知の三部作の意味
東大教養学部のサプテキストでベストセラーとなった「知」のシリーズが、さきごろ出版された「知のモラル」で完結した。大学の外からも大きな反響を呼んだこの三部作は、大学改革が進めた一般教育の解体、オウム真理教事件が象徴する「教養」の空洞化へ、重い問いを投げ掛けている。
(編集委員 柴崎 信三)
九四年に出版された「知の技法」が、入学したばかりの学生を対象に学問の手法・技術を実践的に解説したのに対し、昨年出版された「知の論理」は大学三年生を対象に、二十世紀という時代が生んだ知的な営みのダイナミズムを浮き彫りにした。
再構築のテキスト
今回第三部として出版された「知のモラル」は一転して、卒業して社会へ出て行く人々、すでに社会で活躍している人々を念頭において、知識や学問が具体的な現実とのかかわりの中でどんな貢任や選択を伴うのかに焦点を合わせている。
同学部の文科系1年生の必修科自「基礎濱習」のために若手教員らが手掛けたこのシリーズが、他大学や社会人からも注自されて空前のベストセラーになった理由は、まず90年代の大学改革で実質的な解体が進んだ教養教育の新たなモデルという性格からである。カリキュラム、学科の編成や入試の方法など、大学をめぐる国の規制が91年の大学設置基準大綱化で大幅に緩和された結果、現在多くの大学で進んでいるのは「個性化」へ向けた専門教育の強化である。
四年制大学では従来二年間を一般教育課程とし、人文科学、社会科学、自然科学の三系列から十二単位ずつ、計三十六単位の取得が義務付けられていた。改革で一般教育と専門教育の区分そのものがなくなり、各大学の自由なカリキュラム編成が可能になった。教養教育の解体は、戦後米国から輸入した一般教育の思想が根付かずに空洞化して必然的に生じた要素があるが、行政の主導で進められた大学改革が「専門教育強化」の側面でもっぱら理解されてきた事情も大きくかかわっている。
東大などでは大学院重点化により、専門教育の拠点が大学院に移され、京大や神戸大では一般教育を担当する「教養部」を「総合人間学部」などの新たな学部に衣替えした。しかし、この間高等教育機関への進学率は改革前の予測を大幅に上回り、大学の大衆化がますます進んでいる。その主体は専門教育への具体的な目標を持たずに、「成熟を求め、自己発見を求めて大学にやってくる一般学生」(ベン=デビッド)であり、教養教育の二ーズはむしろ高まっているというべきだろう。
東大教養学部の「知の三部作」は、そうした改革をめぐる試行錯誤の中で現場から生まれた「教養再構築」のテキストであり、ある意昧では30年近く前の大学紛争が提起した問いへの答えという性格もある。
大学紛争にも触れる
編者の小林康夫、船曳建夫両氏は今回の「知のモラル」の序文で、現実への柔軟な対応能力を失った大学という知の制度を更新するために「専門区分という大学の制度に拘束されない一定の土台のようなもの」の重要性を指摘している。執筆者の中心をなすのが大学紛争世代で、改革の渦中でそれぞれの専門領域を論じながら紛争の経験に触れているのも典味深い。もちろん、教養教育の再構築は他の大学でもこのような具合に進んでいるわけではない。外国語とコンピユーターのリテラシーを除けは、教養教育は専門重視の大波にのみ込まれつつあるのが現状だろう。東大でそれが可能だったのは、教養学部が独立した学部として専門課程と大学院を持ち、そのスタッフが全学の一般教育課程をカバーしてきたという特殊性に負うところが大きい。しかし、この「知のシリーズ」が得た反響の大きさは、専門分野に細分化する大学の「知」に統合された意味を探りたいという、学生や社会の要求の表れと見ることができる。ベストセラー「ソフィーの世界」に見る哲学プームとも共通する底流だろう。
非独立組織の弊害
新制大学の発足とともに歩みだした専門と教養の両建て教育システムが崩壊した背景には、一般教育課程が人事や予算などで独立性を欠いた組織だったことがある。
現在の大学改革の基調を作った86年の臨教審第二次答申、89年の大学審答申でもこの問題は十分に論議されたとはいえない。その結果、例えば多数の若い理工系の頭脳が妄想的犯罪に加わったオウム真理教事件には、この間の大学の「教養の空洞」が大きな影を落としているようにも見える。
「知の三部作」のインパクトは、こうした大学改革をめぐるひずみの産物ともいえる。皮肉な現象だが、この事件と前後して、大学やジャーナリズムに「教養」のあり方を問う論調も目立ってきた。「生きるための知」の必要性が、現場でようやく認識され始めたということだろう。
文系と理系の知の融合、国際化や文明的課題を視野に入れたこの著作は、風化した戦後の教養教育に代わる新たなモデルとして、大きな影響を与えそうだ。
学校の活性化促す学区撤廃
文部省の調査によると、学習塾通いする小学5年生の割合は、85年の21%から93年の31%に増えている。どうして通塾する子供が増えるのだろうか。子供たちに学校の担任教師に対する気持ちと対比させて、塾の教師への評価を尋ねてみた。
「教え方のうまさ」は担任教師の34%に対し、塾の教師は51%。子供の多くは、学習塾の教え方はうまいと思っていると予想していたから、この数値には驚かなかった。しかし、「幅広い知識を持っている」と思っているのは、担任の34%に対し、塾は44%。「先生として尊敬している」は、それぞれ29%と37%だった。子供たちは学校の先生より塾の先生に、教え方だけでなく、心の面でも信頼を寄せているのである。子供たちによれば、学校の先生は忙しそうで、話をする機会を見つけられない。でも、塾の先生は授業が終わってもラウンジにいるし、帰り道にファストフード店に寄りながら解き方を教えてくれる。だから、塾の先生の方が親しみを持てるし、話をしてみると、よく勉強をしているのがわかるのだという。
データを見る限り、塾は企業として努力をしているのに、学校は独占企業の状況に安住しているように思われる。欧米では学区の枠を撤廃し、自由にどの学校へも入学できる制度が浸透している。そうした形で学校の目由競争を促しているわけだが、日本でも学校の活性化のために、学区撤廃に踏み切ることも必要なのかもしれない。