るために漢字を覚えよう、ぼく達の意見を聞いてもらうために漢字と数字をきっちり覚えようと明確な目標がある。基礎・基本はそういった活動の中でしっかりと身に付くのである。総合』は、基礎・基本をおろそかにするものであってはならない。』総合L幽身幽。そのために、基礎・基本を知識として生かしていく必要がある。言い換えて言うと、「基礎的基本的なことを定着させるためのドリル単元」は、指導方法の改善であるということが言える。

以上が4つの単元構成についてである。1番目の学級・学年・学校運営の改善から生み出す単元構成が一番入り易い。次が3番目の教科を中心にした単元構成。2番目の直接体験が継続的に実践できる単元構成は、作業内容が困難な場合があるので、教師がそうとうに学習を積まないと難しい。相談にのってくれる方がたくさんいるので、個人的に勉強するとよい。集団的学習ではなかなか身に付かない。伸びている先生は、ほとんど個別に掲導を受けた先生方である。
校内の研究授業は、どこどこをやろうとしたら大概失敗する。「どこをやる」のではなく、どこまでいっているかでありいったところまでをそのまま見せれぼよい。従って「一週間前までに指導案を」という講師であれば、呼ばない方がいい。本当にいい講師だったら、原案を練るときに来て検証してくれるのでいい指導案が作れるし、そこまでいかないと研究が本物にはならない。

4、単元構成にあたって

〈1)明確な目的意識をもたせる

目的意識も持たせるのに一番いいのは、行動目標を決めてやることである。問題解決が終わり、終末になったとき、子どもが成就感ややり遂ばた喜びを味わえるのは、第三者が介在し喝采を浴ぴたときである。従って、単元名もそれを意識したようなものがよいであろう。例えば「ぼく・わたし町の探険隊になって地域の人に知らせよう>、低学年だったら『幼稚園や保育園の子を招いて学校の楽しさを教えてあげよう』とか。実際に園児を呼んで一緒に給食を食べたり遊んだりすることを生活科で取り組んでいるところもある。明確な目的意識があるので、子どもたちは生き生きと活動する。もっと進むと、公園で働く人とか公園をテーマにしながら、理科で2年間追い続けているいる例もある。調べると公園には外来種のタンポポが多い。そこで、ニホンタンポポを育成しようということになる。これは環境教育にもっながってくる。

(2)意識の流れを重視する
明確な目的意識を持たせたら、次は、意識の中身を重視しながらその流れを見取っていく。教師の支援のポイントはここにある。

(3)自己実現の場の保証,実践したことを第三者に向けて発表する場の構成
教師が児童の意識の流れを重視していくことにより、児童の自己実現の保証がきちんとできるようになる。その場合、役割分担を必ず行っておくことも大切なことである。これは、第三者に向けて発表する場の構成を必ず持つようにすることで更に確実なものとなるであろう。

(4)総合表現力を駆使する
ここのところが教科の学習内容を一番取り込めるところである。
いくつか例をあげてみよう。3年生が町の様子をずうっと調べて一冊の本にまとめる場合。例えぱ〈O○の今日的発展の仕方>、ネーミングもうまく自分たちでつけている。その時に、人口の移り変わりやなにかを全てグラフに表していく。昔の写真からその当時のことを引き出す。カットの仕方、文章の表現の仕方、文章の練り上げまでやっていく、これが総合である。発表する段になると、おじいちゃん、おばあちゃんに昔の歌から今の歌、童話的なことや伝説を聞いてそれを劇化してみる。いわゆる総合表現力である。そういうところで教師の力量が最も発揮されるし、活動の質がぐっとあがり身に付く、さらに各教科の特質も生きてくる。

(1〉-(4)を踏まえたいくっかの事例を紹介しよう。生活科の学習(総合学習)の中で見られた事例。
<秋をさがそう>でドングリを拾ってくる。「何作る」と聞くと子どもはすぐ「こまを作る」というのでこまを作るが、作っても回らない。そのドングリはすぐに捨てられてしまう。これでは成就感もなければ何にもない。何故なのか。何のためにこまを作るのかという問いかけを教師がしていない。つまり支援が何もなされていない。
支援というのは練り上げである。子どもの意志を練り上げる。こどもの立場に立って練り上げる。即ちこまを作ってどうするのか。だれかにあげるのなら、あげるようにきちんと作らなければいけないので、そのあたりの指導をしていかなければいけないわけである。
別の2年生の事例。学校にいくらかの空き地があって、いっぱい色々な野菜を作っている。メロン、キュウリ、スイカまである。今の季節(7月)なのでまだ青々としている。「先生、このメロン育つの」「いや、分かりません」。「そう、でスイカは」「?]。子どもの願いや思いを尊重し、子どものやりたいようにやらせているという答え。これは問題である。作物を決めるときは、先ず練り上げをしなければいけない。その作物がどういう育ち方をするのか、メロンを作るにはどれだけ難しさがあるかを知り、それを克服して作るのならいい。壁にぷつかったときに誰かに聞いてくるとか、郷士で調べるとかの手立てが講じられていれぱいい。知的好奇心を揺さぷらないような実践ではだめである。これでは、恩いや顧いを聞くのではなくわがままを聞くにすぎない。結果的に、成就感を味わえないから挫折してしまう。どう教師と討論したかで結果が違ってくるのである。
前のドングリの謡にもどるが、子どもが作るときは教師も一緒に作るようにするとよい。教師が作ったものを見せても、子どもは絶対にまねをしないだろうから。子どもの思いだとか自主性にかぷれすぎてはいけない。
くしてみせて、やらせてみせて、ほめて育てる>
これほ昔から人を育てる上での大切な要素である。生活科や総合学習をやっていく上で、このことは特に必要なことである。
歌を作っておかあさんがたに集会で聞いてもらおうという場合のなげかかの例。「どういう歌い方をするの。じゃ、そのへんは音楽の先生にしっかり習っておいでね。放課後に練習しておこうね。そうしないとおかあさんたち、ちっとも喜ぱないよ」。こういった中で基礎的教育力がどんどん育ってくるのである。
授業観をどうみるかが活動の質を変えることになる。
ミニトマトを育て,観察記録カードにただ何センチ伸びたとかを記録している場合がある。これは2年生の例であるが、子どもはちっとも楽しい測定をしていない。楽しい測定の仕方を教えなければいけない。教科書では、9月、10月の扱いになっているが、これを組み替えるのほ教師の裁量権。「どんふうに測るのが正しいの、くにやくにやしているからね」。「もっと簡単に測れる方法はないのかな」「10センチのものさしを作っておけぱいいよ」「じやあ作ってみようよ」「どうする。1ミリってどういう単位」
こういった中からこどもは算数の基礎的基本的なことを知恵として覚え、測定ということを忘れない。生活科の学習でも算数をやれぼいい。
「今日は、一つの調査した。した資料をもとにして新聞を作るために、説明文とは何かを勉強するのです」。子どもの目的は説明文を学習するのではなく、いい新聞を作ってみんなに訴えることであり、そのために今汗をかくのだということが分かれぱいい。

4、終わりに
最後になるが、こういったことをやっていくには、教師が子どもの目線に立って、自分も一緒に活動していくのだという姿勢を持つことが大事で、これを忘れなければ大丈夫である。『発表する、発表するというけど、うまくいくかなあ。どういうふうに発表したたらいいのかなあ」「そこにどういう工夫をしたらいいのかなあ」。子どもに、そういう気付かせをすること。そして、それを活動に移すこと。さらにそれを計画として練り上げること。これは、留意点とは明らかに異なることであり、支援というのはそのようなことである。
計画の練り上げ、これは言い換えれば"寄り添う"ことであり、これが''支援''である。
いま先生方にできること、それは、今学校で行っていることを単元化すること、質を変えるということである。行事を見直すことから入るのが一番人りやすいのは、先に述べたとおりである。とにかく、来年の連動会を先生方の英知を搾った計画で実施してもらいたい。研究授業があるから早く片付げちゃおう、という考えもあるようだが、運動会が子どものためにあるものなら,時期をしっかり考えなけれぱだめである。研究授業がそれほど大事なのかと言いたい。学校行事をやっつけ仕事では絶対にやってほしくない。

※質疑応答から
私自身の考える問題解決学習とは、生活課題を解決するということである。それ以外は問題解決学習とは言わない。経験主義カリキュラムに依存しない限りは問題解決学習はおこらない。人類の発展経過、社会の発展経過にもよるが、人間の社会というのはこれによる。生活課題を解決することによって問題解決しながら、人間は進歩してきた。
具体的に言うと、寒いときに綿入れを着る。学問体系のない時代は、技術の伝承によってそれを知った。文化が発展した現代になると、課題を解決する要素がなくなってしまった。暑いと思えば冷房があるし、寒いと思えば暖房がある。お腹が空いたと思えぱお菓子があるし、椅子に座ろうと思うと名前が書いてある。今の子は迷わずそこに座ってしまう。背の大きい子が前に座って、背の小さい子が後ろに座って。靴箱にしても背の大きい子が下に入れて、背の小さい子が上に入れる。子どもが決めればいいのに。このように、生活課題になる要素が全部とられてしまう。だから、子どもから課題解決能力が金く失われてしまった。
一方的な情報化社会となってきた。そこで、アメリカや先進国では、なんとかしなければということでソクラテスやペスタロッチの時代にもどせと、体験を重んじる生活科が生まれてきた。体験の要素としては、飼育・栽培を核にし、これを土台とした。もう一つは、社会的事実とかそういった類いのものがある。これを解決させることによって、生活の課題から問題解決学習へと移行する。知識から知恵への転換を図ろうというもの。問題解決能力が即ち知恵なわけである。この知恵をもっともっと膨らませるにはどうするか。ここに出てきたのが知識系統。.小学校でいう教科、国語・算数。理科く自然や物理・化学の分野)、それに社会科のことであるが、自分としては今の社会科は社会科と認定しがたい。自分の地域がどう変化したかを調ぺれぱいいのに、それをやらずに日産自動車や吉田新田について扱っている学校がある。教材社会科になってしまっている。質を高めていくためには生活課題が入っていなければいけない。即ち生活単元である。問題解決学習とは、以上のような系統を踏まえた学習をいうのであり、生活科の本論もここにある。生活科は決して難しいことをやるのではない。

熱心に穣いてくださって、ありがとうございました。