きのうのあす
中西 進
島津斉彬
島洋斉彬(しまづ・なりあきら)とは、知る人も多い薩摩の名君だが(1809〜1858)、この人が書いたローマ字日記を見たことがあった。
じつに端正な書きぶりで、流麗である。あえて白状すれば、和服を着、頭に髷をのせた当時の日本人とローマ字とが、私の中でははなはだ不調和だったから、その時私は無邪気におどろいた。
もう明冶改元までわずかに十年、アメリカもロシアもオランダも日本のいたるところにやって来ては開国を迫っいた時代だから、考えてみればローマ字日記だって当然なのだが、しかし一方、尊皇壌夷のかけ声もはげしく、のちには当の薩摩藩も生麦事件を起こして2万5千ポンドをイギリスに払うにいたるのだから、やはりローマ字日記に感心しても、多少は許してくれるもしれない。
地球儀も愛用し、ローマ字日記を書く開明派。たしかにここに斉彬の特質を見ることができる。しかし斉彬のほんとうの大きさは、人間のネットの作り方にある。
彼は福井藩主・松平擾水(よしなが、春嶽)の仲介によって老中の阿部正弘と親しくなる。水戸斉昭を信頼して海防総裁に推す。時局の切迫を、福岡の黒田長博(ながひろ)、佐賀の鍋島閑蔓(かんそう)、米沢の上杉斉憲および松平慶永らと相談する。
土佐の山内豊信(とよしげ、容堂)も斉彬の人物に敬服していたというから、よしみを結ぶひとりであったろう。勝海舟が薩摩へ南下した時も厚くもてなした。勝はのちに斉彬のことを群雀の中の大鵬と称している。
これらの斉彬への信頼を、ひとり人格に掃することはできない。彼が人間関係に目くばりを怠らず、その関係の中で事態を解決しようとした、その政治姿勢がおのずからに人格評価になったと思われる。斉彬が対立した井伊直弼(なおすけ)は武断派の政治家だった。その決断力や行動力が日本を救う大きな力となったことは、否定できない。しかし斉彬は直弼とは対立的であった。だから斉彬が考えたことは大きい。安政二年(1855)12月16日、松平慶永に語ったところによると「いま中国は滅亡の危機にある。中国が滅べば日本も危ない。だから日本が軍事的圧力を中国に加えれば、内乱もおさまり、英仏の植民地化への野心もくだくことができるだろう。そこで東海、東山、畿内、近畿、中国の諸大名は中国本土へ向かい、九州、西国の諸大名は安南、交趾(こうし、ハノイ地方)方面に出兵、北越、奥羽の諸大名は北から中国に迫ればよい」といったという。
まことに気宇壮大である。しかも全日本を一つとして国難に当たろうとするところ、これまたネットワークに立った考えである。そしてまた、直接の危倶は中国の内乱に向けられている。大半の政府首脳陣が、眼前の黒船に有往左往しているときに、その根幹ともいうべき中国問題を解決すれぱ、自然に枝葉の日本の問題もおさまるだろうという発想が、何とも卓抜であり、本質的である。
さらにまた、斉彬の中にはアジア主義がある。日本と中国とを一つと考え、その体制の上で欧米のアジアへの帝国主義を阻止しようとする思想は、さすが南海に面した大国の主たるにふさわしく、長年琉球との通商をつづけてきた薩摩にしてはじめて発想可能なものだったにちがいないが、当時の政治家のだれひとり思いつくものではなかった。斉彬は寵臣の市来四郎に北京、天津、上海、広東を廻らせ、欧米の魔手を実見させることを企てたという。実現しなかったが、これも斉彬のアジア主義の一環であった。
斉彬はこんな図式の中に、国難を乗り切ろうとしていた。ただ、この斉彬が様子をかえて、軍事行動に出た。安政五年(1858)8月、兵を率いて上洛、朝廷を讐護しようとしたのである。すでに前年4月、近衛邸で讐護の内密の勅命を受けたらしい。急遼、軍兵の宿舎建設も命じている。5年正月、斉彬は藩の主だった者どもに上洛の計画を話し、以後軍事訓練をくり返した。
ところが、この上洛警護の計画は挫折した。7月8日、炎天の天保山で大演習を行なったのち、突然腹痛を起こし、16日の夜明け、五時に絶命してしまったからである。死因はコレラとあるが、毒殺説もあり、魚の毒に当たったともいわれる。
いずれにせよ、50歳の壮年をもって、壮途はむなしく潰(つい)えた。しかし、この大挙上洛、朝廷警護という行動は、私の目には異様に映る。あの思慮深くて、人問ネットに自くばりして来た斉彬としては、魔がさしたように衝動的である。近衛忠照(ただひろ)ら公卿の術中にはまった感すらある。そう考えると、勅旨をいただく時の斉彬には、異常な興奮が見てとれる。
薩摩藩内の政治に、斉彬は目ざましい個人プレイを見せる。それは大いによかったのだが、朝廷警護の単独プレイはそれなりに大きな敵を作り、薩摩は列藩の矢面に立ったはずだ。
私は斉彬のネット法を、すこぶる近代的な方法だと考える。日本を出でてアジアに生きようとする国家論も、まれに見る新しさをもっている。そこで、近代を先どりしたこの知者に蹉跣(さてつ)の生じた原因が、上洛朝廷警護という、まるで繊田信長さながらの衝動だったとなると、斉彬流の政治手続を破産させたものが斉彬自身の中にあった「朝廷」だったことになろう。「朝廷」には媚薬がある。
斉彬急死の死因は、私にもわからない。わからないが、むしろ死が斉彬の汚辱を救ったともいえるのではないか。しからば斉彬を殺したものは天だったというべきであろう。
(帝塚山学院大学国際理解研究所長)
1996/2/4/日 日経朝刊 掲載