小学生的教養
安野光雅
1998/1/28/水 掲載記事
買い込んでいた「日本幽囚記」岩波文庫を読んでいて、ハッと思ったことがある。この本は無類に面白い、ぜひにと人に薦めたいが、ここで言いたいのは、この本を半ばまで読んで、旧漢字、旧仮名使いで書かれていたことに、やっと気がついたという話である。
旧漢字であるばかりではない、文字使いも難しく、たとえば、國後はクナシル、揮捉にはイトルウプとあるが、それぞれルビがふってあったので、かくべつふしぎにも思わず読み進んだ。このように書くと、いかにも古文書が読めるぞと、得意になっているように聞こえるかもしれないが、そんなことはない(これは古文書ではなく、ゴローニン著の記念すべきベストセラーの一つ)。むしろ、わたしが歳をとっていたことを悲しむ思いのほうが大きいくらいだ。
申しあげたいのは、このような旧漢字が読めるのは、実は小学生的教養のためだということである、小学校で習った旧漢字はみんな読めるし今でもだいぶ書くことができる。小学校以後に親しんだ漢字は、読むことはできるが、書けないものが多くなる。われわれは、一時間も会って話した相手でも、一度会っただけなら忘れることが多いが、毎朝通勤の途中で、二秒ばかりしか顔を合わせない他人でも、覚えている。毎朝二秒の合計で、一時間になるには五年もかかる。英単語と一時間にらめっこしても、覚えられず、いつのまにか出会っているMEM0RYは知らぬまに覚えているようなものである。
言いたいのは反復練習の大切さであるが、もっと言いたいのは、小学生的教養のことである。小学生のころにインプツトされた方言は未だに直らないし、意味も解らずに唱えた百人一首は今になって息をふきかえす。
昨日のことは忘れても小学校の頃の思い出は、去ることがなく、頭の中で故郷そのものを形作っているのだ。
算数の九九、四則演算、常用漢字の記憶が、どんなに大切かということはもう言うまでもあるまい。これらは小学生的教養であり、そのころ覚えなかったら、一生の不作となる。いいかえれば、わたしがいまになって外国語をはじめても無理だということでもある。
文字の反復練習は、小学校の宿題のように、毎日二十字づつ書くのでいいのだが、実際に本を読むことも大切である。ピアノの練習のことを思えばわかるが、ピアノの楽譜を見て、その示すままに指が動くのは、楽譜と頭と指の連動であり、練習によっていくらでも早くなる。本を読むことも、目と頭の連動という運動の問題なのだから小学校で本を読むくせをつけなかったら、必ず後悔するときがくる。
「り・ん・ご」と一字づつ読み、「あっ、リンゴだ」と驚きの声をあげた幼児は、文字の世界のすばらしさをかいま見たはずである。しかし、今の子は本を読まないと言われているが、本当はどうなのだろう。(画家)